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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第4話 久しぶりのグラウンド、眠れる獅子の目覚め?

 土曜日の朝、午前八時。


 大阪の郊外にある河川敷のグラウンドに、大野健太は立っていた。


 空は晴れている。


 春の風が吹いている。


 そして、健太の手には、去年のボーナスで買った高級グローブが握られていた。


「やっぱり、野球はええなあ!」


 健太は、誰に聞かせるでもなく声を上げた。


 先週、恋愛強化計画を始めたばかりだった。


 コンビニの女性店員に「今日は暑いな」と声をかけただけで、仲間たちから散々いじられた。


 しかし、今日の健太は違う。


 グラウンドなら自分の庭だ。


 高校時代、強豪校の野球部に所属していた。


 レギュラーにはなれなかった。


 公式戦で大活躍した記憶もない。


 それでも、あの厳しい練習を三年間やり抜いたという自負がある。


 社会人になってからも、草野球を続けてきた。


 だからこそ、健太は思っていた。


 恋愛は素人でも、野球なら自分には経験がある。


 経験のない分野で失敗しても、経験のある分野で自信を取り戻せばいい。


 そんな考えが、健太の胸を満たしていた。


「おーい、健太!」


 背後から声が飛んできた。


 振り返ると、捕手兼チーム代表の田村剛が、スポーツバッグを肩にかけて歩いてきた。


「お前、早いやんけ」


「当たり前やろ。今日は久々の練習やぞ」


「先週の作戦会議では、恋愛の練習ばっかり考えとったくせに」


「野球と恋愛は別や!」


 健太が胸を張ると、田村は笑った。


「その自信、恋愛にも分けたれや」


「うるさいわ!」


 二人が言い合っていると、ほかのメンバーも集まり始めた。


 一番乗りは、相変わらず自称エースの森川信也だった。


 森川は新しいスパイクを履き、肩にかけたバッグから高級なグラブを取り出した。


「今日は投げるで。去年より肩が仕上がっとる」


「去年も同じこと言うとったやんけ」


 石田雄二が、コンビニで買ったパンを食べながら言った。


「今年は違う。フォームを研究したんや」


「動画見ただけやろ?」


「見るのも研究や!」


 森川は反論したが、石田は興味がないらしく、パンの袋を丸めてバッグに押し込んだ。


 その横では、松田浩一が新しいバットを仲間に見せていた。


「これ、ええやろ。限定モデルや」


「また買うたんか」


 田村が呆れた。


「道具は大事やからな」


「道具を買う前に、素振りせえや」


「分かっとるって」


 松田は笑った。


 しかし、その笑顔には、どこか自信があった。


 高い道具を持っている自分は、少しだけ上手い選手になったような気がする。


 そんな感覚を、彼は手放せなかった。


 やがて十二人がそろった。


 チーム名は、ドリーム・エース・ナイン。


 かつての強豪校で、レギュラーになれなかった者や、最後まで補欠に近い立場だった者たちが中心となって結成したチームだ。


 誰もが野球に思い入れを持っている。


 誰もが、もう一度輝きたいと思っている。


 そして、誰もが、自分はまだ本気を出していないと思っている。


 それが、このチームの最大の問題だった。


     *


「よし、まずはキャッチボールからや!」


 田村の声で、練習が始まった。


 健太は三塁の守備位置につき、相手役の藤井直樹と向かい合った。


「ほな、いくで」


 藤井がボールを投げる。


 健太はグローブを出し、ボールを受け止めた。


 パンッ。


 乾いた音が響いた。


「ええ音するやろ、このグローブ!」


 健太は自慢げに笑った。


「いや、ボール取れたことを喜べや」


「当たり前やんけ」


「その当たり前が、試合でできへんのがうちのチームやろ」


 藤井の言葉に、健太は一瞬黙った。


 確かに、ドリーム・エース・ナインは守備が弱い。


 打てないわけではない。


 投げられないわけでもない。


 ただ、肝心なところでミスをする。


 送球がそれる。


 声が出ない。


 走者が進んでいるのに、誰も気づかない。


 そして、ミスをした人間より先に、周囲が言い訳を始める。


 グラウンドの状態が悪かった。


 太陽がまぶしかった。


 風が強かった。


 ボールが悪かった。


