第3話 女にモテる男は、何が違うんや?
月曜日の朝、午前七時二十分。
大阪の下町にある自動車部品工場へ向かう途中、大野健太はコンビニに立ち寄った。
いつもの唐揚げ弁当とペットボトルのお茶。それに、菓子パンを一つ。
レジに並ぶと、店員の女性が笑顔で声をかけてきた。
「おはようございます。お弁当、温めますか?」
「お、おう。頼むわ」
健太は、少しだけ背筋を伸ばした。
若い女性だった。
年齢は二十代前半くらいだろうか。髪を後ろでまとめ、店の制服をきちんと着ている。
もちろん、健太は彼女の名前も知らない。
それでも、笑顔を向けられると、つい意識してしまう。
「袋はご利用ですか?」
「ああ、頼むわ」
「ありがとうございます」
会計が終わり、健太は弁当を受け取った。
たったそれだけのやり取りだった。
しかし、店を出て数歩進んだところで、健太は立ち止まった。
「……今の子、感じええな」
思わず、独り言が漏れた。
感じがいい。
それだけなら、何も問題はない。
問題は、健太の頭の中で、その先の物語が勝手に始まってしまうことだった。
もし、あの店員と仲良くなったら。
毎朝、顔を合わせるうちに、会話が増えていく。
ある日、彼女から「いつも来てくれますね」と言われる。
そこから少しずつ親しくなり、連絡先を交換する。
休日には食事に出かける。
やがて交際が始まり、二人で大阪の街を歩く。
そして、いつか結婚する。
「……いやいやいや!」
健太は頭を振った。
「早い、早い! まだ何も始まってへん!」
自分で自分に突っ込んだ。
しかし、少しだけ頬が緩んでいた。
恋愛経験がないということは、想像する余地がいくらでもあるということだった。
現実には何も起きていない。
それなのに、想像の中では、何度でも幸せになれる。
健太は、その心地よさを知っていた。
だからこそ、現実で一歩踏み出すことが、余計に難しくなっていた。
*
工場に着くと、同僚の木村亮が休憩室でコーヒーを飲んでいた。
「おはようございます、大野さん」
「おう」
「なんか、今日機嫌よさそうですね」
「そうか?」
「はい。何かいいことあったんですか?」
健太は一瞬、迷った。
コンビニの店員の話をするべきか。
いや、まだ早い。
相手の名前すら知らないのだ。
そんな話をしたら、また笑われるに決まっている。
「いや、別に何もないで」
「そうですか?」
「そうや」
健太は弁当を冷蔵庫に入れた。
木村は、何かを察したように笑った。
「大野さん、もしかして恋愛ですか?」
「なんでやねん!」
「いや、最近、恋愛の話ばっかりしてるから」
「……ちょっと考えてるだけや」
「いいことだと思いますよ」
木村はコーヒーを飲んだ。
「でも、あんまり一人で考えすぎないほうがいいですよ」
「どういう意味や?」
「相手の気持ちは、実際に話してみないと分からないってことです」
健太は黙った。
それは、先日の草野球仲間の藤井にも言われたことだった。
相手の気持ちは、本人にしか分からない。
頭では分かっている。
しかし、健太は自分の想像を信じてしまう。
相手が笑ってくれた。
親切にしてくれた。
自分の話を聞いてくれた。
その一つ一つを、自分に都合よく解釈してしまう。
「……まあ、そうやな」
健太は短く答えた。
木村は、それ以上何も言わなかった。
*
その日の昼休み。
健太は、草野球チームのグループチャットを開いた。
田村から新しいメッセージが届いていた。
『恋愛強化計画について、各自、具体的な行動を考えること』
続けて、山本が書き込んでいる。
『まず、自分の現状を把握する必要がある。出会いの数、会話の頻度、身だしなみ、金銭管理などを整理したい』
中村から返信が来た。
『難しいこと言うな。とりあえずパチンコ屋の姉ちゃんに声かけたらええやん』
『それは出会いの場として適切なのか?』
『知らん!』
健太は、思わず笑った。
すると、藤井からメッセージが届いた。
『健太は、まず女性と普通に会話する練習からやな』
『なんで俺だけ名指しやねん!』
『この前、コンビニの店員さんの話してたやろ』
『なんで知っとんねん!』
『お前、自分で言うてたやろ』
健太は、スマートフォンを握りしめた。
確かに、前日の食事中に話してしまっていた。
店員が笑顔で接客してくれたこと。
いつも同じ時間に買い物をしていること。
もしかしたら、自分を覚えてくれているのではないかということ。
そのときは、何もおかしいとは思わなかった。
しかし、仲間に改めて指摘されると、急に恥ずかしくなった。
『俺は普通に会話できるわ!』
健太は反論した。
すると、藤井からすぐに返信が来た。
『ほな、今度、女の人と普通に会話してみ。相手が店員でも同僚でもええから』
『できるに決まっとるやろ!』
