第75話 答えを急がない人
七月十七日、土曜日。
健太は、昼休みにスマートフォンを眺めていた。
画面には、つかさから届いたメッセージが表示されている。
『来週、かずえさんも一緒にお昼どうですか? この前の続きも話したいそうです』
この前の続き。
その言葉が気になった。
四十一歳の井上かずえ。
落ち着いた話し方をする女性で、誰かの相談には丁寧に答える。けれど、自分自身の恋愛については、ほとんど語ろうとしない。
健太は返信した。
『大丈夫です。予定を合わせます』
すぐにつかさから返事が来た。
『ありがとうございます。ちなみに、恋愛相談会ではないですよ(笑)』
健太は苦笑した。
自分でも、少し期待していたのかもしれない。
女性と会う。
話をする。
相手が自分に興味を持ってくれる。
そんな出来事を、いつの間にか恋愛の入り口に変換してしまう。
それが自分の悪い癖だと、最近は少しずつ理解していた。
*
七月二十四日。
待ち合わせ場所は、駅近くの和食店だった。
先に到着していたのは、かずえだった。
「こんにちは。暑いですね」
「こんにちは。今日はありがとうございます」
「こちらこそ。つかささんたちは少し遅れるそうですよ」
二人で店に入り、先に席へ着いた。
かずえは紺色のブラウスに、落ち着いた色のスカートを合わせていた。派手さはないが、清潔感がある。
「健太さん、最近はどうですか?」
「どう、というと?」
「女性との出会いとか。前に、焦っているとおっしゃっていたでしょう」
健太は少し困った顔をした。
「相変わらずです。出会いはあっても、なかなか先に進みません」
「先に進むって、どこまでですか?」
「付き合うとか……その先とか」
「なるほど」
かずえは水を一口飲んだ。
「健太さんは、付き合うことを目標にしているんですね」
「そうですね。もう三十六ですし、今まで恋愛経験もないので」
「でも、相手のことを知る前に、付き合うことを考えすぎていませんか?」
その言葉に、健太は黙った。
以前なら、反論していたかもしれない。
しかし、今は思い当たることが多かった。
「そうかもしれません。相手が笑ってくれたり、連絡をくれたりすると、期待してしまうんです」
「期待すること自体は悪くないですよ。ただ、その期待を相手に背負わせないことです」
「背負わせない……」
「自分が好きになったからといって、相手も同じ気持ちになるとは限らないでしょう?」
「はい」
「それを受け入れられるかどうかは、大切だと思います」
健太は箸を置いた。
かずえの言葉は厳しく聞こえるのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
*
食事が終わる頃、つかさとつばさが到着した。
四人で他愛のない話をしながら、食後のお茶を飲む。
つばさが、かずえに尋ねた。
「そういえば、かずえさんって、今までどんな恋愛をしてきたんですか?」
かずえの手が、湯飲みの上で一瞬止まった。
「急にどうしたの?」
「いや、いつも私たちの相談に乗ってくれるから。かずえさんの話も聞いてみたいなって」
「私の話なんて、面白くないわよ」
「そんなことないです」
健太も、つい口を挟んだ。
かずえは少しだけ笑った。
「そうね。昔、長く付き合っていた人はいたわ」
「結婚を考えた人ですか?」
つかさが尋ねる。
「考えたことはあったわね」
「じゃあ、どうして別れたんですか?」
その質問に、かずえはすぐには答えなかった。
店内のざわめきが、妙に大きく聞こえる。
「自分のことを後回しにしすぎたのよ」
「自分のこと?」
「相手に合わせて、相手が喜ぶことを優先して、嫌なことも我慢して。それが優しさだと思っていたの」
かずえは湯飲みを両手で包んだ。
「気がついたら、自分が何をしたいのか、何を嫌だと思っているのかも分からなくなっていた」
誰も口を挟まなかった。
「それで別れたんですか?」
つばさが静かに尋ねる。
「ええ。最後は、自分で決めたわ」
「後悔していますか?」
かずえは少し考えた。
「後悔がないと言えば嘘になる。でも、あのとき別れなかったら、今の私はもっと自分を嫌いになっていたと思う」
健太は、その言葉を聞いていた。
恋愛経験がない自分には、想像できないことも多い。
ただ、相手に好かれたい一心で、自分の気持ちを押し殺すことが、必ずしも幸せではないのだと感じた。
「健太さん」
かずえがこちらを見た。
「はい」
「誰かに好かれるために、自分を変えすぎないでくださいね」
「……はい」
「それから、相手にも自分と同じ気持ちを求めすぎないこと」
健太は小さくうなずいた。
*
帰り道。
駅までの道を、健太はかずえと並んで歩いた。
つかさとつばさは、途中で別の店に寄ると言って先に帰っていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。少し話しすぎたかしら」
「そんなことないです。勉強になりました」
「勉強、ですか」
かずえは笑った。
「恋愛は勉強だけではどうにもならないことも多いですよ」
「そうですよね」
改札の前で、二人は立ち止まった。
「健太さん」
「はい」
「私は、あなたの恋人にはなれませんよ」
突然の言葉だった。
健太は驚いた。
「えっ……」
「誤解してほしくないから、先に伝えておきますね。私はあなたと話すのは楽しいし、応援もしています。でも、それは恋愛感情とは違います」
健太は、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
自分では、まだ好きになったつもりはなかった。
けれど、どこかで期待していたのだろう。
「分かりました。ありがとうございます」
「ごめんなさいね」
「いえ。はっきり言ってもらえてよかったです」
かずえは穏やかに頭を下げ、改札を通っていった。
健太は、その背中を見送った。
恋愛の答えを教えてくれる女性だと思っていた。
しかし、かずえが教えてくれたのは、答えではなかった。
自分の人生を、誰かの期待に合わせすぎないこと。
そして、相手の人生も、自分の期待に合わせようとしないこと。
健太はスマートフォンを取り出し、野球チームのグループに届いていたメッセージを確認した。
田村からだった。
『明日の練習、参加できる奴は返信してくれ』
健太は短く返信した。
『参加します』
そして、スマートフォンをポケットにしまった。
恋愛は、まだ分からない。
それでも、誰かの気持ちを勝手に決めつけることだけは、少しずつやめていこうと思った。




