第74話 年上の女性
七月十日、土曜日。
午前九時三十分。
大野健太は、洗面台の鏡の前で髪を整えていた。
今日は、つかさとつばさから誘われた食事会がある。
先週、小林えみという女性を紹介されたばかりだったが、今回は別の集まりらしい。
「誰が来るんだろうな……」
健太は独り言をつぶやいた。
つかさから聞いているのは、女性が一人参加するということだけだった。
年齢は四十一歳。
それ以外の情報は、ほとんどない。
四十一歳と聞いたとき、健太は少し驚いた。
自分は三十六歳。
五歳年上ということになる。
これまで健太が気になった女性は、同年代か年下が多かった。
年上の女性と親しく話した経験は、ほとんどない。
恋愛対象として考えたこともなかった。
だが、年齢だけで相手を判断するのも違う。
健太は、シャツの襟を整えた。
「まあ、普通に話せばいいか」
そう言って、家を出た。
*
午後六時。
駅前の居酒屋。
健太が店に入ると、すでにつかさとつばさが席に着いていた。
「大野さん、こちらです!」
つばさが手を振る。
「こんばんは。待たせた?」
「いえ、今来たところです」
つかさが答えた。
そして、二人の向かい側に座る女性が顔を上げた。
「初めまして。井上かずえです」
落ち着いた声だった。
肩までの髪をきれいにまとめ、紺色のブラウスを着ている。
派手さはないが、清潔感があり、目元には柔らかい笑みがあった。
「大野健太です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
かずえは軽く頭を下げた。
つばさが説明する。
「かずえさんは、私たちの知り合いなんです。今日は一緒に食事をしようって話になって」
「そうなんだ」
「かずえさん、今年で四十一歳なんですよ」
つばさが何気なく言った。
「ちょっと、つばささん。年齢をいきなり言わなくてもいいでしょう」
かずえは苦笑した。
「ごめんなさい」
健太は慌てて口を開いた。
「いや、年齢なんて気にしなくていいと思いますよ」
「ありがとうございます。でも、年齢を聞かれて驚かれることも多いんです」
「そうなんですか?」
「若く見えると言われることもありますし、逆に年齢相応に見られることもあります。人それぞれですね」
かずえは笑った。
その自然な会話に、健太の緊張は少し和らいだ。
*
食事が始まると、かずえは仕事の話をした。
事務関係の仕事をしており、職場では後輩の相談に乗ることも多いという。
「人の話を聞くことが多いんですね」
健太が尋ねる。
「そうですね。でも、聞くのと答えを出すのは違うと思っています」
「どういうことですか?」
「相談されると、つい何か言ってあげたくなるでしょう。でも、本人が自分で決めることも大切ですから」
健太は、その言葉に少し反応した。
最近、つかさやつばさの相談を聞く機会が増えていた。
自分は、相手に何か役立つことを言いたいと思ってしまう。
そして、相手から感謝されると嬉しくなる。
「大野さんは、相談されることが多いんですか?」
かずえが尋ねた。
「最近は、少しありますね」
「それは、聞き上手だからかもしれませんね」
「いや、そんなことはないですよ」
「自分では気づかないものですよ」
かずえは穏やかに笑った。
その言葉に、健太は嬉しさを感じた。
しかし、彼女は誰に対しても同じように接しているようだった。
つかさの話にも耳を傾け、つばさの冗談にも笑っている。
特別扱いされているわけではない。
それでも、話していて居心地がよかった。
*
午後七時四十分。
料理が一通り運ばれた頃、話題は恋愛へと移った。
つばさが、かずえに尋ねた。
「かずえさんって、今、好きな人いるんですか?」
「急に聞くわね」
「気になったので」
かずえは少し考えた。
「今は、特にいないかな」
「恋人は?」
「いないわよ」
つばさは、健太のほうを見た。
「大野さんは?」
健太は苦笑した。
「俺もいないよ」
「じゃあ、二人とも同じですね」
「何が同じなんだよ」
つばさが笑った。
かずえも、楽しそうに笑っている。
健太は、少し恥ずかしくなった。
そのとき、かずえが尋ねた。
「大野さんは、これまで恋愛経験は多いんですか?」
健太は、一瞬迷った。
自分の恋愛経験がほとんどないことを、初対面に近い女性に話すのは勇気がいる。
しかし、隠しても仕方がない。
「実は、付き合ったことがないんです」
「そうなんですね」
かずえは驚いた様子を見せなかった。
「恋愛経験がないことを、気にしていますか?」
「……まあ、気にしていないと言えば嘘になりますね」