 審判の判定がおかしかった。


 言い訳だけなら、プロ野球の監督にも負けない自信がある。


「今日は守備を重点的にやるぞ!」


 田村が声を上げた。


「特に内野。連係を確認する。健太、三塁から一塁への送球を丁寧にな」


「分かっとるって」


 健太は軽く手を上げた。


 その返事には、少しだけ面倒くさそうな響きが混じっていた。


 自分は高校時代から三塁を守っている。


 送球の基本など、今さら言われなくても分かっている。


 健太はそう思っていた。


 だが、野球の経験が長いことと、基本を正確に実行できることは、同じではない。


 その事実を、健太はまだ認めていなかった。


     *


「ノックいくぞ!」


 ノッカーを務めるのは、遊撃手の山本和也だった。


 山本は普段、データ分析の仕事をしている。


 野球でも打球方向や守備位置について細かく考えるが、考えすぎて動き出しが遅れることがある。


 それでも、今日の山本は真剣だった。


「まずは正面。次、三遊間!」


 山本が打球を転がす。


 健太は前に出て、ボールを捕った。


 ステップを踏み、一塁へ送球する。


 ボールは少し高く浮いたものの、石田のミットに収まった。


「よし!」


 健太は満足した。


 続いて、三遊間への打球。


 健太は素早く横へ動き、グローブを伸ばした。


 ボールが収まる。


 しかし、体勢が崩れた。


 健太は無理に送球しようとした。


「待て、無理すんな!」


 田村の声が飛んだ。


 健太は聞こえていた。


 聞こえていたが、投げる動作を止めなかった。


 ここで強い送球を見せれば、今日の練習で存在感を出せる。


 そんな考えが、頭をよぎったからだ。


 腕を振る。


 ボールが手を離れる。


 しかし、体勢が整っていなかった。


 送球は一塁手の頭上を越え、後方へ転がっていった。


「おい、健太!」


 石田が叫んだ。


「なんで無理に投げんねん!」


「いや、今のは風や!」


「風でボールが横に曲がるか!」


 藤井がすかさず突っ込んだ。


 健太は顔をしかめた。


「体勢が崩れただけや。試合なら、あそこは勝負せなあかん場面もあるやろ」


「今は練習や」


 田村が静かに言った。


「練習でできへんことを、試合で急にできるようにはならん」


「分かっとるって」


「ほんまに分かっとるか?」


 田村の言葉に、健太は返事をしなかった。


 腹が立ったからではない。


 少しだけ、自分の失敗を認めたくなかったのだ。


 高校時代から野球をやってきた。


 草野球も長い。


 今さら、送球の仕方を注意される。


 それが、妙に恥ずかしかった。


 健太はグローブの土を払った。


「次、いこうや」


 自分からそう言うと、山本もノックを再開した。


 しかし、健太の心には、小さな苛立ちが残っていた。


     *


 練習の後半は、簡単なケースノックになった。


 走者一塁。


 打球は三遊間。


 守備側は、二塁でアウトを取れるか判断する。


「健太、無理に二塁へ投げんでええ。打球を捕ったら、走者と二塁手の位置を見て判断しろ」


 田村が指示を出した。


「分かった」


 健太は返事をした。


 山本が打球を転がす。


 健太は三遊間へ走った。


 ボールを捕る。


 その瞬間、健太の目に入ったのは二塁ベースだった。


 走者の位置を確認するより先に、二塁へ投げることを決めてしまった。


 腕を振る。


 ボールは二塁手の頭上へそれた。


 走者役の中村拓郎が、余裕で二塁を駆け抜けた。


「何してんねん!」


 田村が声を上げた。


「いや、二塁でアウトを取れると思ったんや!」


「思ったんやなくて、見て判断せえ言うたやろ!」


「一瞬の判断やんけ!」


「だから、その一瞬に何を見るかを練習しとんねん!」


 グラウンドに、重い沈黙が落ちた。


 健太は口を開きかけた。


 しかし、何も言えなかった。


 田村が怒っている理由は分かる。


 自分が指示を聞かず、先に結果を決めつけたからだ。


 それでも、健太の中には反論が残っていた。


 自分だって、チームのためにやった。


 自分だって、アウトを取りたかった。


 悪気があったわけではない。


 けれど、悪気がないことと、正しいプレーをしたことは違う。


 その当たり前のことが、健太にはなかなか飲み込めなかった。


「ちょっと休憩しよか」


