第69話 妹の好きな人は誰だ
六月五日、土曜日。
午後七時十五分。
大野健太は、夕食を終えた自室でスマートフォンを眺めていた。
つばさから相談を受けて、四日が過ぎた。
彼女には気になっている男性がいる。
その男性について、健太は名前も年齢も知らない。
聞けば教えてくれるかもしれないが、あえて尋ねるつもりはなかった。
つばさが自分から話したくなるまでは、待とうと思っていたからだ。
ところが、待つと決めた人間ほど、余計なことを考えてしまう。
――どんな男なんだろう。
――つばささんと、どこで知り合ったんだろう。
――俺より年上なのか。それとも同年代なのか。
「……何で俺が気にしてるんだよ」
健太はスマートフォンを机に置いた。
つばさの恋愛は、つばさのものだ。
自分が口を挟むことではない。
それなのに、胸の奥に小さな引っかかりがあった。
つかさには、気になっている男性がいる。
つばさにも、気になっている男性がいる。
二人とも、これから恋愛が進むかもしれない。
そう考えると、なぜか自分だけが取り残されるような気がした。
健太は、首を振った。
誰かの恋愛が進んだからといって、自分の人生が止まるわけではない。
そんな当たり前のことを、何度も自分に言い聞かせなければならないのが、今の自分だった。
*
翌日、六月六日。
午前十時。
健太はドリーム・エース・ナインの練習に参加していた。
キャッチボールを終えたところで、田村が声をかけてきた。
「最近、どうだ?」
「何が?」
「双子の二人」
健太は苦笑した。
「お前まで聞くのかよ」
「気になるだろ。お前が女性二人と知り合うなんて、なかなかないからな」
「それ、どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
田村は悪びれもせずに笑った。
健太は、つかさとつばさについて話した。
つかさには気になる男性がいること。
つばさにも、別の気になる男性がいること。
そして、自分は二人の相談相手になっていること。
田村は黙って聞いていた。
「なるほどな」
「何だよ」
「お前は、その二人とどうなりたいんだ?」
健太は答えに詰まった。
どうなりたいのか。
二人と仲良くなりたい。
もっと話してみたい。
できれば、自分に好意を持ってほしい。
だが、その気持ちを認めると、また期待しすぎてしまうような気がした。
「……まだ分からない」
「それでいいんじゃないか」
田村は意外なほどあっさり言った。
「分からないなら、今は分からないままでいい。ただ、相手の相談を聞くことと、自分の恋愛を進めることは分けて考えたほうがいいぞ」
「どういうこと?」
「相手の相談に乗っているうちに、自分のことを好きになってくれるんじゃないか。そういう期待を持ち始めたら、相談に乗ること自体が苦しくなるだろ」
健太は、黙ってうなずいた。
まさに、その通りだった。
「相談を聞きたいから聞くのか。それとも、好きになってほしいから聞くのか。自分の中で、そこを誤魔化さないことだな」
田村はグローブを持ち直した。
「まあ、俺も偉そうなことを言えるほど恋愛がうまいわけじゃないけどな」
「……それは知ってる」
「おい!」
二人は笑った。
そのあと、健太は守備練習に戻った。
目の前のボールを捕り、送球する。
今、自分にできることを一つずつやる。
恋愛のことも、それと同じなのかもしれなかった。
*
六月八日、火曜日。
午後八時四分。
健太のスマートフォンに、つばさからメッセージが届いた。
『大野さん、今週の土曜日って空いてますか?』
健太は、少し考えてから返信した。
『今のところ予定はないよ。どうしたの?』
『もしよかったら、姉と三人で食事に行きませんか? この前のお礼もしたいので』
三人で食事。
健太は、胸をなで下ろした。
二人きりではない。
それを残念に思う気持ちが、ほんの少しあった。
だが、つかさも一緒なら、気楽に話せるだろう。
『いいよ。何時ごろがいい?』
『午後六時くらいでどうですか?』
『大丈夫だよ』
約束が決まった。
健太は、スマートフォンを置こうとした。
そのとき、もう一通メッセージが届いた。
『あ、そうだ。大野さんに、ちょっとお願いがあるんです』
健太は画面を見つめた。
お願い。
また相談だろうか。
『何かな?』
返事はすぐに来た。
『当日、姉には私の好きな人の話をしないでください。まだ、姉には話すタイミングじゃないと思うので』
健太は、少し考えた。
つばさの気持ちは分かる。
姉に知られたくない事情もあるのだろう。
ただし、つかさに嘘をつくことになるような話であれば、慎重に考えなければならない。
『分かった。俺から話題にすることはないよ。ただ、もし聞かれたら、嘘をつくより、つばささんが自分で話せる範囲で答えたほうがいいと思う』
しばらくして、返信が届いた。
『はい。ありがとうございます』
健太はスマートフォンを伏せた。
二人の姉妹は、お互いを大切に思っている。
だからこそ、隠しておきたいこともある。
自分は、そこに不用意に踏み込まないほうがいい。
そう考えていた。
しかし、健太は一つだけ、気になっていた。
つばさは、なぜ自分にここまで話してくれるのだろう。
