第73話 紹介された男、紹介される女
六月三十日、水曜日。
午後七時二十分。
大野健太は、夕食を食べながらスマートフォンを眺めていた。
つかさから届いたメッセージが気になっていた。
『私たちの恋愛とは関係なく、大野さんと話が合いそうな人です』
紹介したい人。
その言葉を、健太は何度も頭の中で繰り返していた。
――もしかして、女性を紹介してくれるのか?
そう考えた瞬間、胸が少し弾んだ。
しかし、すぐに疑問が浮かぶ。
なぜ、つかさが自分に女性を紹介するのだろう。
自分のことを、恋愛に向いていない男だと思っているのか。
それとも、単純に友人として相性がよさそうな人がいるだけなのか。
健太は、スマートフォンを手に取った。
『ちなみに、どんな人なの?』
送信すると、つかさから返事が来た。
『まだ秘密です。会ってからのお楽しみにしてください』
秘密。
また秘密だった。
健太は苦笑した。
この姉妹と知り合ってから、秘密という言葉を何度聞いただろう。
それでも、今回は少し楽しみだった。
*
七月三日、土曜日。
午前十時。
健太は、ドリーム・エース・ナインの練習に参加していた。
梅雨の湿気が残るグラウンドでは、選手たちが汗を流していた。
「大野、最近ちょっと顔が明るいな」
一塁手の石田が声をかけた。
「そうか?」
「そうだよ。前は練習中もスマホを気にしてたじゃないか」
「そんなことしてないだろ」
「してたって。メッセージが来たら、すぐ顔が変わってたぞ」
周囲のメンバーが笑った。
健太は苦笑いするしかなかった。
「まあ、最近は少し落ち着いたよ」
「恋愛の成果か?」
「成果なんてないよ」
「じゃあ、何だ?」
健太は少し考えた。
「人と話すのが、前より楽しくなったんだと思う」
その言葉に、石田はうなずいた。
「いいじゃないか。野球もそうだけど、結果ばかり追いかけてると楽しくなくなるからな」
「お前が言うと説得力あるな」
「俺は高いグローブを買って、まだ結果を出してないけどな」
二人は笑った。
練習が始まると、健太は三塁の守備についた。
打球が飛んでくる。
正面のゴロを捕り、素早く一塁へ送球する。
以前より、守備への集中力も戻ってきた気がした。
恋愛がうまくいくかどうかとは関係なく、野球を楽しめる。
それが今の健太には嬉しかった。
*
七月四日、日曜日。
午後六時。
健太は、つかさとつばさに指定された駅前のレストランに到着した。
約束の時間より十五分早い。
店の前でスマートフォンを確認していると、後ろから声がした。
「大野さん!」
振り返ると、つかさとつばさが並んで立っていた。
つかさは淡いブルーのブラウスに白いスカート。
つばさは明るい色のトップスに黒いパンツ。
二人とも、いつもより少しおしゃれをしているように見えた。
「今日はありがとうございます」
つかさが微笑む。
「こちらこそ。今日は誰か紹介してくれるんだよね?」
「はい。もうすぐ来ると思います」
三人で店に入ると、奥のテーブルに案内された。
それから五分ほどして、一人の女性が店に入ってきた。
三十代後半くらいだろうか。
落ち着いた色のワンピースに、肩までの髪。
派手な装飾はなく、姿勢がよく、歩き方にも落ち着きがあった。
つかさが立ち上がった。
「こちらです」
女性は三人の席に近づいてきた。
「ごめんなさい。少し遅れちゃった」
「大丈夫ですよ」
つかさが答える。
そして、健太に向き直った。
「大野さん、こちらが小林えみさんです」
「小林です。よろしくお願いします」
「大野健太です。よろしくお願いします」
健太は頭を下げた。
えみは、穏やかな笑顔で席に座った。
「大野さんのことは、少し聞いていますよ」
「えっ、何をですか?」
「野球をされていることと、真面目な方だということ」
健太は、少し照れた。
真面目。
女性からそう言われることは、悪い気がしなかった。
「そんな大したものじゃないですよ」
「そうですか?」
えみは笑った。
「つかささんから、いろいろ話を聞いていたので、一度お会いしてみたいと思っていたんです」
健太は、つかさを見た。
つかさは、何も言わずに微笑んでいる。
つばさも、楽しそうにこちらを見ていた。
――これは、どういう集まりなんだ?
