第71話 交差する二つの恋
六月十九日、土曜日。
午後十時四十一分。
大野健太は、つばさから届いたメッセージを見つめていた。
『そして、私が好きな人も、姉と無関係ではないんです』
姉と無関係ではない。
その一文が、頭から離れなかった。
つかさには、気になる男性がいる。
つばさにも、好きな男性がいる。
そして、その二人の男性には何らかのつながりがあるらしい。
――まさか、同じ男を好きになったのか?
健太の頭に、真っ先に浮かんだのはその可能性だった。
双子の姉妹が、同じ男性を好きになる。
ドラマや漫画なら、ありそうな展開だ。
しかし、現実でそれが起きているとしたら、本人たちはどれほど複雑な気持ちなのだろう。
健太は、すぐに質問を送ろうとして、指を止めた。
知りたい。
どうしても知りたい。
けれど、その好奇心は、つばさが自分に話してもいいと思っている範囲を超えていないだろうか。
健太は、一度スマートフォンを置いた。
水を飲み、もう一度手に取る。
『そうなんだ。話せる範囲でいいけど、二人とも同じ人を好きになったということ?』
送信したあと、少し後悔した。
踏み込みすぎただろうか。
数分後、つばさから返事が来た。
『違います。好きな人は別々です。でも、二人とも同じ職場の人なんです』
健太は、思わず声を出した。
「同じ職場?」
姉妹は同じ職場で働いているわけではない。
ならば、二人が好きになった男性たちが同じ職場にいるということだろうか。
あるいは、仕事を通じて知り合った男性たちなのか。
さらに質問したい気持ちを抑え、健太は短く返信した。
『なるほど。いろいろ事情があるんだね』
『はい。でも、まだ姉には言わないでください。私も、もう少し考えたいので』
『分かったよ』
健太は、それ以上聞かなかった。
だが、スマートフォンをしまったあとも、頭の中では勝手に物語が膨らんでいた。
二人の男性。
同じ職場。
姉と妹、それぞれの恋。
何か大きな問題が起きるのではないか。
自分が、その問題を解決することになるのではないか。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
そして健太は、自分に呆れた。
――また、主人公になろうとしている。
つばさが相談してくれたからといって、自分が物語の中心になるわけではない。
彼女たちの人生は、彼女たち自身のものだ。
健太はノートを開き、今日の出来事を書き留めた。
『他人の秘密を知っても、自分が特別な存在になったとは限らない』
書き終えたあと、彼はノートを閉じた。
*
六月二十日、日曜日。
午前十一時。
ドリーム・エース・ナインの練習は、梅雨の合間の晴天の下で行われていた。
健太は、打撃練習で三塁線への強い打球を放った。
「ナイスバッティング!」
石田が声を上げる。
「よし!」
健太は一塁ベースを駆け抜けるつもりで、軽く走った。
以前より、少しだけ体が動くようになった。
毎日劇的に変わるわけではない。
それでも、運動を続けることが、自分の生活を整える助けになっている。
練習後、藤井がペットボトルを差し出した。
「最近、どうよ?」
「何が?」
「双子の姉妹」
「みんな、そればっかりだな」
健太は苦笑しながら水を飲んだ。
「二人とも、好きな人がいるらしい」
「へえ。じゃあ、お前は?」
「俺は……」
答えかけて、言葉に詰まった。
二人とも気になる。
もっと仲良くなりたい。
しかし、それが恋愛感情なのか、女性と親しくなれたことへの喜びなのか、まだ分からない。
「まだ、よく分からない」
藤井はうなずいた。
「分からないなら、急いで決めなくていいだろ」
「田村にも似たようなことを言われたよ」
「そりゃ、そうだ。人の気持ちなんて、答え合わせのできる試験じゃないからな」
藤井は笑った。
「ただし、相手が相談してくれるからって、ずっと相談役をやる必要もないぞ。お前が苦しいなら、ちゃんと自分の気持ちも考えろよ」
健太は、その言葉を心に留めた。
誰かを好きになること。
相手の相談に乗ること。
自分が好かれたいと思うこと。
それらを、すべて一つのものとして扱ってはいけない。
