第79話 誰かの一番になりたい男
二〇二一年八月十五日、日曜日。
健太は、朝から自分の部屋でスマートフォンを眺めていた。
かずえとのメッセージは、昨日から止まっている。
距離を置きたい。
その言葉を、何度も思い返していた。
嫌われたわけではない。
恋愛対象ではないと最初から言われていた。
それでも、少し寂しかった。
「はあ……」
ため息をつき、スマートフォンをベッドに置いた。
そのとき、姉の真紀が部屋の前を通りかかった。
「何ため息ついてんの?」
「別に」
「また女?」
「違うって」
真紀は部屋の入り口に立ち、健太の顔を見た。
「その顔は女でしょ」
「知り合いと、ちょっと色々あっただけ」
「付き合ってたの?」
「付き合ってない」
「じゃあ、何も始まってないんじゃない」
健太は黙った。
真紀は少し笑った。
「始まってもいない関係が終わったみたいに落ち込んでどうするの」
「分かってるよ」
「本当に?」
姉の言葉が胸に刺さった。
*
午後四時。
健太は気分転換に、近所を散歩していた。
公園では、子どもたちがボール遊びをしている。
その様子を見ていると、高校時代のことを思い出した。
強豪野球部に入ったものの、レギュラーにはなれなかった。
試合に出られない日が続いても、練習を続けた。
いつか自分が必要とされる日が来る。
そう信じていた。
しかし、最後まで控え選手だった。
恋愛も同じなのかもしれない。
自分は誰かに選ばれたい。
誰かの一番になりたい。
その気持ちが強すぎるのだろうか。
健太は公園のベンチに座った。
*
八月十八日、水曜日。
職場の休憩室。
同僚の木村亮が、スマートフォンで子どもの写真を見ていた。
「これ、昨日のうちの子。保育園で作ったらしい」
「かわいいな」
「だろ? 最近、何でも自分でやりたがるんだよ」
木村は嬉しそうだった。
健太は、少し羨ましくなった。
結婚して、子どもがいて、家に帰れば家族がいる。
自分にはない生活だった。
「健太は最近どうなん?」
「何が?」
「婚活。まだやってるん?」
「まあ、ぼちぼち」
「いい人おった?」
「いたけど、恋愛にはならなかった」
木村は写真を閉じた。
「そっか。でも、焦るなよ」
「それ、よく言われる」
「焦って相手を探すと、相手のことより自分が選ばれるかどうかばっかり考えるようになるからな」
健太は、木村を見た。
「それって、そんなに悪いことか?」
「悪いとは言わないけど、相手の気持ちが見えなくなるんじゃないか」
木村は、少し考えてから続けた。
「俺も結婚する前は、彼女に好かれたいって必死だったよ。でも、一緒に暮らすようになると、好かれることだけじゃ生活できないって分かった」
「どういうこと?」
「相手の嫌なところも見るし、自分の嫌なところも見られる。それでも一緒にいたいと思えるかどうかだよ」
健太はうなずいた。
恋愛経験のない自分には、まだ遠い話だった。
*
八月二十一日、土曜日。
草野球チームの練習日。
健太は、いつもより早くグラウンドに到着した。
キャッチボールをしていると、田村が近づいてきた。
「健太、最近どうだ?」
「普通だよ」
「本当に?」
「何だよ」
「お前、最近少し元気がない」
健太は苦笑した。
「そんなに分かる?」
「分かる。長い付き合いだからな」
二人はキャッチボールを続けた。
「かずえさんとは?」
「距離を置くことになった」
「そうか」
「別に付き合っていたわけじゃないけどな」
「それでも寂しいんだろ?」
健太は返事をしなかった。
田村はボールを投げた。
「健太。お前は誰かに必要とされたいんだろ?」
「……そうかもしれない」
「でも、誰かに必要とされることだけを目的にすると、相手の問題まで背負うことになるぞ」
「分かってる」
「分かってるなら、今度は自分のことも考えろ」
健太はボールを受け止めた。
「俺は、誰かの一番になりたいんだよ」
思わず本音が出た。
「友達でも、仕事仲間でもなく、恋愛で一番になりたい」
田村は、少しだけ表情を緩めた。
「それは普通のことだと思うぞ」
「でも、俺には無理なのかな」
「それは分からん。ただ、一番になりたいからって、相手を自分の思いどおりにしようとするなよ」
健太は、ゆっくりとうなずいた。
*
その日の練習後。
健太は帰宅途中に、スマートフォンで婚活アプリを開いた。
以前登録したプロフィールが表示される。
自己紹介文には、こう書いてあった。
『優しい性格です。相手の話を聞くことが好きです。休日は草野球をしています。真剣に結婚を考えています』
健太は文章を読み返した。
自分のことが、ほとんど書かれていない。
優しい。
話を聞く。
結婚したい。
それは、相手に好かれるための言葉ばかりだった。
健太は自己紹介文を編集した。
『休日は草野球をしています。学生時代から野球を続けており、今も仲間と試合を楽しんでいます。食べ歩きや旅行にも興味があります。恋愛経験は多くありませんが、相手の考えを尊重しながら、自然体で関係を築いていきたいです』
書き終えて、保存ボタンを押した。
少しだけ、自分のことを紹介できた気がした。
*
八月二十二日、日曜日。
昼過ぎ。
婚活アプリに、一件の「いいね」が届いた。
相手の名前は、**佐藤まみ**。
三十七歳。
プロフィール写真には、笑顔の女性が写っていた。
自己紹介には、旅行と料理が好きだと書かれている。
健太は、プロフィールを何度も確認した。
写真だけで判断してはいけない。
プロフィールだけで期待してはいけない。
そう自分に言い聞かせた。
それでも、胸が少し高鳴った。
『はじめまして。プロフィールを見て、野球を長く続けているところが素敵だと思いました』
まみからメッセージが届いた。
健太は、すぐに返信を書き始めた。
『はじめまして。メッセージありがとうございます。野球は今も続けています。まみさんは旅行がお好きなんですね』
送信。
数分後、返事が来た。
『はい。最近はなかなか行けませんが、温泉旅行が好きです』
健太は笑顔になった。
新しい出会い。
まだ何も始まっていない。
相手が自分を好きかどうかも分からない。
だからこそ、今度は急がない。
健太はそう決めた。
しかし、まみのプロフィールには、健太がまだ気づいていない一文があった。
『過去に結婚歴があります。子どもが一人います』
その事実を知ったとき、健太はどんな反応をするのだろうか。
新しい出会いは、思い描いていたものとは少し違う方向へ進み始めていた。




