第2話 ドリーム・エース・ナイン、作戦会議を始める
土曜日の午後二時。
大阪の下町にある大衆食堂「まる福」の奥の座敷に、男たちが集まっていた。
全員、三十代を中心とした独身男性。
テーブルの上には、唐揚げ定食、カツ丼、焼きそば、餃子、そして大瓶のウーロン茶が並んでいる。
酒を飲んでいるわけでもないのに、彼らの声はやたらと大きかった。
「全員、そろったか!」
声を張り上げたのは、草野球チーム「ドリーム・エース・ナイン」の代表、田村剛だった。
「そろったも何も、お前が最後やないか!」
中村拓郎が、カツ丼を頬張りながら言った。
「しゃあないやろ。家の用事があってん!」
「お前、独身やろ?」
「独身でも家の用事ぐらいあるわ!」
「ほな、何の用事やねん?」
「……掃除や」
「嘘つけ! パチンコ行っとったんちゃうんか!」
店内に笑い声が響いた。
健太は、その光景を見ながら、なんとなく安心していた。
この連中と一緒にいると、自分が特別に駄目な人間だとは思わずに済む。
自分より太っている奴もいる。
自分より金遣いが荒い奴もいる。
自分より野球が下手な奴もいる。
そして、自分と同じように、女性との縁がない奴もいる。
少なくとも、この座敷の中では、健太は普通の男だった。
「ほな、今日の議題を発表する!」
田村が、テーブルを叩いた。
「ドリーム・エース・ナイン、恋愛強化計画!」
「なんやそれ!」
健太が吹き出した。
「そのまんまや! 俺らも、いつまでも若くない。三十五、三十六、三十七……気がついたら四十や!」
「やめろや! 年齢を並べるな!」
森川信也が顔をしかめた。
「俺はまだ三十五や。若い若い!」
「お前、階段上っただけで息切れしとるやないか」
石田雄二が笑った。
「それは体重のせいや! 年齢は関係ない!」
「ほな、痩せろや!」
「うるさいわ!」
また笑い声が起こった。
健太も笑った。
しかし、田村は真剣だった。
「笑い事ちゃうぞ。俺ら、今まで何してきた?」
「野球」
健太が答えた。
「パチンコ」
中村が答えた。
「食べ歩き」
石田が答えた。
「高級グローブの収集」
松田浩一が胸を張った。
「お前はそれ、趣味やろ!」
田村が突っ込む。
「ええ道具を使うことは大事や!」
「試合でエラーばっかりしとるやないか!」
「道具の性能を引き出せてへんだけや!」
「それを実力不足いうねん!」
座敷は再び騒がしくなった。
田村は、全員が落ち着くのを待ってから言った。
「俺らは、野球だけやなくて、恋愛も中途半端なままや。このままでええんか?」
その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
さっきまで騒いでいた男たちが、急に黙った。
健太は、箸を置いた。
中村も、カツ丼を食べる手を止めた。
森川は、窓の外を見た。
誰も口には出さなかったが、全員、同じことを考えていた。
このまま年を取っていくのだろうか。
仕事をして、家に帰り、休日には野球をして、仲間と飯を食べる。
それだけで人生が終わるのだろうか。
「……俺は、嫌やな」
健太が言った。
「このまま四十になって、彼女もおらん。結婚もしてへん。そんな人生、嫌や」
田村はうなずいた。
「せやろ?」
「おう」
「ほな、変わろうやないか!」
田村は、まるで甲子園の決勝戦に臨む監督のような顔で言った。
「まずは、出会いを増やす!」
「どうやって?」
山本和也が尋ねた。
「それを今から考えるんや!」
「計画がないやないか」
「うるさい! 計画はこれから作るんや!」
山本は、ため息をついた。
「先に計画を作ってから集まるべきやろ……」
「そういう細かいことを言うてるから、彼女ができへんのや!」
「なんでやねん!」
山本が反論した。
健太は、二人のやり取りを見ながら考えた。
確かに、出会いがなければ恋愛は始まらない。
だが、出会いさえあればいいのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎったものの、健太はすぐに打ち消した。
まずは行動することだ。
難しいことは、あとで考えればいい。
それが健太の基本的な考え方だった。
*
「よし。ほな、まずは自己分析や!」
田村が、ノートを取り出した。
「自分の長所と短所を、それぞれ三つずつ書く!」
「小学校の学級会か!」
藤井直樹が笑った。
「うるさい! こういう基本が大事なんや!」
「ほな、俺からいくで!」
森川が手を挙げた。
「長所。男らしい。根性がある。昔、ピッチャーをやっていた」
「それ、最後は経歴やろ」
山本が冷静に指摘した。
「うるさい! 短所は……特にない!」
「あるやろ!」
全員が突っ込んだ。
「何やねん!」
「すぐ人のせいにする!」
「試合で打たれたら守備のせいにする!」
「練習に来ん!」
「体力がない!」
「お前ら、言いたい放題やな!」
森川は顔を赤くした。
健太は腹を抱えて笑った。
「ほな、次は健太や!」
