第76話 優しさの値段
二〇二一年七月二十五日、日曜日。
健太は、朝から草野球の練習に参加していた。
気温は三十度を超え、グラウンドには強い日差しが照りつけている。
「おい健太! ぼーっとするな!」
田村の声が飛んできた。
「分かってるって!」
健太はグローブを構え直した。
ノックの打球が三遊間へ飛んでくる。
一歩目が遅れた。
慌てて追いかけたが、ボールはグラブの先を抜けていった。
「最近、守備が雑だぞ」
「暑いんだよ」
「暑いのは全員同じだ」
田村は呆れたように笑った。
練習が終わり、ベンチで水分補給をしていると、藤井が隣に座った。
「かずえさんとは、その後どう?」
「どうって?」
「この前、飯に行ったんだろ」
「行ったよ。でも、恋愛対象じゃないって言われた」
「そうか」
藤井はそれ以上、茶化さなかった。
「まあ、最初からそういう関係じゃなかったんだろ?」
「分かってる。でも、ちょっと期待してたのかもしれない」
「期待するのは自由だよ。ただ、相手が違う気持ちだったと分かったら、そこで受け止めるしかない」
健太はペットボトルの水を飲んだ。
「俺って、そんなに恋愛に向いてないのかな」
「向いてるかどうかは知らない。でも、恋愛をする前に、相手のことをちゃんと見た方がいいんじゃないか」
藤井の言葉に、健太は黙ってうなずいた。
*
その日の夕方。
健太のスマートフォンに、かずえからメッセージが届いた。
『今日は暑かったですね。体調は大丈夫ですか?』
健太は少し驚いた。
恋人にはなれないと言われた相手から、連絡が来た。
それだけで、心がわずかに揺れる。
しかし、すぐに返信を打つことはしなかった。
『大丈夫です。今日は草野球の練習でした。かずえさんも体調に気をつけてください』
送信すると、数分後に返事が来た。
『ありがとうございます。実は、少し相談したいことがあるのですが、今度お時間ありますか?』
相談。
その言葉を見て、健太は考えた。
また誰かの相談に乗るのか。
自分は、相談相手として必要とされているだけなのか。
以前なら、そんなことは考えずに喜んでいた。
今回は、少し違った。
『大丈夫です。話せる範囲でよければ聞きます』
返信した。
*
七月三十一日、土曜日。
二人が会ったのは、駅前の喫茶店だった。
かずえはいつもと同じように落ち着いた服装で、窓際の席に座っていた。
「急に呼び出してごめんなさいね」
「いえ。何かあったんですか?」
「職場の後輩のことなんです」
かずえは、職場で面倒を見ている三十代の女性について話し始めた。
その後輩は、仕事を頼まれると断れない性格だった。
周囲から頼られることを嬉しく感じる一方で、仕事が増えすぎて疲れている。
最近では、休日にも職場から連絡が来るようになったという。
「私も昔、似たようなことがあったから、放っておけなくて」
「その後輩の方は、かずえさんに相談しているんですか?」
「ええ。でも、私が何か言うと、全部そのとおりにしようとするんです」
「それは大変ですね」
「そうなの。だから、どう接したらいいのか悩んでいるんです」
健太は少し考えた。
「かずえさんが全部解決しようとしなくてもいいんじゃないですか?」
「どうして?」
「相談に乗ることと、その人の問題を全部背負うことは違うと思うんです」
かずえは黙って健太を見た。
「自分で決めることまで代わりにやってしまったら、その人が自分で考える機会を奪うことになるかもしれません」
「……そうね」
「俺も、前は誰かに必要とされることが嬉しくて、頼まれたことを何でも引き受けようとしていました。でも、それって相手のためだけじゃなくて、自分が必要とされたいからだったのかもしれません」
かずえは、少し驚いた表情をした。
「健太さんも、変わってきたんですね」
「まだまだですけど」
「そうね。人は簡単には変われないもの」
かずえは窓の外を見た。
「私も、後輩に嫌われたくないのかもしれないわね」
「嫌われたくない?」
「頼りにされなくなったら、自分の価値がなくなるような気がしてしまうの」
その声には、いつもの落ち着きとは違う、少し弱い響きがあった。
健太は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
「昔の恋愛でも、そうだったのよ」
かずえが続けた。
「相手のために何かをしていれば、必要としてもらえると思っていた。けれど、それは愛情とは違ったのかもしれない」
「……」
「相手が私を必要としてくれることと、私自身を大切にしてくれることは、同じじゃなかった」
健太は、かずえの表情を見つめた。
彼女が過去の恋愛について話すのは、これが初めてだった。
「その人とは、今も連絡を取っているんですか?」
「いいえ。もう何年も会っていないわ」
「そうですか」
「でも、今でも時々思い出すの。あの頃の自分は、どうしてあんなに我慢していたんだろうって」
かずえは小さく笑った。
「ごめんなさいね。今日は私の話ばかり」
「いえ。聞けてよかったです」
*
店を出ると、夕方の風が少しだけ涼しくなっていた。
駅へ向かう途中、かずえが足を止めた。
「健太さん」
「はい」
「一つ、聞いてもいい?」
「何ですか?」
「あなたは、誰かに必要とされたいの?」
健太はすぐに答えられなかった。
必要とされたい。
それは、確かに自分の中にある感情だった。
女性から頼られたい。
優しいと思われたい。
自分がいなければ困ると思ってほしい。
そうすれば、自分にも価値があると感じられる気がした。
「……そうだと思います」
「どうして?」
「自分に自信がないからかもしれません」
かずえは静かにうなずいた。
「それなら、誰かに必要とされる前に、自分で自分を認めてあげてください」
「難しいですね」
「簡単ではないわね」
二人は駅の改札前で別れた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。話を聞いてくれてありがとう」
かずえは改札を通り、振り返らずに歩いていった。
健太は、その姿を見送った。
彼女は恋人にはなれないと言った。
それでも、こうして会って話をすることはできる。
その関係に、何か特別な意味を求める必要はないのかもしれない。
健太はスマートフォンをポケットにしまった。
誰かに必要とされることだけが、自分の価値ではない。
その言葉を、今度こそ忘れないようにしようと思った。
しかし、健太はまだ知らなかった。
かずえが過去の恋愛で本当に失ったものは、恋人だけではなかったということを。
そして、その過去に関わる人物が、まもなく健太の前に現れることも。




