第68話 妹が隠していること
五月三十一日、月曜日。
午前六時四十分。
大野健太は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
枕元のスマートフォンには、昨夜つばさから届いたメッセージが残っている。
『実は、大野さんに聞いてほしいことがあるんです。姉には、まだ内緒にしておいてください』
健太は、その文章を三度読み返した。
姉には内緒。
聞いてほしいこと。
この二つの言葉が、頭から離れなかった。
――つかささんの恋愛について、何か新しい情報があるのか?
――それとも、つばささん自身の悩みなのか?
――まさか、俺に関係する話じゃないよな。
最後の考えが浮かんだ瞬間、健太は自分の額を軽く叩いた。
「また始まった……」
何でも自分の恋愛に結びつける。
それが自分の悪い癖だった。
健太は、慎重に返信した。
『分かったよ。話せる範囲で聞くよ。ただ、お姉さんに内緒にするのが難しい話なら、無理に約束はできないからね』
送信すると、少しして返事が届いた。
『ありがとうございます。大野さんなら、そう言ってくれると思いました』
健太は首をかしげた。
そう言ってくれると思った。
自分は、つばさからどんな人間だと思われているのだろう。
気になる。
だが、今はそれ以上考えないことにした。
*
昼休み。
工場の食堂で、健太は同僚の木村亮と向かい合っていた。
「それで、妹から秘密の相談?」
木村は、健太の話を聞いて笑った。
「何だよ、その言い方」
「いや、なんか事件の始まりみたいじゃないか」
「俺は真面目に悩んでるんだぞ」
「何を悩む必要があるんだよ。話を聞いてほしいって言われたなら、聞いてやればいいだろ」
木村は箸を置いた。
「ただし、秘密にしてほしいと言われたからって、何でもかんでも引き受けるなよ。内容によっては、本人だけで抱え込ませないほうがいいこともある」
「分かってる」
「それと、相手が相談してくれたからって、特別な関係になったと思うな」
健太は顔をしかめた。
「……お前、俺のことを信用してないだろ」
「信用してるよ。だから言ってるんだ。お前は、期待すると自分でブレーキを踏むのが難しくなるからな」
言い返せなかった。
木村の指摘は、腹立たしいほど正しかった。
健太は、昨日のつかさとの会話を思い出した。
彼女の悩みを聞いて、役に立てたことが嬉しかった。
だが、もし彼女が気になっている男性と付き合うことになれば、自分は心から祝福できるだろうか。
その問いに、まだ自信を持って答えられなかった。
「俺、誰かの相談相手になるのは、向いてないのかな」
健太が呟くと、木村は首を横に振った。
「そんなことはない。相談相手になるのと、自分の気持ちを犠牲にするのは別だろ。しんどくなったら、距離を置いてもいいんだ」
「……そうだな」
「まずは話を聞け。答えを急ぐな。お前自身のことも、相手のこともな」
健太は弁当の残りを口に運んだ。
いつも同じような助言を受けている気がする。
それでも、すぐに忘れてしまうのが自分だった。
*
六月一日、火曜日。
午後七時。
仕事を終えた健太は、つばさと駅前の喫茶店で待ち合わせていた。
つかさには内緒の相談。
それがどんな内容なのか、健太には見当もつかなかった。
店に入ると、つばさは窓際の席に座っていた。
今日は、いつもの明るい表情とは少し違う。
健太が向かいに座ると、つばさは小さく頭を下げた。
「急にすみません。仕事帰りなのに」
「大丈夫だよ。それで、どうしたの?」
つばさは、しばらくカップの縁を見つめていた。
やがて、意を決したように口を開いた。
「私、姉に隠していることがあるんです」
「隠していること?」
「はい。実は……私にも、気になっている人がいるんです」
健太は少し驚いた。
「そうなんだ」
「でも、姉には言っていません」
つばさは、苦笑した。
「姉は私のことを心配しすぎるから。誰かを好きになったって知ったら、相手がどんな人なのか、仕事は何をしているのか、家族はどうなのかって、いろいろ調べようとすると思うんです」
「つかささんらしい気もするな」
「そうなんです。私のことを考えてくれているのは分かるんですけど、恋愛くらい、自分で決めたいんです」
健太は黙って聞いていた。
つばさの声には、いつもの勢いがなかった。
「それで、その人とは……うまくいってるの?」
「それが、まだ何も」
つばさは小さく笑った。
「何度か会って話しただけです。向こうが私をどう思っているのかも分かりません」
「そうか」
「だから、姉に相談するのも怖くて。もし反対されたら、まだ何も始まっていないのに、諦めたくなってしまいそうだから」
健太は、彼女の気持ちが少し分かる気がした。
自分も、恋愛が始まる前から失敗を恐れていた。
相手にどう思われるか。
拒絶されたらどうするか。
考えすぎて、行動できなくなる。
つばさは、明るく見えても、恋愛に関しては不安を抱えているのかもしれない。
「その人のこと、好きなんだね」
健太が言うと、つばさは頬を赤くした。
「……はい。たぶん」
「たぶん?」
「まだ、好きって言い切れるほど知らないんです。でも、会えると嬉しいし、メッセージが来ると気になるし。だから、もっと知りたいなって」
健太は、自然に微笑んだ。
それは、恋愛の始まりによくある感情なのかもしれない。
