第60話 「また誰かを好きになれるのか」三か月の恋が残したもの
二〇二一年四月十一日、日曜日。
午前九時。
俺は、草野球のグラウンドに立っていた。
春の風が吹いている。
桜は少しずつ散り始め、地面には薄い花びらが落ちていた。
「大野、ぼーっとするな! ノック始めるぞ!」
田村の声が響いた。
「分かってるよ!」
俺はグローブをはめ直した。
ゆみに彼氏ができた。
その事実を知ってから、一晩が過ぎた。
眠れなかったわけではない。
仕事に行けなくなったわけでもない。
食事もしたし、風呂にも入った。
ただ、何をしていても、ふとした瞬間に彼女の顔が浮かんだ。
駅前のカフェで笑っていた顔。
佐々木と付き合うことになったと話していた顔。
俺に「ありがとう」と言った顔。
どれも、昨日までと同じゆみだった。
変わったのは、俺の立場だけだった。
俺は、彼女の恋人にはなれなかった。
それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせ、飛んできた打球を捕った。
少し弾いた。
「おい、大野!」
「悪い!」
俺はボールを拾い、一塁へ投げた。
送球はそれた。
石田が、苦笑しながらボールを拾いに走った。
「今日はどうした? 心ここにあらずって感じだぞ」
「ちょっと考え事してただけだよ」
「恋愛か?」
「……うるせえな」
石田は笑った。
「まあ、失恋くらい誰でもするさ」
「俺は、付き合ってもいないけどな」
「じゃあ、片思いが終わったんだろ」
何気ない言葉だった。
だが、俺には、その表現がしっくりきた。
付き合っていたわけではない。
振られたわけでもない。
ただ、俺が一方的に期待していた恋が、終わったのだ。
その違いを認めると、少しだけ気持ちが整理された。
*
練習が終わったあと、俺は田村とベンチに座っていた。
「ゆみさん、彼氏できたんだって?」
田村が尋ねた。
「ああ」
「そうか」
それ以上、田村は何も聞かなかった。
俺は、ペットボトルの水を飲んだ。
「俺さ、何が悪かったんだろうな」
口から、そんな言葉が出た。
田村は俺を見た。
「何が?」
「俺の何が足りなかったのかなって。見た目か、会話か、金か。それとも、男として魅力がなかったのか」
「分からないな」
田村は正直に答えた。
「ゆみさん本人にしか分からないこともあるだろうし、そもそも大野が悪かったと決まったわけでもない」
「でも、選ばれなかった」
「そうだな」
田村は、うなずいた。
「でも、選ばれなかった理由を全部、自分の欠点にする必要はないんじゃないか?」
俺は黙った。
「人を好きになる理由って、そんなに単純じゃないだろ。大野がどれだけ努力しても、相手の気持ちまで決められるわけじゃない」
「……分かってるつもりなんだけどな」
「頭で分かるのと、気持ちが納得するのは別だろ」
田村は、グラウンドを見渡した。
「俺たちだって、野球で全部勝てるわけじゃない。練習しても打てない日がある。いいプレーをしても試合に負けることがある。だからって、毎回、自分には価値がないって考えてたら、続けられないだろ」
野球と恋愛を同じように考えることはできない。
それでも、言いたいことは分かった。
俺は、ゆみに選ばれなかった。
それは事実だ。
だが、その結果だけで、俺の人間としての価値が決まるわけではない。
「……ありがとう」
「礼なんかいらないよ。次の試合、ちゃんと守ってくれればな」
「それは別の話だろ!」
二人で笑った。
久しぶりに、心から笑えた気がした。
*
その日の午後。
俺は実家に立ち寄った。
母の美代子が、台所で夕食の準備をしていた。
「健太、今日は早いのね」
「野球が終わったからな」
「そう。ご飯、食べていく?」
「うん」
俺は居間に座り、テレビをつけた。
しばらくして、姉の真紀がやってきた。
「何、その顔」
顔を見るなり、真紀が言った。
「どんな顔だよ」
「失恋した人の顔」
「……何で分かるんだよ」
「分かるでしょ、普通」
姉は遠慮がなかった。
俺は、ゆみに彼氏ができたことを話した。
真紀は、最後まで黙って聞いていた。
「そっか。つらかったね」
その一言に、俺は少しだけ救われた。
変に励まされるより、ずっとよかった。
「俺、何か間違ってたのかな」
「間違ってたところもあったかもしれないし、そうじゃないところもあったんじゃない?」
「どっちだよ」
「全部正しかったとか、全部間違ってたとか、そういう話じゃないでしょ」
真紀は、テーブルの上に置かれた湯飲みを手に取った。
「健太は、ゆみさんに好かれたかったんだよね」