 藤井が、空気を変えるように声を上げた。


 石田は水を飲みながら、健太の隣に腰を下ろした。


「まあ、ええやん。練習やし」


「……せやな」


「ただな、健太」


「なんや」


「お前、最近ちょっと焦ってへんか?」


 健太は石田を見た。


「何にやねん」


「知らんけど。恋愛のこととか、三十五歳になったこととか」


 石田はペットボトルのふたを閉めた。


「なんか、結果を急いでる感じがするわ」


「別に急いでへん」


「そうか?」


「そうや」


 健太は強く言い切った。


 石田は、それ以上追及しなかった。


 代わりに、コンビニのパンを取り出した。


「食うか?」


「いらんわ」


「うまいで」


「さっきも食うとったやろ」


「練習したら腹減るねん」


 石田は、いつもの調子でパンをかじった。


 健太は、その姿を見て少し笑った。


 けれど、石田の言葉は心のどこかに残っていた。


 結果を急いでいる。


 そうなのかもしれない。


 恋愛では、まだ一度もまともに誰かと付き合ったことがない。


 それなのに、頭の中では出会いから結婚までを勝手に想像している。


 野球では、長年続けているというだけで、自分には判断力があると思い込んでいる。


 どちらも、今の自分を見ずに、なりたい自分を見ているのかもしれなかった。


 しかし、その考えを最後まで掘り下げる前に、田村の声が響いた。


「休憩終わり! 最後にシートノックやるぞ!」


「おう!」


 健太は立ち上がった。


 考えるのは、練習が終わってからでいい。


 今は目の前のプレーに集中する。


 そう自分に言い聞かせた。


     *


 シートノックが始まった。


 打球が飛ぶ。


 選手が動く。


 声が響く。


 何度かミスはあったものの、最後の数本は連係がうまくいった。


 健太も、最後の三遊間の打球を落ち着いて処理した。


 無理に投げず、体勢を整え、一塁へ送球する。


 今度は、石田のミットにまっすぐ収まった。


「ナイス送球!」


 藤井が声を上げた。


「おう!」


 健太は笑った。


 さっきまでの失敗が、少しだけ遠くなった気がした。


 できるではないか。


 最初から、落ち着いてやればよかったのだ。


 健太はグローブを見つめた。


 高級な道具は、確かに気分を上げてくれる。


 しかし、最後にボールを捕るのは自分の手だ。


 送球を決めるのも、自分の判断だ。


 道具の値段も、野球歴も、過去の努力も、今の一球を代わりに投げてはくれない。


 そこまで考えたところで、健太は小さく首を振った。


「……なんや、俺、今日は哲学者みたいやな」


「何ぶつぶつ言うとんねん」


 田村が近づいてきた。


「いや、ちょっと考え事や」


「恋愛のことか?」


「野球のことや!」


「ほんまかいな」


 田村は笑った。


 健太も笑い返した。


 いつもの仲間たち。


 いつものグラウンド。


 いつもの、少し情けない練習。


 それでも、健太にとっては大切な場所だった。


 自分が何者なのか分からなくなったとき、ここへ来れば、少なくともボールを投げることはできる。


 そう思っていた。


 だが、その日の練習が終わる頃、田村のスマートフォンに一本の連絡が入った。


「……おい、みんな」


 田村の声が変わった。


「ちょっと聞いてくれ」


 メンバーが集まる。


「新型コロナの影響で、来週からグラウンドの利用が制限されるかもしれん。予定してた練習試合も、いったん保留や」


「マジかよ」


 森川が顔をしかめた。


「せっかく肩が仕上がってきたのに」


「お前の肩、いつ仕上がんねん」


 中村が突っ込んだが、いつものような笑いは起こらなかった。


 ニュースでは連日、感染者の増加や外出自粛の話題が報じられていた。


 それが、とうとう自分たちの生活にも入り込んできたのだ。


「しゃあないやろ。みんなの安全が先や」


 田村が言った。


「練習も試合も、できるようになったら再開する。それまでは無理せんとこう」


「自主練は?」


 松田が尋ねた。


「一人でできることは、やったらええ。ただし、集まるのは控える」


 それぞれが、複雑な顔でうなずいた。


 健太はグラウンドを見渡した。


 ついさっきまで、当たり前にそこにあった場所。


 仲間と声を張り上げ、失敗して、文句を言い合い、それでも最後には笑って帰る場所。


 それが、しばらく使えなくなるかもしれない。


