第70話 姉が気づいた小さな嘘
六月十二日、土曜日。
午後十時二十三分。
大野健太は、つかさから届いたメッセージを何度も読み返していた。
『実は、つばさには、私にもまだ言っていないことがあるようなんです』
妹の秘密に、姉が気づき始めている。
それ自体は、不思議なことではない。
一緒に暮らしているのか、どれほど頻繁に連絡を取っているのか、健太は詳しく知らない。それでも、長い時間を一緒に過ごしてきた姉妹なら、普段と違う様子に気づくことはあるだろう。
問題は、自分がその秘密を知っていることだった。
つばさから、好きな人がいると打ち明けられた。
そして、姉にはまだ話さないでほしいと頼まれた。
健太は約束した。
だからといって、つかさにすべてを隠す必要があるのだろうか。
いや、必要があるかどうかを決めるのは、自分ではない。
健太は返信を打った。
『そうなんですね。つばささんにも、本人のタイミングがあると思います。俺から無理に聞いたり、話したりすることはしませんよ』
送信してから、少し考えた。
これでよかったのだろうか。
つかさは、自分を信頼してくれている。
しかし、つばさも自分を信頼して秘密を話してくれた。
どちらか一方の信頼を守るために、もう一方を傷つけるようなことはしたくなかった。
やがて、つかさから返信が届いた。
『そうですよね。私も、無理に聞くつもりはありません。ただ、あの子が何か困っているなら、力になりたいと思っているんです』
健太は、その文章を見て、少し安心した。
姉は妹を疑っているわけではない。
心配しているのだ。
『つかささんが心配してくれていることは、きっと、つばささんにも伝わっていると思います』
そう返信すると、つかさから小さな笑顔の絵文字が届いた。
健太はスマートフォンを置いた。
二人の姉妹は、互いを大切にしている。
その関係を、自分の恋愛への期待で乱したくはなかった。
そう思っていた。
ただし、健太はまだ知らなかった。
自分が二人の間に立つことになるのは、秘密を守るためだけではないということを。
*
六月十三日、日曜日。
午前九時三十分。
健太は、近所の公園で軽いジョギングをしていた。
以前なら、女性からのメッセージが届くだけで、その日の気分が大きく変わっていた。
返信が早ければ期待する。
遅ければ不安になる。
文章に絵文字があれば、自分に好意があるのではないかと考える。
そんなことを繰り返していた。
最近は、少しずつだが、その癖に気づけるようになってきた。
スマートフォンを確認する回数も減った。
もちろん、完全に気にならなくなったわけではない。
つかさとつばさから連絡が来れば、やはり嬉しい。
それでも、その嬉しさを恋愛の証拠に変換しない。
今の健太にとって、それは小さくても大事な進歩だった。
公園を二周したところで、ベンチに座った。
息を整えながら、スマートフォンを確認する。
つばさからメッセージが届いていた。
『昨日はありがとうございました! 姉も楽しかったみたいです』
健太は返信した。
『こちらこそ。二人とも楽しそうでよかったよ』
少しして、続きが届いた。
『ところで、大野さん。姉から何か聞きましたか?』
健太の指が止まった。
つかさから届いたメッセージのことだろうか。
妹の様子がいつもと違うと、姉が感じていること。
しかし、どこまで話していいのか分からない。
健太は慎重に返信した。
『昨日の食事のあと、つかささんから、つばささんのことを心配していると聞いたよ』
嘘はつかなかった。
だが、つばさの秘密を勝手に明かすこともしなかった。
しばらくして、返信が届いた。
『やっぱり、姉は気づいてるんですね』
その文章には、いつもの明るい雰囲気がなかった。
健太は、少し迷ったあとに尋ねた。
『話したいことがあるなら聞くよ。でも、無理に話さなくても大丈夫だからね』
返事は、すぐには来なかった。
十分ほどして、ようやく届いた。
『ありがとうございます。もう少し、自分で考えてみます』
健太は、その言葉を受け止めた。
以前の自分なら、もっと詳しく聞こうとしたかもしれない。
相談を聞けば、相手との距離が縮まる。
相手の秘密を知れば、自分は特別な存在になれる。
そんな期待が、心のどこかにあったからだ。
だが、相手が話したくないことまで聞き出すのは、親切ではない。
健太は短く返信した。
『分かった。応援してるよ』
それで終わりにした。
つばさが自分で考える時間を、尊重したかった。
*
六月十五日、火曜日。
午後六時四十分。
仕事を終えた健太は、会社の駐車場で木村亮と立ち話をしていた。
「最近、双子の子たちとはどうなんだ?」
木村が尋ねた。
「普通に食事したり、メッセージしたりしてるよ」
「へえ。順調じゃないか」
「何が順調なんだよ。二人とも、好きな人がいるんだぞ」
健太は思わず苦笑した。
木村は、少し真面目な顔になった。
「それ、本人たちから聞いたのか?」