健太の頭に、期待が浮かんだ。
もしかすると、えみは自分に興味を持ってくれているのではないか。
紹介という言葉には、そういう意味もあるのではないか。
しかし、健太はすぐに考え直した。
まだ会ったばかりだ。
話をしてみなければ分からない。
*
食事が始まると、話題は自然に広がった。
えみは、医療関係の仕事をしているという。
忙しい日も多いが、人と接することが好きで、仕事にはやりがいを感じているらしい。
「大野さんは、工場で働いているんですよね?」
「はい。自動車部品の製造関係です」
「大変なお仕事でしょう?」
「まあ、いろいろありますね。現場での調整もありますし、責任もあります」
えみは、健太の話を遮らずに聞いていた。
相づちも自然で、質問も的確だった。
健太は、話していて居心地がよかった。
「野球は、いつから続けているんですか?」
「高校時代からですね。高校では強いチームにいたんですけど、レギュラーにはなれませんでした」
「それでも、続けているんですね」
「はい。今は草野球ですけど、自分なりに楽しんでいます」
「素敵ですね。長く続けられる趣味があるのは」
その言葉に、健太は少し嬉しくなった。
女性に褒められると、やはり気分がいい。
しかし、えみは誰に対しても穏やかに接しているようだった。
つかさにも、つばさにも、同じように話しかけている。
健太は、そこに特別な意味を見つけようとはしなかった。
食事の途中、つかさがえみに尋ねた。
「えみさんは、最近どうですか?」
「どうって?」
「お仕事とか、プライベートとか」
えみは少し考えた。
「仕事は忙しいかな。プライベートは、特に変わりないよ」
「そうなんですね」
つかさは、どこか含みのある笑みを浮かべた。
健太は、その会話が気になった。
えみには、恋人がいるのだろうか。
結婚しているのだろうか。
それとも、独身なのだろうか。
聞いてみたい。
だが、いきなり尋ねるのは失礼かもしれない。
そんなことを考えていると、えみのほうから質問が来た。
「大野さんは、休日は野球以外に何をされているんですか?」
「家でゆっくりしたり、買い物に行ったりですね」
「旅行は?」
「たまに行きます。でも、最近はあまり行けていないですね」
「どんなところが好きですか?」
「自然があるところですかね。人が多すぎない場所で、ゆっくり過ごすのが好きです」
「いいですね。私も、静かな場所が好きです」
話は続いた。
気がつけば、食事の時間は二時間近くになっていた。
*
午後八時十五分。
店を出ると、つかさとつばさは駅の反対方向へ歩いていった。
「私たちは、少し買い物をしてから帰りますね」
つばさが言った。
「えみさん、大野さん、今日はありがとうございました」
つかさも微笑んだ。
「またお会いしましょう」
二人は先に歩いていった。
健太は、えみと二人で駅へ向かうことになった。
突然、二人きりになったことで、少し緊張した。
「今日は楽しかったです」
健太が言うと、えみは笑った。
「私もです。大野さん、思っていたより話しやすい方ですね」
「ありがとうございます」
「また、野球の話を聞かせてください」
「もちろんです」
駅に着くと、えみは改札へ向かう前に立ち止まった。
「大野さん」
「はい?」
「一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
えみは、少しだけ表情を変えた。
「大野さんは、今、恋人を探しているんですか?」
健太の心臓が、少し速くなった。
それは、今まで何度も聞かれてきた質問だった。
だが、今回は、なぜか少し違って聞こえた。
「……そうですね。できれば、いつかは恋人がほしいと思っています」
「そうなんですね」
えみはうなずいた。
「では、焦らずにいきましょう」
「え?」
「誰かと一緒にいることが目的になってしまうと、相手のことをちゃんと見られなくなることもありますから」
健太は、言葉を失った。
その言い方は、どこか自分のことを見透かしているようだった。
えみは、穏やかに続けた。
「今日はありがとうございました。また機会があれば、お話ししましょう」
そう言って、改札の向こうへ歩いていった。
健太は、その背中を見送った。
連絡先は交換していない。
次に会う約束もない。
それでも、今日の出会いは、どこか印象に残った。
帰り道、健太はつかさにメッセージを送った。
『今日はありがとう。えみさん、話しやすくて素敵な人だったよ』
すぐに返信が来た。
『よかったです。実は、えみさんからも、大野さんと話せて楽しかったと連絡がありました』
健太は、少しだけ期待した。
だが、その次の文章を読んで、表情が変わった。
『ただ、えみさんは恋愛目的で紹介したわけではないんです。そこだけは誤解しないでくださいね』
健太は、スマートフォンを見つめた。
また、勘違いしそうになっていた。
今日の出会いは、恋愛の始まりではなかった。
それでも、誰かと楽しく話せたことまで否定する必要はない。
健太は、短く返信した。
『分かったよ。今日は本当に楽しかった。ありがとう』
そして、スマートフォンをポケットにしまった。
新しい出会い。
それが恋愛につながらなくても、人とのつながりには意味がある。
そう思えるようになったことは、少しだけ成長なのかもしれなかった。
ただ、七月はまだ始まったばかりだった。
健太の前には、これまで出会ったことのない年上の女性が現れようとしていた。