まだ相手のことを十分に知らない。
それでも、知りたいと思う。
自分にも、そんな気持ちがあった。
ただし、健太はそこで一つ、気になることに気づいた。
つかさには、気になっている男性がいる。
つばさにも、気になっている男性がいる。
二人は双子で、互いを大切に思っている。
もし、それぞれの恋愛が進んだら。
姉妹の間で、何か問題が起こるのだろうか。
「つかささんが気になっている人と、つばささんが気になっている人は、別の人なんだよね?」
健太が確認すると、つばさはきっぱりとうなずいた。
「もちろんです。そこは全然違います」
「なら、よかった」
「……何がですか?」
「いや、もし同じ人だったら、ややこしいことになるかと思って」
つばさは一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「何ですか、それ! そんなドラマみたいなこと、ありませんよ!」
「いや、双子って聞くと、そういう展開を想像する人もいるだろ」
「大野さん、意外と想像力が豊かですね」
「小説家じゃないんだから」
二人は笑った。
少し緊張がほぐれたようだった。
つばさは、真面目な表情に戻った。
「大野さん。私、姉に話したほうがいいと思いますか?」
健太はすぐには答えなかった。
話したほうがいいのか。
黙っていたほうがいいのか。
それを決めるのは、つばさ自身だ。
「俺なら、無理に今すぐ話す必要はないと思う。でも、ずっと隠さなきゃいけないとも思わないよ」
「どういうことですか?」
「つばささんが、自分の気持ちを整理できて、話してもいいと思えたときに話せばいいんじゃないかな。お姉さんを大切にすることと、自分の気持ちを大切にすることは、両立できると思うから」
つばさは、じっと健太を見つめた。
「……大野さんに相談してよかったです」
その言葉に、健太は嬉しくなった。
けれど、今回はそれ以上の意味を探さなかった。
つばさは、自分の悩みを聞いてもらえたことに感謝している。
今は、それで十分だった。
*
喫茶店を出たのは、午後八時を過ぎた頃だった。
駅へ向かう途中、つばさが足を止めた。
「大野さん」
「ん?」
「今日の話、姉にはまだ言わないでくださいね」
「分かった。つばささんが話すまでは、俺からは言わないよ」
「ありがとうございます」
つばさは、少し安心したように笑った。
「それと……」
「まだ何かあるの?」
つばさは、言おうか迷うように視線を落とした。
「大野さんは、好きな人ができたら、どうするんですか?」
健太は少し考えた。
以前なら、すぐに「告白する」と答えただろう。
しかし今は、そんなに簡単なことではないと分かっている。
「まずは、相手のことを知りたいかな。話して、一緒に過ごして、それで自分の気持ちが本当だと思えたら、ちゃんと伝えたい」
「相手に好きな人がいても?」
「……それは、つらいと思う」
健太は正直に答えた。
「でも、相手が誰を好きになるかは、その人が決めることだから。自分が好きだからって、相手の気持ちを変えさせることはできないよ」
つばさは、静かにうなずいた。
「そうですよね」
それから、少しだけ笑った。
「大野さんって、前に会ったときより、恋愛について考えている感じがします」
「そうかな」
「はい。なんだか、少し変わった気がします」
健太は照れくさくなった。
自分は、まだ何も成し遂げていない。
恋人ができたわけでもない。
恋愛の悩みがなくなったわけでもない。
それでも、以前より少しは変わっているのかもしれない。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
つばさは改札へ向かう前に、手を振った。
「また相談してもいいですか?」
「もちろん。ただ、俺の意見が正しいとは限らないからね」
「分かってます!」
つばさは笑顔で改札を通っていった。
健太は、その姿を見送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
今日は、彼女の秘密を一つ知った。
それは、自分にとって特別な意味を持つ秘密ではない。
つばさが、自分の恋愛を自分で決めたいと思っていること。
その気持ちを知ることができた。
それだけで、十分だった。
……そう思おうとした。
しかし、帰宅途中の電車の中で、健太は一つの疑問に気づいた。
つばさが気になっている男性は、どんな人なのだろう。
自分と比べて、何が違うのだろう。
そして、もし彼女がその男性と付き合い始めたら、自分は素直に祝福できるだろうか。
健太は目を閉じた。
また、他人の恋愛を自分の価値と結びつけようとしている。
まだ何も起きていないのに。
スマートフォンが震えた。
つばさからだった。
『今日は本当にありがとうございました。大野さんに話せて、少し気持ちが楽になりました』
健太は短く返信した。
『こちらこそ、話してくれてありがとう。自分の気持ちを大切にしてね』
送信。
それから、スマートフォンをポケットにしまった。
姉には言えない妹の秘密。
妹には言えない姉の恋心。
そして、その二人の間にいる自分。
健太は、まだ知らなかった。
つかさとつばさが、それぞれの恋愛について動き始めたとき、自分自身の気持ちにも、はっきりと向き合わなければならなくなることを。




