第78話 会いたくない理由
二〇二一年八月七日、土曜日。
健太は、朝からスマートフォンを何度も確認していた。
かずえから連絡が来るわけではない。
それでも、あの電話のことが気になっていた。
昔の恋人から突然連絡があり、会いたいと言われた。
彼女は迷っている。
健太には、その迷いの理由が分からなかった。
恋人と別れた経験もなければ、長く付き合った女性もいない。
自分ならどうするか。
考えてみても、答えは出なかった。
「健太、何をそんなに見てるんだ?」
隣に座っていた父・正一が声をかけた。
「いや、別に」
「最近、スマホばかりだな」
「ちょっと知り合いの相談に乗ってるんだよ」
「女の人か?」
健太は苦笑した。
「まあな」
「お前も忙しいな」
正一は新聞に視線を戻した。
健太は、父に詳しく話すことはしなかった。
*
午後二時。
健太は、かずえからのメッセージを受け取った。
『昨日はありがとうございました。少し考えて、彼と会うことにしました』
健太は画面を見つめた。
会うことにしたのか。
『そうなんですね。無理はしないでくださいね』
返信すると、すぐに返事が来た。
『ありがとうございます。来週の金曜日に会う予定です』
健太は、少し考えてから入力した。
『話したくなったら、いつでも聞きます』
送信した。
それ以上、何かを尋ねることはしなかった。
*
八月十三日、金曜日。
午後七時。
かずえは、駅から少し離れたホテルのラウンジにいた。
待ち合わせの相手は、昔付き合っていた男性だった。
名前は、佐々木修一。
現在四十五歳。
以前は同じ会社で働いていた。
かずえが三十代半ばだった頃、二人は交際を始めた。
最初は優しい男性だった。
仕事の悩みを聞いてくれた。
休日には一緒に出かけた。
誕生日には小さなプレゼントをくれた。
かずえは、彼となら結婚できるかもしれないと思っていた。
しかし、交際が長くなるにつれ、少しずつ関係が変わっていった。
修一は、かずえの予定を細かく確認するようになった。
友人との食事を嫌がり、仕事の付き合いにも口を出した。
かずえが反論すると、決まってこう言った。
「俺のことが本当に好きなら、それくらい分かるだろ」
その言葉を聞くたび、かずえは自分が悪いのだと思った。
自分がもっと理解すればいい。
自分が我慢すればいい。
そう考えるようになっていた。
そして、ある日。
かずえは、修一のスマートフォンに残されていた別の女性とのメッセージを見つけた。
問い詰めると、修一は謝った。
しかし、最後にはこう言った。
「お前が俺を追い詰めるから、他の女に逃げたんだ」
かずえは、その言葉を忘れられなかった。
別れを決めたのは、かずえだった。
それから何年も、彼とは連絡を取っていなかった。
*
「久しぶりだな」
修一が現れた。
かずえは、軽く頭を下げた。
「久しぶりね」
「元気そうじゃないか」
「あなたもね」
二人の間に、ぎこちない沈黙が流れた。
修一はコーヒーを注文した。
「今日は来てくれてありがとう」
「謝りたいことがあるって聞いたから」
「ああ。昔のことだ」
修一は、少し視線を落とした。
「あの頃は悪かった。俺も若かったし、余裕がなかった」
「そう」
「お前には随分、我慢させたと思う」
かずえは何も言わなかった。
「今はもう結婚してるのか?」
「していないわ」
「そうか。俺も独身だ」
修一は、懐かしそうに笑った。
「なんだか、昔に戻ったみたいだな」
その言葉に、かずえの表情が変わった。
「私は戻りたくないわ」
修一は一瞬、言葉を失った。
「そういう意味じゃない。懐かしいってことだよ」
「私は、懐かしいとは思っていない」
かずえは、ゆっくりと続けた。
「あなたと付き合っていた頃、私は自分の友人とも会わなくなった。仕事の予定も、あなたの都合に合わせた。あなたが不機嫌になるのが怖くて、言いたいことも言えなかった」
「それは……」
「そして、あなたが他の女性と連絡を取っていたことを知ったとき、私が悪いと言ったわね」
修一は黙り込んだ。
「今日、あなたが謝りたいと言ったから来たの。でも、あなたは本当に何が悪かったのか分かっているの?」
「分かってるよ。あの頃の俺はひどかった」
「違うわ」
かずえは、静かに首を横に振った。
「私が傷ついたのは、浮気だけじゃない。あなたの機嫌を損ねないように、自分の人生を小さくしていたことよ」
修一は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「もう一度、やり直せないかな」
かずえは、目を伏せた。
「それが目的だったの?」
「いや、謝りたい気持ちも本当だ」
「でも、私はやり直すつもりはないわ」
「どうしてだ?」
「私は、もうあの頃の自分に戻りたくないから」
かずえは会計を済ませ、席を立った。
「今日はありがとう。もう連絡はしないでください」
修一は何も言わなかった。
*
同じ頃。
健太は、自宅でテレビを見ていた。
スマートフォンが震えた。
かずえからだった。
『会ってきました。もう大丈夫です』
健太は、すぐに返信した。
『お疲れさまでした。大丈夫そうでよかったです』
少しして、返事が届いた。
『自分で決めて、自分で断ることができました』
健太は、その文章を何度も読み返した。
『それはよかったですね』
そう送ったあと、スマートフォンを置いた。
かずえは、自分で決めた。
誰かに背中を押されてではなく、自分の意思で過去に区切りをつけたのだ。
*
八月十四日、土曜日。
健太のもとに、かずえからもう一通メッセージが届いた。
『健太さん、少し聞いてほしいことがあります』
『何でしょう?』
『あなたと話していて、一つ気づいたことがあるの』
『はい』
『私はずっと、誰かに必要とされることを大切にしてきた。でも、本当は自分がどうしたいかを考えることが怖かったのかもしれない』
健太は画面を見つめた。
『今回、自分の意思で断ることができた。あなたが話を聞いてくれたことも、きっかけの一つです。ありがとう』
健太は、少し嬉しくなった。
誰かの役に立てた。
そう思った。
しかし、次のメッセージを読んで、指が止まった。
『ただ、これからは自分のことを自分で考えていきたいと思います。健太さんとも、少し距離を置かせてください』
健太は、すぐに返信できなかった。
また一人、離れていく。
そう感じた。
けれど、今回は相手の意思を尊重しなければならない。
『分かりました。今まで話を聞かせてくれて、ありがとうございました。これからも応援しています』
送信した。
かずえからは、短い返事が届いた。
『ありがとう。健太さんも、自分の人生を大切にしてくださいね』
健太はスマートフォンを伏せた。
恋愛には発展しなかった。
特別な関係にもならなかった。
それでも、今回の出会いは無駄ではなかったと思いたかった。
自分のことを必要としてくれる人がいなくなっても、自分の価値がなくなるわけではない。
健太は、まだその意味を完全には理解できていなかった。
だが、少しだけ前に進めた気がした。




