第1話 35歳、童貞、打率ゼロ
三月十五日。
大阪の下町にある古い一軒家で、大野健太は三十五歳の誕生日を迎えた。
「健太、あんた今日で三十五やで」
朝食の食卓で、母親の美代子が味噌汁をよそいながら言った。
「知っとるわ。昨日から何回言うねん」
「いや、三十五やで? 三十五。あんたが高校生の頃なんか、三十五いうたら立派なおっさんやと思ってたやろ?」
「そら、そうやけどな」
「ほな、いつ結婚すんの?」
健太は、箸を止めた。
出た。
誕生日の朝から、母親の必殺技が飛んできた。
「朝飯ぐらい、気持ちよく食わせてくれや」
「気持ちよく食べてもらうために聞いてるんやないの。あんたの将来が心配やから聞いてんの」
「将来、将来って。俺かて考えてるわ!」
「ほな、彼女は?」
「……」
「おらんのやろ?」
「今はおらんだけや!」
健太は声を張り上げた。
母親は、ため息をついた。
「その『今は』、もう何年聞いてると思ってんの」
健太は味噌汁を一気に飲んだ。
熱かった。
「熱っ! なんやねん、これ!」
「味噌汁や」
「分かっとるわ!」
母親は、いつものように笑った。
健太は笑えなかった。
*
健太は、大阪の下町にある自動車部品工場で働いている。
仕事は真面目だ。
遅刻はほとんどしない。頼まれた仕事は最後までやる。現場で困っている人がいれば、文句を言いながらも手を貸す。
上司からの評価も、決して悪くない。
ただし、仕事ができることと、女性にモテることは別問題だった。
身長は百七十センチに届かない。体重は八十キロを超え、腹回りには立派な肉がついている。
高校時代は野球部だった。
それも、そこそこ名の知れた強豪校。
もっとも、健太はレギュラーではなかった。
控えの、そのまた控え。
試合に出るより、練習の球拾いをしていた時間のほうが長い。
それでも健太にとって、高校時代の野球部は誇りだった。
あの厳しい練習を乗り越えた。
あの強豪校で三年間、野球を続けた。
だから自分は、普通の男より根性がある。
そう信じている。
しかし、恋愛に関しては違った。
告白した経験はない。
女性と二人きりで食事をしたこともない。
手をつないだこともなければ、キスをしたこともない。
もちろん、彼女ができたこともない。
つまり、三十五年間、女性との恋愛に関しては、公式戦どころか練習試合すら経験していなかった。
それでも、健太は思っていた。
自分は、まだ本気を出していないだけだ。
本気を出せば、彼女くらいできる。
そう、本気を出せば。
問題は、健太がいつまでたっても本気を出さなかったことだった。
*
工場へ向かう途中、健太は商店街を歩いていた。
シャッターが半分閉まった古い店舗。店先に並ぶ自転車。朝から威勢のいい声を上げる八百屋。揚げ物の匂いが漂う惣菜屋。
昔から変わらない、大阪の下町の風景だった。
「おっちゃん、コロッケ二つ!」
「おう、健太! 今日も仕事か!」
「当たり前やろ!」
「えらいなあ。彼女でもできたら、もっとええのにな!」
「なんでコロッケ買うだけで彼女の話になんねん!」
店のおっちゃんは大声で笑った。
「三十五やろ? そろそろええ人見つけなあかんで!」
「分かっとるわ!」
健太はコロッケを受け取り、足早に立ち去った。
商店街の人間は、みんな余計なことを言う。
いや、心配してくれているのは分かっている。
分かっているからこそ、腹が立つ。
自分だって、好きで独身を続けているわけではない。
女性と付き合いたい。
彼女がほしい。
休日に二人で出かけたい。
誕生日には「おめでとう」と言ってもらいたい。
できれば、結婚もしたい。
そして何より、一度くらいは、女性から男として好かれてみたい。
それは健太にとって、誰にも言えない願いだった。
友人の前では強がれる。
母親には怒鳴り返せる。
しかし、夜、一人で布団に入ったときだけは、ごまかせなかった。
三十五歳。
このままでいいのか。
そんな思いが、ここ数年、頭から離れなくなっていた。
*
昼休み。
健太は工場の休憩室で、同僚の木村亮と弁当を食べていた。
木村は三十二歳。妻と幼い子どもがいる。
「大野さん、今日、誕生日でしたよね?」
「おう。よう覚えとったな」
「おめでとうございます」
「おう、ありがとう」
「三十五歳かあ。そろそろ結婚、考えないんですか?」
健太は、箸で唐揚げをつまんだまま固まった。
「お前もか!」
「え?」
「朝から母親に言われて、商店街のおっちゃんに言われて、今度はお前か!」
「いや、普通に気になっただけですよ」
「気になるな! 人の恋愛事情を!」
木村は苦笑した。
「でも、彼女ほしいんでしょ?」
「……まあな」
「だったら、出会いを増やさないと」
「出会い?」
「はい。仕事と家の往復だけじゃ、なかなか難しいですよ」
健太は黙った。
正論だった。
仕事が終われば家に帰る。
休日は草野球か、仲間との食事。
たまにパチンコ。
それ以外に、女性と知り合う機会はほとんどない。
「合コンとか、婚活とか、行ったことあります?」
