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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第3章 ギャル運転手と勘違い男

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第58話 「相談してもいい?」その一言に、俺は期待してしまった

 二〇二一年四月二日、金曜日。


 午後七時四十分。


 仕事から帰宅した俺は、食卓で夕食を食べていた。


 明日は土曜日。


 午前中に草野球の練習がある。


 最近は、休日の予定を恋愛だけで埋めないようにしていた。


 ゆみから連絡が来なくても、スマートフォンを何度も確認しない。


 そう決めていた。


 決めていたのだが。


 午後八時を過ぎたころ、スマートフォンが震えた。


 画面に表示された名前を見て、俺は箸を置いた。


 ゆみだった。


『大野さん、今ちょっといい?』


 短いメッセージ。


 たったそれだけなのに、胸が騒いだ。


 何かあったのだろうか。


 佐々木とのことか。


 それとも、別の話だろうか。


 俺は、すぐに返信した。


『大丈夫だよ。どうした?』


 しばらくして、返事が届いた。


『実はね、佐々木さんのことで相談したいんだけど……』


 予想どおりだった。


 俺は、スマートフォンを握り直した。


 相談に乗るべきだ。


 ゆみは困っているのかもしれない。


 だが、また自分の知らない男について話を聞くことになる。


 正直、気が重かった。


 それでも、彼女のことを無視する気にはなれなかった。


『うん。話せる範囲でよければ聞くよ』


 そう送ると、ゆみから電話がかかってきた。


「もしもし、大野さん?」


「おう。どうした?」


「あのね……私、佐々木さんと来週会うことになったんだけど」


「うん」


「向こうも楽しみにしてくれてるみたいなんだけど、私、ちょっと不安で」


 俺は黙って聞いた。


「私、普段は結構しゃべれるほうじゃん? でも、好きな人が相手だと、何を話せばいいのか分からなくなっちゃうんだよね」


「……そうなんだ」


「変なこと言って嫌われたらどうしようとか、考えちゃって」


 電話の向こうで、ゆみが小さく笑った。


「私にも、こういうところがあるんだよ」


 俺は、その言葉に驚いた。


 いつも明るく、誰とでも自然に話せる女性。


 俺には、そう見えていた。


 だが、彼女も好きな相手の前では緊張するらしい。


 当たり前のことなのかもしれない。


 それでも、知らなかった一面だった。


「別に、無理して面白い話をしなくてもいいんじゃないか?」


 俺は答えた。


「相手のことを知りたいなら、普通に話を聞けばいいし、自分のことも少しずつ話せばいい。全部うまくやろうとしたら、疲れるだろ」


「……大野さん、そういうこと言うんだね」


「どういう意味だよ」


「いや、何か、ちゃんとしたこと言うなって」


「俺だって、それくらい言うよ」


 二人で笑った。


 その瞬間、俺はうれしかった。


 ゆみが笑っている。


 俺の言葉で、少し気持ちが軽くなったのかもしれない。


 だが、すぐに自分を戒めた。


 相談に乗ったからといって、恋愛対象になるわけではない。


 彼女が笑ったからといって、特別な意味があるわけでもない。


 それは、これまで何度も学んできたことだった。


     *


「ねえ、大野さん」


 少し間を置いて、ゆみが言った。


「大野さんって、好きな人と付き合えたら、どんなことしたい?」


 俺は言葉に詰まった。


 どんなこと。


 頭に浮かんだのは、手をつなぐことだった。


 一緒に食事をする。


 休日に出かける。


 くだらない話をして笑う。


 そんな、ごく普通の恋人同士の時間。


 俺には、そのどれもが経験のないことだった。


「……普通に、一緒に出かけたり、飯食ったりしたいかな」


「うんうん」


「相手が楽しいと思ってくれたら、それでいい」


 口にしてから、少し恥ずかしくなった。


 格好いい答えではない。


 だが、嘘ではなかった。


「いいね、それ」


 ゆみは言った。


「私も、そういうのがいいな。無理しないで一緒にいられる人って、いいよね」


「そうだな」