少しずつでも、区別できるようになりたいと思った。
*
六月二十二日、火曜日。
午後七時十二分。
健太が夕食を終えた頃、つかさからメッセージが届いた。
『先日はありがとうございました。実は、来週会う予定だった人から、少し相談を受けたんです』
健太は返信した。
『相談? 何かあったの?』
『仕事のことで、少し悩んでいるみたいでした。私に話してくれたのは嬉しかったんですが、どう返事をすればいいか分からなくて』
健太は考えた。
つかさは、自分の恋愛について相談している。
相手の男性が自分をどう思っているか。
そして、今度はその男性から相談を受けたという。
相手も、つかさを信頼しているのかもしれない。
しかし、それだけで恋愛感情があるとは限らない。
以前の自分なら、ここで「脈ありかもしれない」と言っていたかもしれない。
だが、今は違った。
『つかささんが話を聞きたいと思うなら、無理のない範囲で聞いてあげたらいいと思うよ。でも、相手の問題を全部解決しようとしなくてもいいんじゃないかな』
『全部解決しなくても、いいんですか?』
『うん。話を聞くことと、相手の人生を背負うことは違うから』
返信を送ると、つかさからしばらく返事がなかった。
やがて、短いメッセージが届いた。
『大野さんは、以前よりずっと落ち着いて考えられるようになった気がします』
健太は、少し照れくさくなった。
『まだまだだよ。俺も失敗ばかりだから』
『それでも、私は話を聞いてもらえて助かっています』
その言葉を読んで、健太の胸が温かくなった。
やはり、頼りにされるのは嬉しい。
しかし、その嬉しさを、相手が自分を好きだという証拠にはしない。
健太は、そう決めていた。
*
六月二十四日、木曜日。
午後八時五分。
つばさから電話がかかってきた。
健太は、驚きながら通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『突然すみません。今、少しだけ話せますか?』
「大丈夫だよ。どうしたの?」
電話の向こうで、つばさが小さく息を吐いた。
『姉に、好きな人のことを話そうと思うんです』
健太は、黙って聞いた。
『ずっと秘密にしていたのは、姉に心配をかけたくなかったからです。でも、隠していることで、逆に姉を不安にさせている気がして』
「うん」
『それに、姉の恋愛のことも、ちゃんと応援したいんです。自分のことを隠したまま、姉の相談に乗るのは、なんだか違うと思って』
健太は、つばさの言葉を聞きながら、少し感心した。
彼女は、自分の気持ちと姉への思いを、きちんと考えている。
誰かに言われたからではない。
自分で考え、自分で決めようとしている。
「つばささんがそう思ったなら、話してみてもいいんじゃないかな」
『姉が驚くかもしれません』
「それは、あるかもしれないね。でも、驚くことと、受け入れられないことは別だと思うよ」
電話の向こうで、つばさが小さく笑った。
『大野さんって、たまに、すごく真面目なことを言いますよね』
「たまにって何だよ」
『ふふっ。すみません』
二人は笑った。
電話を切る前、つばさが言った。
『大野さんに話せてよかったです。今度、姉に話してみます』
「うん。応援してるよ」
通話が終わった。
健太は、スマートフォンを机に置いた。
つばさは、自分の恋愛を姉に話す決心をした。
これで、姉妹の間にあった秘密は、少しずつ解けていくのかもしれない。
そう思った。
ところが、翌日の夜。
健太のスマートフォンに、つかさからメッセージが届いた。
『大野さん。妹のことで、少し聞きたいことがあります』
健太の胸がざわついた。
続く文章を読んだ瞬間、指先が止まった。
『つばさが好きな人って、もしかして、私が気になっている人と同じ会社の方なんでしょうか?』
姉は、まだすべてを知らない。
妹も、まだすべてを話していない。
そして健太は、二人のどちらにも、勝手な答えを与えることはできなかった。
彼は、返信画面を開いた。
何と答えるべきなのか。
今度こそ、自分の言葉が、二人の関係を左右するかもしれなかった。