『じゃあ、やってみ』
健太は、スマートフォンを伏せた。
腹が立った。
しかし、それ以上に、少し不安だった。
普通に会話する。
そんなことは、誰でもできるはずだ。
ところが、いざ女性を意識すると、何を話せばいいのか分からなくなる。
仕事の話ならできる。
野球の話なら、いくらでもできる。
しかし、女性との会話となると、頭の中が真っ白になる。
そして、沈黙が怖くなり、余計なことを話してしまう。
健太は、これまで何度も同じことを繰り返していた。
「……ちくしょう」
健太は、小さくつぶやいた。
「見とけよ、藤井」
その日、健太は一つの目標を決めた。
女性と、普通に会話する。
それだけだった。
連絡先を聞く必要もない。
食事に誘う必要もない。
ましてや、交際を想像する必要もない。
ただ、相手と会話する。
健太にとっては、それが最初の練習だった。
*
仕事を終えた夕方。
健太は、いつものコンビニに立ち寄った。
店内には、数人の客がいた。
例の店員も、レジに立っていた。
健太は、弁当を手に取った。
いつもと同じ唐揚げ弁当。
今日は、それだけでは終わらせない。
健太は、レジに向かいながら、頭の中で会話を練習した。
まずは挨拶。
次に、何か一言。
自然に話す。
相手の反応を見る。
よし。
いける。
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で言った。
「お、おう」
健太は、弁当を差し出した。
「温めますか?」
「ああ、頼むわ」
「かしこまりました」
店員が弁当を電子レンジに入れる。
今だ。
何か話すんや。
健太は、必死に考えた。
天気の話か。
仕事の話か。
いや、いきなり仕事の話をしてもおかしい。
何か自然な話題。
何か。
何か。
「あの……」
「はい?」
店員が振り向いた。
健太の頭が真っ白になった。
「あ、いや……その……」
「はい」
「……今日、暑いな!」
言った瞬間、健太は自分の発言を後悔した。
店内は、むしろ少し肌寒いくらいだった。
店員は一瞬きょとんとしたあと、困ったように笑った。
「そうですね。今日は少し暖かいですね」
「あ、せやな! 暖かいな!」
健太は、何度もうなずいた。
電子レンジが鳴った。
店員は弁当を袋に入れた。
「お待たせしました。ありがとうございます」
「お、おう。ありがとうな!」
健太は袋を受け取り、逃げるように店を出た。
外に出ると、夕方の風が吹いていた。
「……何が暑いやねん!」
健太は、歩道の端で頭を抱えた。
「アホか、俺は!」
しかし、すぐに気持ちを切り替えた。
失敗した。
それは間違いない。
けれど、話しかけることはできた。
相手を困らせるようなことは言っていない。
会話は続かなかったが、挨拶をして、短い言葉を交わすことはできた。
「……まあ、最初はこんなもんやろ」
健太は、自分に言い聞かせた。
そして、少しだけ笑った。
これまでの健太なら、相手が自分をどう思ったかばかり気にしていた。
しかし、今日は違った。
少なくとも、行動はした。
それだけは、事実だった。
*
その夜。
健太は、草野球チームのグループチャットに書き込んだ。
『今日、コンビニの店員さんと会話したで』
すぐに藤井から返信が来た。
『おお! 何話したん?』
『天気の話や』
『ええやん。相手は何て?』
『今日は暖かいですね、って』
『普通やな』
『普通でええんじゃ!』
健太は、スマートフォンを握りしめた。
さらに、田村からメッセージが届いた。
『よし! 第一歩や! 次は会話を続けられるように頑張ろう!』
中村が続く。
『次は連絡先やな!』
『早すぎるわ!』
健太は笑った。
しかし、心の中では、少しだけ前向きな気持ちが芽生えていた。
まだ何も始まっていない。
相手が自分に好意を持っているわけでもない。
それでも、自分から行動することはできた。
その小さな経験は、健太にとって意味のあるものだった。
だが、同時に、健太はまだ大きな勘違いを抱えていた。
会話ができたことと、相手との関係が深まったことは違う。
そして、女性との会話を練習することと、女性を恋愛の目標として見ることも違う。
健太は、その違いをまだ理解していなかった。
数日後、草野球チームの練習が再開される予定だった。
久しぶりの練習。
久しぶりに集まる仲間たち。
そして、健太にとっては、恋愛強化計画の進捗報告会でもある。
彼らは、野球の実力を高めることよりも、恋愛の話で盛り上がることを楽しみにしていた。
しかし、次の練習で健太は、自分が女性との会話だけでなく、野球でも同じ問題を抱えていることを思い知らされる。
相手の動きを見ず、自分の思い込みで行動する。
その癖は、恋愛でも野球でも、健太の前に立ちはだかることになるのだった。