「うん。つかささんにも、つばささんにも、それぞれ気になる人がいるらしい」
「じゃあ、お前はどうしたいんだ?」
また、その質問だった。
健太は、車のドアに手をかけたまま考えた。
「……仲良くなりたいとは思ってるよ」
「それだけ?」
「できれば、俺のことも好きになってくれたら嬉しい」
正直に言った。
木村は笑わなかった。
「そりゃ、そうだろ。好きになった相手に好かれたいのは普通だ」
「でも、相手には相手の気持ちがあるからな」
「そうだな。だから、お前ができるのは、自分の気持ちを自覚することと、相手の気持ちを尊重することくらいだろ」
木村は腕時計を確認した。
「それに、相談を聞くのが楽しいなら聞けばいい。でも、苦しくなったら距離を置いてもいいんだぞ」
健太は、うなずいた。
「分かってる」
「本当に?」
「……分かろうとしてる」
木村は、そこでようやく笑った。
「その答えのほうが、お前らしいな」
二人は別れ、それぞれの車に乗り込んだ。
帰宅途中、健太は考えていた。
自分は、女性と仲良くなることばかりを目標にしてきた。
だが、仲良くなったあと、どうすればいいのか。
相手が自分を好きではなかったら。
相手に恋人ができたら。
自分の期待と、相手の望みが違っていたら。
そのときに、相手を責めず、自分も傷つけすぎずにいられるのだろうか。
まだ自信はなかった。
それでも、以前よりは、自分の気持ちを正直に見つめられるようになっていた。
*
六月十九日、土曜日。
午後二時。
健太は、つかさから誘われて、駅前のカフェに来ていた。
つばさはいない。
つかさと二人きりで会うのは、これが初めてだった。
「急に誘ってしまって、すみません」
「いや、大丈夫だよ。どうしたの?」
つかさはコーヒーを一口飲み、少し考えてから話し始めた。
「実は、気になっている人と、来週また会うことになったんです」
健太の胸が、わずかに沈んだ。
分かっていたことだ。
つかさには、気になる男性がいる。
それでも、本人の口から聞くと、少しだけ寂しかった。
「そうなんだ。よかったね」
「はい。ただ、前回会ったときに、少し気になることがあって」
「気になること?」
つかさは、カップを両手で包んだ。
「彼は、私と話しているとき、とても楽しそうなんです。でも、誰にでも親切な人なので、私だけに特別な気持ちがあるのか分からなくて」
健太は、思わず苦笑した。
その悩みは、少し前まで自分が抱えていたものとよく似ていた。
笑ってくれる。
話を聞いてくれる。
また会おうと言ってくれる。
その一つひとつに、意味を探してしまう。
「……俺も、似たようなことで悩んだことがあるよ」
「大野さんも?」
「うん。相手が優しくしてくれると、もしかしたら自分に好意があるんじゃないかって、つい期待してしまうんだ」
つかさは、静かにうなずいた。
「それで、どうしたんですか?」
「どうもしなかった。相手の気持ちは、本人にしか分からないから。ただ、相手の行動を自分に都合よく解釈しないようにしてる」
「難しそうですね」
「難しいよ。今でも、できてるか分からない」
二人は笑った。
健太は、続けた。
「でも、つかささんがその人と会いたいなら、会ってみたらいいと思う。相手の気持ちを確かめるためだけじゃなくて、自分がその人と一緒にいて楽しいか、知るためにも」
つかさは、しばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずいた。
「そうですね。私も、彼の気持ちばかり考えていました」
「自分がどうしたいかも、大事なんじゃないかな」
「……ありがとうございます」
つかさは、少し照れたように笑った。
「大野さんと話していると、自分の気持ちを整理できる気がします」
その言葉に、健太の胸が温かくなった。
同時に、警戒する自分もいた。
これは、信頼の言葉だ。
恋愛感情の告白ではない。
そう自分に言い聞かせた。
「俺でよければ、また話は聞くよ」
「はい。ありがとうございます」
カフェを出ると、つかさは駅の改札へ向かった。
別れ際、彼女が振り返った。
「大野さんも、誰かと出会えたらいいですね」
健太は、少しだけ言葉に詰まった。
「……そうだね」
つかさは微笑んで、改札の向こうへ消えていった。
健太は、その背中を見送った。
彼女は、自分の恋愛を応援してくれている。
それは嬉しい。
しかし、その優しさが、いつか自分の望みとは違う形であることを思い知らされるのかもしれない。
健太は、ゆっくりと駅を離れた。
そして、その夜。
つばさから、思いがけないメッセージが届いた。
『大野さん。実は、姉が気になっている人のこと、私も知っているんです』
健太は画面を見つめた。
続く文章には、こう書かれていた。
『そして、私が好きな人も、姉と無関係ではないんです』
健太は、スマートフォンを握り直した。
姉の恋。
妹の恋。
二つの恋は、別々に進んでいると思っていた。
だが、どうやらそうではないらしい。