 俺は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 もしかしたら。


 いや、考えるな。


 これは恋愛についての一般的な話だ。


 ゆみは、佐々木とのデートを前にして、俺に相談している。


 俺と付き合いたいと思っているわけではない。


 分かっている。


 それでも、好きな女性と恋愛について話せることが、俺にはうれしかった。


「大野さんは、きっといい彼氏になると思うよ」


 ゆみが、何気なく言った。


 俺は息を止めた。


「……そうかな」


「うん。優しいし、ちゃんと話を聞いてくれるし」


 その言葉は、うれしかった。


 だが、同時に苦しかった。


 いい彼氏になると思う。


 それは、ゆみ自身が俺の彼女になるという意味ではない。


 彼女は、俺を褒めてくれている。


 ただ、それだけなのだ。


「ありがとう」


 俺は、そう答えた。


 声が震えないように、気をつけた。


     *


 電話を終えたのは、午後九時を少し過ぎたころだった。


「話聞いてくれてありがとう。何か、ちょっと落ち着いた!」


「それならよかった」


「また相談してもいい?」


 その言葉に、俺は迷った。


 また相談してもいい。


 ゆみが俺を頼ってくれている。


 その事実が、うれしかった。


 だが、これからも彼女の恋愛相談を聞き続けるのだろうか。


 佐々木と会った話。


 楽しかった話。


 連絡が来てうれしかった話。


 そして、いつか付き合うことになったという報告。


 そうした話を、笑顔で聞き続けられるだろうか。


 今の俺には、分からなかった。


 それでも、俺は答えた。


「話くらいなら、いつでも聞くよ」


「ありがとう! 大野さんに相談してよかった!」


 通話が終わった。


 俺は、しばらくスマートフォンを見つめていた。


 相談してよかった。


 その言葉を、何度も頭の中で繰り返した。


 彼女にとって、俺は相談しやすい男なのだ。


 信頼できる相手なのだ。


 それは、悪いことではない。


 むしろ、ありがたいことだろう。


 だが、俺が本当に望んでいるのは、それだけではなかった。


 相談相手ではなく、恋人になりたい。


 困ったときに話を聞くだけではなく、楽しいことも、つらいことも、一緒に経験したい。


 ゆみが誰かを好きになったとき、その相手について相談される男ではなく、自分自身が好きな相手として選ばれたい。


 それが、俺の本音だった。


 俺は、ノートを開いた。


 そして、今日のことを書き留めた。


『ゆみは、俺を信頼してくれている。でも、信頼と恋愛感情は同じではない』


 続けて、もう一行。


『相談に乗ったことを、いつか好きになってもらうための貯金にしてはいけない』


 書き終えて、ペンを置いた。


 それでも、胸の中には小さな期待が残っていた。


 いつか、彼女が俺を好きになってくれるかもしれない。


 そんな可能性まで、自分から消すことはできなかった。


 期待するなと言われても、簡単には諦められない。


 俺は、まだゆみが好きだった。


     *


 翌朝。


 草野球の練習に向かうため、俺はユニフォームを着ていた。


 鏡の前で、襟元を整える。


 少し腹が引っ込んだ気がする。


 髪も、以前より気を使うようになった。


 だが、鏡に映る男は、相変わらず恋愛経験のない三十六歳だった。


 いや、正確には、まだ三十六歳になったばかりだ。


 俺は苦笑した。


 年齢を重ねれば、自然に恋愛がうまくなると思っていた。


 しかし、そんなことはなかった。


 経験がなければ、失敗もする。


 失敗を避けようとすれば、何もできなくなる。


 誰かに好かれたいと願うほど、自分の言葉や行動が正しいのか分からなくなる。


 恋愛とは、こんなにも難しいものだったのか。


 俺は野球道具を持ち、家を出た。


 ゆみが佐々木と会う日は、もうすぐだ。


 その日、彼女がどんな顔で帰ってくるのか。


 俺は、まだ知らない。


 ただ一つ、分かっていることがある。


 彼女の恋が進むたびに、俺は自分の気持ちと向き合わなければならなくなる。


 そして、その答えを出すのは、ゆみではない。


 俺自身なのだ。

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