第59話 「彼氏ができたんだ」その報告を、俺は笑って聞いた
二〇二一年四月十日、土曜日。
午前十時。
俺は草野球の練習を終え、グラウンドの隅でスパイクの泥を落としていた。
「大野、最近ちゃんと練習してるな」
田村が声をかけてきた。
「前からやってるだろ」
「いや、最近は違う。前は打てないとすぐ機嫌が悪くなってたけど、今は失敗しても切り替えるようになった」
「そんなに分かりやすかったか?」
「分かりやすかったよ」
田村は笑った。
俺も苦笑した。
恋愛がうまくいかないからといって、野球まで投げ出したくはなかった。
最近は、そんなふうに考えられるようになっていた。
練習が終わり、帰り支度をしていると、スマートフォンが震えた。
ゆみからだった。
『大野さん、今日って時間ある? ちょっと話したいことがあるんだけど』
俺は画面を見つめた。
話したいこと。
佐々木とのことだろうか。
先週、二人で会うと言っていた。
その報告かもしれない。
胸の奥がざわついた。
それでも、俺は返信した。
『夕方なら大丈夫だよ』
『ありがとう! じゃあ、駅前のカフェで会える?』
俺は、すぐに返事をした。
『分かった』
スマートフォンをポケットにしまう。
なぜ、ゆみは俺と会って話そうとするのだろう。
メッセージで済む話ではないのか。
それとも、何か特別なことがあるのだろうか。
期待するな。
俺は自分に言い聞かせた。
それでも、胸のどこかでは、淡い期待が膨らんでいた。
*
午後四時。
駅前のカフェに着くと、ゆみは先に来ていた。
薄いベージュのコートに、白いブラウス。
いつものように、髪を整え、さりげない香水をまとっている。
「大野さん、こっち!」
彼女が笑顔で手を振った。
俺は向かいの席に座った。
「急にごめんね」
「いや、大丈夫だよ。どうした?」
ゆみは、注文したカフェラテを一口飲んだ。
それから、少し照れたように笑った。
「実はね……」
その表情を見た瞬間、俺は何となく察した。
きっと、いい話なのだろう。
「佐々木さんと、付き合うことになったんだ」
時間が止まったような気がした。
店内には、コーヒーを淹れる音や、客たちの話し声が聞こえている。
目の前には、カフェラテの白い泡が残っている。
それなのに、俺の耳には、ゆみの言葉だけが残っていた。
付き合うことになった。
彼女に、彼氏ができた。
分かっていたはずだった。
彼女が気になっている男性がいることも、二人で会う予定があることも、知っていた。
それでも、実際に報告されると、想像していた以上に苦しかった。
「……そうなんだ」
俺は、何とか声を出した。
「おめでとう」
ゆみの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとう!」
その笑顔を見て、俺は胸が締めつけられた。
彼女は、うれしいのだ。
好きな男性と付き合えることが、心からうれしいのだろう。
その幸せを、自分のことで曇らせたくなかった。
「よかったじゃん。うまくいったんだな」
「うん! 最初はすごく緊張したんだけど、話してみたら楽しくて。何回か会って、向こうから言ってくれたんだ」
「そっか」
「私、こんなに早く彼氏ができると思わなかった」
ゆみは、少し恥ずかしそうに笑った。
「大野さんに相談してよかったよ。いろいろ話を聞いてくれたから、落ち着いて会えたんだと思う」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
俺が相談に乗った。
俺が話を聞いた。
その結果、彼女は別の男と付き合うことになった。
そんな考えが浮かんだ。
だが、すぐに自分を戒めた。
俺が相談に乗ったから、二人が付き合ったわけではない。
俺が相談に乗らなかったとしても、二人は出会い、話をし、互いの気持ちを確かめていたかもしれない。
彼女の恋愛は、彼女自身のものだ。
俺がその結果を、自分の努力の報酬や損失のように考えるのは違う。
「俺は、話を聞いただけだよ」
そう答えると、ゆみは首を振った。
「それでも、助かったよ。ありがとう」
俺は笑った。
少なくとも、その場では笑えた。
*
しばらく、二人で話をした。
