第77話 過去から届いた電話
二〇二一年八月一日、日曜日。
健太は、朝食を食べながらテレビを眺めていた。
昨夜、かずえと話したことが頭から離れない。
誰かに必要とされたい。
自分の価値を、誰かの反応で確かめようとしていたのではないか。
そんなことを考えていると、スマートフォンが鳴った。
画面には、草野球チームの代表・田村の名前が表示されている。
「もしもし?」
『健太、今日の練習なんだけど、人数が足りない。来られるか?』
「今日は午後からなら行けるよ」
『助かる。あと、練習後に飯でもどうだ?』
「いいよ」
電話を切った健太は、久しぶりに野球のことだけを考えようと思った。
*
午後三時。
グラウンドには、いつものメンバーが集まっていた。
「健太、最近ちょっと痩せたか?」
石田が声をかけてきた。
「そうか?」
「いや、顔が疲れてるぞ。ちゃんと食ってるか?」
「食ってるよ」
「ならいいけどな」
石田は大きな弁当箱を開けた。
その横で、中村がスマートフォンを見ながら笑っている。
「何見てるんだ?」
健太が尋ねると、中村は画面を見せてきた。
「マッチングアプリ。昨日、いい感じの女性とメッセージが続いたんだよ」
「へえ、よかったじゃん」
「今度こそいけるかもしれん」
「まだ会ってないんだろ?」
「そこが問題なんだよな」
中村は真剣な顔でうなずいた。
「会う前から期待しすぎるなよ」
健太が言うと、中村は目を丸くした。
「お前に言われるとは思わなかった」
周囲から笑い声が起こった。
健太も笑った。
自分が失敗してきたからこそ、言えることもある。
そう思えた瞬間だった。
*
練習後、チームのメンバーは近くのファミリーレストランに集まった。
田村、藤井、石田、健太の四人。
食事をしながら、藤井が話題を変えた。
「そういえば健太、かずえさんとはどうなった?」
「どうもなってないよ」
「また相談に乗ったんだろ?」
「ああ。職場の後輩の話を聞いた」
「恋愛の話は?」
「少しだけ。昔、長く付き合っていた人がいたらしい」
田村が箸を止めた。
「その人とは、どうして別れたんだ?」
「自分を犠牲にして、相手に合わせすぎたって言ってた」
「なるほどな」
藤井がうなずく。
「かずえさんは、相手に尽くすことと、自分を大切にすることの違いを経験したんだろうな」
「そうなんだと思う」
健太は水を飲んだ。
「でも、ちょっと気になることがある」
「何だ?」
田村が尋ねた。
「かずえさんが、過去の恋愛について話すとき、少し表情が変わったんだよ。まだ何かあるような気がして」
「気になっても、無理に聞くなよ」
藤井がすぐに言った。
「分かってる」
「相手が話したくなったら話す。それでいいんじゃないか」
健太はうなずいた。
*
八月三日、火曜日。
午後八時過ぎ。
健太のスマートフォンに、つかさからメッセージが届いた。
『健太さん、かずえさんのことで少し聞いてもらえますか?』
健太は返信した。
『何かあった?』
『実は、今日かずえさんから連絡があって、昔付き合っていた人から突然電話があったそうなんです』
健太は画面を見つめた。
昔の恋人。
何年も会っていないと言っていた相手だ。
『それで、かずえさんはどうしてるの?』
『かなり動揺しているみたいです。でも、私には詳しく話してくれなくて』
健太は少し迷った。
自分から連絡していいのだろうか。
相手が話したくないのなら、そっとしておくべきだ。
しかし、つかさは続けてメッセージを送ってきた。
『健太さん、もしよければ、かずえさんの話を聞いてあげてもらえませんか?』
健太はすぐには返信しなかった。
かずえは、自分に恋愛感情がないとはっきり伝えている。
それでも、相談相手として頼られることを嬉しく感じてしまう自分がいる。
必要とされたいという気持ちが、また顔を出していた。
健太はスマートフォンを置いた。
しばらく考えたあと、返信した。
『俺にできることがあるなら話は聞くよ。ただ、かずえさん本人が望んでいるか確認してほしい』
送信した。
*
八月四日、水曜日。
仕事を終えた健太は、帰宅途中のコンビニに立ち寄った。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
今度は、かずえ本人からだった。
『突然ごめんなさい。少しだけ話を聞いてもらえませんか?』
健太は立ち止まった。
『もちろんです。電話でも大丈夫ですか?』
すぐに着信が入った。
「もしもし」
『健太さん、こんばんは』
「こんばんは。大丈夫ですか?」
『大丈夫……と言いたいところだけど、少し落ち着かなくて』
かずえの声は、いつもより小さかった。
「昔の恋人から電話があったと聞きました」
『つかささんから聞いたのね』
「はい。無理に話さなくても大丈夫です」
電話の向こうで、かずえが息を吐いた。
『彼から、会いたいと言われたの』
「会いたい?」
『ええ。昔のことを謝りたいんだって』
健太は返事をしなかった。
『私、もう関係ないと思っていたの。何年も連絡がなかったし、今さら何を話すことがあるのか分からない』
「会いたくないんですか?」
『分からないの』
その声には、迷いがあった。
『嫌いになったはずなのに、電話が来たら昔のことを思い出してしまった。あの頃の自分まで戻ってしまいそうで怖い』
健太は、かずえの言葉を静かに聞いた。
『健太さんは、どう思う?』
「俺は、かずえさんが会いたいかどうかが一番大事だと思います」
『そうね』
「謝りたいと言われたからって、会う義務はないと思います。会わないと決めてもいいし、会うなら自分が納得できる条件を決めてもいいと思います」
『条件?』
「例えば、昼間に人の多い場所で会うとか。時間を決めておくとか。何より、嫌になったら帰ってもいいって決めておくとか」
しばらく沈黙が続いた。
『ありがとう。少し整理できた気がする』
「俺は聞いただけですよ」
『それがありがたいの』
かずえは、かすかに笑った。
*
電話を切る直前、かずえは小さな声で言った。
『健太さん。実は、彼と別れた本当の理由は、まだ話していないの』
「……そうなんですね」
『あの頃、私は彼のために仕事も友人関係も後回しにしていた。でも、それだけじゃなかった』
「それだけじゃない?」
『彼に言われたことを、ずっと信じていたの。自分が悪いから、我慢しなければいけないんだって』
健太は息をのんだ。
『今でも、あの言葉が頭から離れないことがある』
「かずえさん……」
『ごめんなさい。今日はここまでにするね』
「分かりました。話してくれてありがとうございます」
『こちらこそ。おやすみなさい』
電話が切れた。
健太はコンビニの駐車場で、しばらく立ち尽くしていた。
かずえの過去には、まだ知らないことがある。
そして、彼女が長い間抱えてきたものは、単なる失恋ではないのかもしれない。
その夜、健太は初めて考えた。
自分は、かずえを助けたいのだろうか。
それとも、誰かに必要とされる自分でいたいだけなのだろうか。
答えは、まだ出なかった。