「……ああ」
「それ自体は悪くないと思う。でも、相手が自分を好きにならなかったからって、今までの自分を全部否定する必要はないよ」
俺は、黙って聞いていた。
「それに、相手の気持ちを考えることと、自分の気持ちを我慢し続けることは違うからね」
「どういう意味だよ?」
「好きな人ができたら、応援してあげたいと思うこともあるでしょう。でも、自分がつらいなら、少し距離を置いたっていいんだよ。いつでも相談に乗らなきゃいけないわけじゃないんだから」
その言葉は、胸に残った。
俺は、ゆみの相談に乗ることで、彼女のそばにいようとしていた。
彼女を好きだから、話を聞きたい。
それは本当だった。
だが、嫌われたくないから、つらくても笑っていた部分もある。
彼女にとって都合のいい男でいれば、いつか選ばれるかもしれない。
そんな期待が、どこかにあった。
それを認めるのは、少し恥ずかしかった。
「……俺、もう少し自分の気持ちを大事にするよ」
「うん。それがいいと思う」
真紀は、それ以上何も言わなかった。
*
四月十二日、月曜日。
仕事を終えて帰宅すると、スマートフォンにゆみからメッセージが届いていた。
『大野さん、昨日はありがとう! またみんなで遊ぼうね!』
俺は画面を見つめた。
彼女は、いつもどおりだった。
俺に対して、急に冷たくなったわけでもない。
避けているわけでもない。
ただ、彼女には彼氏ができた。
俺が望んでいた関係にはならなかった。
それだけだ。
俺は、返信を考えた。
以前なら、すぐに返事をしていた。
何か話題をつなげようとした。
会話が終わらないように、質問を考えた。
今回は、違った。
『こちらこそ。みんなでまた遊ぼう』
短く返信した。
その後、スマートフォンを置いた。
彼女を嫌いになったわけではない。
今でも、笑顔を見るとうれしいと思うだろう。
連絡が来れば、きっと喜ぶだろう。
ただ、もう彼女の反応だけで、一日の気分を決めたくなかった。
それが、今の俺にできる精いっぱいの変化だった。
*
夜十時。
俺は、ノートを開いた。
三か月前。
ゆみと初めて車に乗った日。
彼女に恋人がいるか聞かれ、いないと答えた日。
二人で食事をした日。
彼女の笑顔に期待し、メッセージの通知に喜んだ日。
そして、佐々木と付き合うことになったと聞いた日。
たった三か月。
だが、俺にとっては長い時間だった。
ノートに、最後の一文を書いた。
『ゆみを好きになったことは、間違いではなかった。でも、好きになってもらうために、自分の気持ちを犠牲にし続けるのは違う』
ペンを置いた。
俺は、ゆみとの恋を終わらせようとしていた。
簡単に忘れられるわけではない。
明日になれば、また思い出すだろう。
それでも、いつか思い出しても苦しくない日が来るかもしれない。
そう思いたかった。
*
二〇二一年四月下旬。
桜は散り、街には新緑が増えていた。
俺は仕事をし、野球を続け、少しずつ生活習慣を整えていた。
体重は、劇的には変わっていない。
恋人もできていない。
女性と手をつないだことも、キスをしたこともない。
何もかもが、急に変わったわけではなかった。
それでも、以前よりは、自分の気持ちを言葉にできるようになった気がした。
ある日の昼休み。
木村が、スマートフォンを見ながら言った。
「そういえば、大野さん。今度、知り合いの女性を紹介してもらえるかもしれないんだけど、興味ある?」
俺は、弁当を食べる手を止めた。
「……女性?」
「そう。俺の知り合いの知り合いなんだけどさ。双子の姉妹なんだって」
「双子?」
「うん。二人とも独身らしいよ。まあ、紹介できるかはまだ分からないけど」
俺は、すぐには答えられなかった。
また、誰かを好きになるのだろうか。
また、期待して、傷つくのだろうか。
そんな不安があった。
だが、ゆみとの恋が終わったからといって、これから先の恋愛まで終わったわけではない。
そう考えることもできた。
「……話だけなら、聞いてみたいかな」
俺は答えた。
木村は、にやりと笑った。
「おっ、いいじゃん。じゃあ、また詳しいことが分かったら話すよ」
「ああ」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
俺は弁当箱を片づけ、仕事に戻った。
新しい恋が始まるのか。
それとも、また同じ失敗を繰り返すのか。
まだ何も分からない。
ただ、俺はもう一度、誰かと知り合ってみようと思った。
それが、次の失敗への入り口だったとしても。
そのときの俺には、まだ分からなかった。
第3章・完。