田村が指名した。
「俺?」
「そうや。長所を三つ言うてみ」
健太は胸を張った。
「仕事が真面目。根性がある。仲間を大切にする」
「まあ、それはそうやな」
田村がうなずいた。
「短所は?」
「……特にない」
「お前もか!」
座敷が揺れるほど笑い声が起きた。
「いや、待て待て! 短所がないんやなくて、思いつかんだけや!」
「それが一番あかんねん!」
藤井が笑いながら言った。
「ほな、俺から見た健太の短所を教えたるわ」
「いらんわ!」
「まず、思い込みが激しい」
「はあ?」
「人の話を最後まで聞かん」
「聞いとるわ!」
「自分の話ばっかりする」
「そんなことないやろ!」
「ほら、今も俺の話を聞いてへん」
健太は言葉に詰まった。
周囲から笑い声が上がる。
「それから、ちょっと優しくされたら、すぐ自分に気があると思う」
「……」
「前にコンビニの店員さんが『ありがとうございました』って言うただけで、あの子は俺のこと覚えてくれてるって喜んどったやろ」
「覚えてくれてたんは事実や!」
「毎日同じ時間に同じ店で弁当買うてたら、そら覚えるわ!」
健太は反論しようとしたが、言葉が出なかった。
確かに、そんなことがあった。
店員の女性は、いつも健太に笑顔で接してくれた。
ある日、いつも買う弁当が売り切れていたとき、彼女は「今日は唐揚げ弁当が売り切れちゃいました」と教えてくれた。
健太は、そのことを仲間に話した。
すると、藤井に「お前の注文を覚えてくれてるんやろ」と言われた。
その夜、健太は少しだけ浮かれていた。
しかし翌日、店員は別の客にも同じように親切にしていた。
健太は、ひそかに落ち込んだ。
その話を、藤井は覚えていたのだ。
「……あれは、ちょっと勘違いしただけや」
健太は小さな声で言った。
「そういうのが、ちょっとずつ積み重なってるんちゃうか?」
藤井の声から、笑いが消えた。
「健太、お前、ほんまは彼女ほしいんやろ?」
「……当たり前や」
「ほな、相手のこともちゃんと見なあかんで。自分が好きになったからって、相手も自分を好きとは限らんねん」
健太は黙った。
その言葉は、思ったよりも胸に刺さった。
しかし、すぐに田村が声を張り上げた。
「よっしゃ! ほな、恋愛強化計画の第一目標を決めるぞ!」
「何やねん、急に!」
「全員、今年中に一人以上、女性と食事に行く!」
「おおっ!」
何人かが声を上げた。
健太も、思わず拳を握った。
女性と二人きりで食事をする。
それは、健太にとって大きな目標だった。
だが、田村はさらに続けた。
「ただし、相手の気持ちを無視した誘い方は禁止! しつこい連絡も禁止! 断られたら、そこで引く!」
「なんや、急にまともやな」
中村が言った。
「当たり前や! 俺らは大人やぞ!」
「その大人が、全員ここで恋愛作戦会議しとるんやけどな」
山本の一言に、また笑いが起きた。
健太は、ノートに目標を書き込んだ。
今年中に、女性と食事に行く。
たったそれだけのことが、今の自分には遠い目標に思えた。
それでも、何も決めずに過ごすよりはいい。
健太はそう考えた。
*
会議が終わったのは、午後四時過ぎだった。
店を出ると、商店街には買い物客の姿があった。
健太は、仲間たちと別れて一人で歩き始めた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
高校時代の同級生が投稿した写真だった。
そこには、家族と一緒に笑っている男の姿があった。
妻らしき女性と、小さな子どもが二人。
写真には、こんな文章が添えられていた。
『家族で公園。やっぱり子どもは元気が一番!』
健太は、その写真をしばらく見つめた。
高校時代、彼とは何度も一緒に練習した。
自分より野球がうまかったわけでもない。
特別に目立つ男でもなかった。
それなのに、今では家庭を持ち、子どもを育てている。
健太は、自分の腹を見下ろした。
「……俺、何してんねやろ」
小さな声が漏れた。
その瞬間、健太は自分が本当に焦っていることを認めざるを得なかった。
仲間と笑っているときは、気にならない。
仕事をしているときも、忘れていられる。
しかし、一人になると、どうしても考えてしまう。
自分は、このまま誰にも選ばれないのではないか。
この先、誰かと人生を分かち合うこともなく、年を取っていくのではないか。
健太はスマートフォンをポケットにしまった。
「いや、まだ三十五や」
自分に言い聞かせる。
「これからや。これから頑張ったらええねん」
そう言って、歩き出した。
そのときはまだ、健太は知らなかった。
これから始める恋愛活動が、思い描いていたような華やかなものではないことを。
そして、彼が最初に学ばなければならないのは、女性を口説く方法ではなく、相手を一人の人間として見ることだった。
そのことを理解するまでに、健太は何度も失敗することになる。
そして、その失敗のたびに、草野球のグラウンドでも、彼自身の未熟さが顔を出すのだった。