「ない」
「マッチングアプリは?」
「ない」
「じゃあ、まずは何か始めてみたらどうですか?」
健太は腕を組んだ。
「せやな……」
そのとき、休憩室のテレビからニュースの音声が流れてきた。
新型コロナウイルスの感染拡大。
国内外で感染者が増え、人々の生活にも影響が広がり始めている。
健太は画面を見た。
「なんや、最近こればっかりやな」
「そうですね。うちの工場も、いろいろ対応が必要になるかもしれませんね」
「まあ、俺らは仕事せな飯食われへんからな」
健太は弁当の残りを口に放り込んだ。
このときの健太は、まだ知らなかった。
これから先、当たり前だと思っていた日常が、大きく変わっていくことを。
そして、その変化が、自分の人生を考え直すきっかけになることを。
*
その日の夜。
健太は自分の部屋で、スマートフォンを眺めていた。
動画サイトには、恋愛テクニックを紹介する動画が並んでいる。
『女性が好きな男性に見せるサイン五選』
『三十代男性が恋人をつくるために必要なこと』
『女性にモテる男とモテない男の決定的な違い』
健太は、次々と動画を開いた。
「なるほどな……」
動画の中の男性は、自信満々に語っていた。
清潔感が大事。
相手の話を聞く。
自分磨きをする。
出会いを増やす。
健太は何度もうなずいた。
「やっぱり、そういうことか」
まるで長年の謎が解けたような気分だった。
だが、動画を三本見終えたところで、健太は満足してしまった。
自分磨きは、明日から。
出会いを増やすのも、明日から。
今日は誕生日なのだから、ゆっくりしてもいい。
そう考えて、スマートフォンを置こうとした。
そのときだった。
高校時代の野球部仲間から、メッセージが届いた。
『健太、誕生日おめでとう!』
送り主は、草野球チームの代表を務める田村剛だった。
続けて、別のメッセージが届く。
『三十五か。おっさんやな!』
森川信也。
『お前、まだ童貞なん?』
中村拓郎。
「こいつら……!」
健太は、スマートフォンを握りしめた。
すぐに返信する。
『うるさいわ! お前らも大して変わらんやろ!』
すると、田村から電話がかかってきた。
「おう、健太! 誕生日おめでとう!」
「おう。ありがとうな」
「で、どうなん? 彼女できた?」
「できるか! 今日の今日までおらんかった男が、誕生日になった瞬間に彼女できるか!」
「まあ、そうやな!」
田村は大笑いした。
「でも、お前も三十五やろ。そろそろ本気出さなあかんのちゃうか?」
「分かっとるわ」
「よっしゃ。ほな、今度の草野球のときに、みんなで恋愛作戦会議でもするか!」
「なんやねん、それ」
「いや、俺らもそろそろ考えなあかんやろ。いつまでも独身のおっさん集団ではあかん!」
電話の向こうから、森川の声が聞こえた。
「おい、田村! 俺はいつでも結婚できるぞ!」
中村が続く。
「お前、先月、飲み屋の姉ちゃんに連絡先聞いて断られたやろ!」
「あれはタイミングが悪かっただけや!」
「そういうとこやぞ!」
健太は思わず笑った。
こいつらは、相変わらずだった。
野球の話をすれば、全員が元エースで元四番。
恋愛の話をすれば、全員が恋愛の達人。
しかし、実際には、誰一人として大した成果を上げていない。
それでも、仲間と話していると、少しだけ気持ちが楽になった。
「よっしゃ」
健太は言った。
「今度の草野球で、恋愛作戦会議やな」
「おう! 俺らの人生、ここから逆転や!」
田村が叫んだ。
「逆転ホームランや!」
森川も叫ぶ。
「まずは彼女つくってから言えや!」
中村の突っ込みに、全員が笑った。
電話を切ったあと、健太は天井を見上げた。
三十五歳。
彼女なし。
交際経験なし。
貯金も、胸を張れるほどはない。
体重は増える一方。
草野球では、最近まともにヒットも打てていない。
自慢できるものといえば、仕事を真面目に続けていることくらいだった。
けれど。
「俺かて、まだ終わってへん」
健太はつぶやいた。
「三十五からでも、人生は変えられるやろ」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
自分自身を奮い立たせるための言葉だった。
健太はスマートフォンを手に取り、もう一度、恋愛動画を開いた。
そして、真剣な顔で宣言した。
「よっしゃ。明日から本気出すで!」
もちろん、その夜も健太は何も始めなかった。
ただ、ひとつだけ。
翌朝、目覚まし時計が鳴る五分前。
健太は布団の中で、ふと考えた。
もし、今まで自分が女性にモテなかった理由が、顔や体型だけではなかったとしたら。
もし、自分の考え方や行動にも問題があったとしたら。
それを変えれば、何かが変わるのだろうか。
健太は寝返りを打った。
「……まあ、明日考えよ」
そして、再び眠りについた。
この男が、本当に自分を変えようとするまでには、まだ長い時間が必要だった。
恋愛活動、プレイボール。
ただし、健太の打席は、まだ一度も始まっていない。