ゆみは、佐々木とどこへ出かけたのか、どんな話をしたのかを楽しそうに話した。
俺は相づちを打ちながら、聞いていた。
以前なら、彼女の言葉一つひとつに、自分への可能性を探していた。
今日は違った。
彼女の話に、自分が登場しないことを理解していた。
彼女のうれしさも、緊張も、恋人ができた喜びも、俺が代わりに経験することはできない。
俺はただ、目の前の友人として話を聞いている。
そう考えようとした。
「大野さんは、最近どう?」
ゆみが尋ねた。
「どうって?」
「恋愛。気になる人とか、いないの?」
俺は苦笑した。
「まあ、そう簡単にはいないよ」
「そっか。でも、大野さんなら大丈夫だと思うよ」
また、その言葉だった。
大丈夫。
いい彼氏になると思う。
優しい。
話しやすい。
どれも、ありがたい言葉だ。
だが、俺が好きだった女性から返ってきたのは、恋愛感情ではなかった。
「……ありがとう」
俺は答えた。
そして、少しだけ考えてから続けた。
「でも、俺も、もう少し自分のことを考えないとな」
「自分のこと?」
「うん。誰かに好かれることばかり考えるんじゃなくて、自分が何をしたいのかとか」
ゆみは、意外そうに目を丸くした。
「大野さん、何か変わったね」
「そうかな」
「うん。前より、ちゃんと自分のことを考えてる感じがする」
その言葉は、うれしかった。
彼女に認められたいという気持ちが、まだ残っていることも分かっていた。
それでも、今の言葉を、恋愛の可能性に結びつけることはしなかった。
彼女が俺の変化を認めてくれた。
それだけでいい。
そう思いたかった。
*
午後五時過ぎ。
カフェを出ると、駅前には夕方の人波ができていた。
「今日はありがとうね」
ゆみが言った。
「いや、こっちこそ」
「またみんなで遊ぼうね!」
「ああ。またな」
彼女は手を振り、人混みの中へ消えていった。
俺は、その後ろ姿を見送った。
追いかけたいとは思わなかった。
呼び止めて、気持ちを伝えたいとも思わなかった。
ただ、胸の奥が痛かった。
ゆみのことが好きだった。
彼女から連絡が来るとうれしかった。
彼女に頼られるとうれしかった。
いつか振り向いてくれるかもしれないと、期待していた。
その期待が、今日、終わった。
俺は駅前のベンチに腰を下ろした。
スマートフォンを取り出し、画面を見つめる。
ゆみの連絡先は、まだ残っている。
削除する必要はない。
彼女は何も悪いことをしていない。
俺が勝手に好きになり、勝手に期待し、勝手に傷ついただけだ。
だからといって、自分の気持ちまで否定する必要はない。
好きだった。
それは本当だ。
そして、好きになってもらえなかった。
それも、本当だった。
俺は深く息を吐いた。
空を見上げると、夕日がビルの隙間に沈みかけていた。
明日になれば、また仕事がある。
来週には、野球の練習もある。
俺の生活は、続いていく。
ゆみが彼氏を作ったからといって、俺の人生が終わるわけではない。
頭では分かっていた。
ただ、心が追いつくには、もう少し時間が必要だった。
*
夜。
自宅に戻った俺は、ノートを開いた。
しばらくペンを持ったまま、何も書けなかった。
やがて、ゆっくりと文字を書き始めた。
『ゆみに彼氏ができた』
その下に、続けた。
『おめでとうと言えた。でも、本当はつらかった』
さらに、もう一行。
『応援したい気持ちと、選ばれたかった気持ちは、最後まで一緒に残っていた』
俺はペンを置いた。
きれいな結論は出なかった。
自分が成長したのかどうかも、分からない。
ただ、以前の俺なら、彼女に恋人ができたことを、自分の価値が否定されたように受け止めていたかもしれない。
今も傷ついている。
だが、ゆみが俺を選ばなかったことと、俺に価値がないことは、同じではない。
その違いだけは、忘れないでいたかった。
ノートを閉じる。
俺は、明日の野球の準備を始めた。
ユニフォームをたたみ、スパイクを確認する。
明日も、グラウンドへ行こう。
そう思った。
ゆみのいない場所へ逃げるためではない。
自分の生活を、自分の手に戻すために。
俺はまだ、恋愛を諦めたわけではなかった。
ただ、一人の女性に選ばれなかったからといって、自分の人生まで否定するのは、もうやめようと思った。