 大げさかもしれないが、健太は急に寂しくなった。


「まあ、こんなときこそ、恋愛活動やな!」


 藤井が明るく言った。


「グラウンドが使えへんのなら、別の場所で経験を積まなあかん」


「お前、切り替え早すぎるやろ」


 健太が言うと、藤井は肩をすくめた。


「人生、いつまでも同じことできるとは限らんからな」


 その言葉に、健太は黙った。


 いつまでも同じことはできない。


 いつまでも若いわけでもない。


 いつまでも、今の生活が続くわけでもない。


 今年、健太は三十五歳になった。


 誕生日を迎えたときは、まだ何も変わっていなかった。


 しかし、何も変えないまま一年が過ぎれば、三十六歳になる。


 それは当たり前のことなのに、健太は今まで、その当たり前から目をそらしていた。


     *


 帰宅した健太は、玄関で靴を脱いだ。


「おかえり。今日は野球やったん?」


 母の美代子が台所から顔を出した。


「せや。しばらく練習できんかもしれん」


「そうなん。コロナ、大変やなあ」


「ほんまやで」


 健太は手を洗い、リビングへ向かった。


 テレビでは、感染拡大を受けた外出自粛について報じられていた。


 いつもの商店街。


 いつもの職場。


 いつものグラウンド。


 これまで当たり前だったものが、少しずつ変わっていく。


 健太はソファに腰を下ろした。


 スマートフォンを開くと、ドリーム・エース・ナインのグループチャットに新しいメッセージが届いていた。


 田村からだった。


『しばらく練習は中止。再開できるまで、各自で体力維持と基礎練習を。恋愛強化計画も、相手の都合と安全を優先すること。無理に会おうとするな』


 すぐに中村が返信した。


『恋愛も自粛かいな』


 藤井が続ける。


『恋愛は自粛ちゃう。相手の気持ちを無視するんが自粛対象や』


『うまいこと言うたつもりか』


 森川の返信に、笑いのスタンプが続いた。


 健太も、笑いのスタンプを送った。


 それから、スマートフォンを置いた。


 ふと、コンビニの女性店員の顔が浮かんだ。


 自分が声をかけたとき、彼女は普通に返事をしてくれた。


 それだけだ。


 彼女には彼女の仕事がある。


 彼女の生活がある。


 自分の知らない家族や友人がいて、休日にしたいことがあって、会いたい人がいるかもしれない。


 自分が少し勇気を出したからといって、その人の世界が自分を中心に回り始めるわけではない。


 そんな当たり前のことを、健太はようやく考え始めていた。


「……野球も恋愛も、難しいな」


 独り言が漏れた。


「何が難しいん?」


 母が聞き返す。


「いや、なんでもない」


 健太は立ち上がり、自分の部屋へ向かった。


 部屋の隅には、野球道具が並んでいる。


 グローブ。


 スパイク。


 バット。


 どれも、自分が頑張ってきた証拠のように思っていた。


 しかし、道具をそろえることと、実力を身につけることは違う。


 恋愛の本を読むことと、人の気持ちを理解することも違う。


 知識を集めても、経験を積んだつもりになっても、目の前の相手を見なければ、何も始まらない。


 健太は机に座り、ノートを開いた。


 そこには、先週の恋愛強化計画で決めた目標が書かれていた。


『まずは、女性と普通に会話する』


 その下に、健太は新しい一文を書き足した。


『自分が話したいことより、相手が話したいことを聞く』


 書いてから、しばらく眺めた。


 簡単なことに思える。


 けれど、実際にできるかどうかは分からない。


 それでも、今までと同じことを繰り返すよりは、少しだけましな気がした。


 健太はノートを閉じた。


 恋愛の試合は、まだ始まっていない。


 野球の試合も、しばらく予定が立たない。


 それでも、時間だけは進んでいく。


 春は、何かが始まる季節だ。


 しかし、何かが始まるということは、今までの当たり前が失われることでもある。


 健太はまだ知らなかった。


 これからの数年間、彼が失うものは、グラウンドで野球をする時間だけではない。


 人との距離感。


 自分に対する思い込み。


 そして、いつか誰かが自分を選んでくれるはずだという、根拠のない期待。


 それらを一つずつ手放していくことが、彼にとって本当の意味での試合になるのだった。

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