自分が話を聞くから。
口が堅そうに見えるから。
それとも、単に相談しやすいだけなのか。
どれも十分あり得る理由だった。
そして、そのどれであっても、恋愛感情があるという証拠にはならない。
健太は、ノートに新しい一文を書いた。
『秘密を打ち明けられたことを、特別な好意と決めつけない』
書き終えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
*
六月十二日、土曜日。
午後五時五十分。
健太は、駅前のレストランで二人を待っていた。
約束の時間まで、あと十分。
今日は、つかさとつばさとの三人での食事だ。
相談相手としてではなく、知人同士として楽しく過ごせればいい。
そう考えていた。
やがて、二人が店に入ってきた。
「お待たせしました!」
つばさが手を振る。
つかさも微笑んで頭を下げた。
「今日はありがとうございます」
「いや、こちらこそ誘ってくれてありがとう」
三人は席に着き、メニューを開いた。
つばさは迷わず料理を選び、つかさはじっくりとメニューを見比べていた。
「お姉ちゃん、また迷ってる」
「だって、どれもおいしそうなんだもの」
「だったら、私と違うものを頼んで、少しずつ交換しようよ」
「それなら、そうしましょうか」
二人のやり取りを見て、健太は笑った。
姉妹の仲のよさが伝わってくる。
食事が始まると、話題は仕事や趣味、最近見た映画などに広がった。
健太も、自分の失敗談を話した。
高校時代、練習試合で簡単なゴロを捕り損ね、監督に厳しく叱られたこと。
草野球で張り切りすぎて、翌日筋肉痛になったこと。
つばさは声を上げて笑い、つかさも楽しそうに聞いていた。
健太は、こういう時間が好きだと思った。
誰かの気持ちを探り合うのではなく、ただ話して、笑って、相手を知っていく。
それだけでも、十分に楽しい。
食事が終わりに近づいた頃、つかさが健太に尋ねた。
「大野さんは、女性と二人で食事をすることって多いんですか?」
健太の箸が止まった。
「……いや、ほとんどないよ」
「そうなんですね」
つかさは、少し考えるような表情を浮かべた。
「では、今日みたいに三人で食事をするのは、どうですか?」
「楽しいよ。二人とも話しやすいし」
そう答えると、つかさは微笑んだ。
「よかったです」
その言葉に、健太は少しだけ嬉しくなった。
だが、そこで会話が終わると、つばさが突然口を開いた。
「そういえば、大野さんって、私たちのどっちと話してるときのほうが楽しいですか?」
健太は、飲んでいた水をむせそうになった。
「えっ?」
つかさも驚いた顔で妹を見た。
「つばさ、急に何を聞くの?」
「いや、気になっただけ!」
つばさは笑っている。
冗談なのか。
それとも、何か意図があるのか。
健太には分からなかった。
二人の顔を見比べる。
似ている。
けれど、表情は違う。
つかさは少し困ったように笑い、つばさは答えを待つようにこちらを見ていた。
健太は、慎重に口を開いた。
「二人とも違うところがあって、どっちと話していても楽しいよ」
「それって、答えになってないですよ」
つばさが笑う。
「いや、本当にそう思ってるんだよ。つかささんは落ち着いて話せるし、つばささんは明るくて、話題が広がるから」
「ふうん……」
つばさは意味ありげにうなずいた。
つかさは、少しだけ視線を落とした。
その表情を見て、健太の胸がざわついた。
今の答えでよかったのだろうか。
どちらかを選ぶような質問だったのだろうか。
いや、そもそも、二人を比較して選ぶ必要などない。
健太は、考えるのをやめた。
食事のあと、三人は駅まで歩いた。
別れ際、つかさが言った。
「今日は本当に楽しかったです。また、よかったらご一緒してください」
「うん。ぜひ」
つばさも笑顔で続けた。
「次は、私が行きたいお店を選んでもいいですか?」
「もちろん」
二人と別れたあと、健太は駅のホームで電車を待った。
今日は楽しかった。
それは間違いない。
だが、帰りの電車の中で、つばさの質問が何度も頭をよぎった。
『私たちのどっちと話してるときのほうが楽しいですか?』
あれは、ただの冗談だったのだろうか。
それとも、妹は姉の気持ちを確かめようとしていたのだろうか。
健太は、スマートフォンを取り出した。
つかさからも、つばさからも、まだ何のメッセージも届いていない。
当然だった。
食事を終えたばかりなのだから。
それでも健太は、画面を見つめてしまう。
そして、気づいた。
自分は二人のことを知ろうとしているつもりで、いつの間にか、二人からどう思われているかばかりを気にしている。
相手を知ることと、相手に選ばれたいと思うこと。
その二つは、似ているようで違う。
健太はスマートフォンをしまった。
今夜は、これ以上考えない。
そう決めた。
だが、その夜遅く。
つかさから届いた一通のメッセージが、健太の気持ちを再び揺さぶることになる。
『大野さん。今日、妹が変なことを聞いてしまって、すみませんでした』
健太は、画面を見つめた。
そして、続く文章を読んだ。
『実は、つばさには、私にもまだ言っていないことがあるようなんです』
双子の姉は、妹の秘密に気づき始めていた。