「どうしてですか?」
健太は、少し考えた。
「年齢的にも、周りは結婚している人が多いですし、自分だけ遅れているような気がするんです」
「周りと比べてしまうんですね」
「はい」
かずえは、グラスを置いた。
「でも、恋愛に早いも遅いもないと思いますよ」
「そうですかね」
「もちろん、恋愛したいと思うことは自然です。でも、経験がないからといって、人として何か足りないわけではありません」
健太は、黙って聞いていた。
その言葉は、今までにも誰かから聞いたことがある。
それでも、四十一歳の女性から落ち着いた口調で言われると、不思議と心に残った。
「大野さんは、恋人が欲しいんですよね?」
「はい」
「では、恋人ができたら、どんなことをしたいですか?」
健太は、すぐには答えられなかった。
デート。
旅行。
食事。
手をつないで歩くこと。
一緒に過ごす時間。
いくつも思い浮かんだ。
「普通のことを、一緒にしたいですね」
「普通のこと?」
「休日に買い物に行ったり、映画を見たり、何でもない話をしたり」
かずえは、静かにうなずいた。
「それは素敵ですね」
健太は、少し照れた。
*
午後八時二十分。
食事会が終わり、四人は店の外に出た。
つかさとつばさは、駅の反対側へ歩いていく予定だった。
かずえは、健太と同じ方向だった。
「大野さん、駅まで一緒に歩きましょうか」
「はい」
二人で歩き始めた。
しばらく、仕事の話や趣味の話をした。
かずえは、休日には映画を見たり、近場へ出かけたりすることが多いらしい。
「大野さんは、野球を続けているんですよね」
「はい。草野球ですけど」
「長く続けられるものがあるのはいいですね」
「かずえさんは、何か趣味はあるんですか?」
「最近は、料理かな。凝ったものではないけれど、自分で作ると気分転換になります」
「いいですね。俺は料理が苦手なので、尊敬します」
「簡単なものから始めればいいんですよ」
駅に着いた。
改札へ向かう前、かずえが立ち止まった。
「今日は楽しかったです」
「俺もです。ありがとうございました」
「また、みんなで食事できるといいですね」
健太はうなずいた。
「そうですね」
かずえは軽く手を振り、改札へ入っていった。
健太は、その姿を見送った。
今日も、恋愛が始まったわけではない。
連絡先を交換したわけでもない。
ただ、話をして楽しかった。
それだけだった。
だが、帰りの電車の中で、かずえの言葉を思い出していた。
『経験がないからといって、人として何か足りないわけではありません』
その言葉が、なぜか心に残っていた。
*
午後十時五十分。
自宅に着いた健太のスマートフォンに、つかさからメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました。かずえさん、どうでしたか?』
健太は返信した。
『落ち着いた人で、話しやすかったよ。いろいろ考えさせられた』
『そうですか。よかったです』
そのあと、つかさから続けてメッセージが届いた。
『かずえさんは、少し変わったところがある人なんです』
健太は首をかしげた。
『変わったところ?』
『恋愛の相談にはよく乗ってくれるんですけど、自分の恋愛については、ほとんど話さないんです』
健太は、今日の会話を思い出した。
確かに、かずえは恋人がいないとは言ったが、過去の恋愛については詳しく話さなかった。
『何か理由があるの?』
『私にも分かりません。ただ、以前、恋愛で大きな失敗をしたことがあるみたいです』
健太は、少し考えた。
四十一歳の女性。
落ち着いた雰囲気。
人の相談には乗るが、自分の恋愛については語らない。
何か事情があるのかもしれない。
しかし、それを自分が知る必要はない。
そう思った。
そのとき、もう一通メッセージが届いた。
『大野さん、かずえさんから伝言があります』
健太は画面を見つめた。
『また話したいそうです。ただし、恋愛の相談相手としてではなく、一人の知人として』
健太は、少し驚いた。
恋愛の相談相手ではなく、一人の知人として。
その言葉の意味を考えながら、健太は返信した。
『そうなんだ。機会があれば、また話してみたいよ』
送信したあと、スマートフォンを置いた。
かずえという女性は、今まで出会った女性たちとは少し違う気がした。
自分に好意があるのかどうか。
そんなことを考えるよりも、彼女の言葉そのものが気になっていた。
そして、健太はまだ知らない。
かずえが自分の恋愛について語らない理由。
その過去に、彼女が今も答えを出せずにいることを。




