第56話 「おめでとう」と送信した夜、俺は自分の本音を隠した
二〇二一年三月二十八日、日曜日。
朝八時。
目覚まし時計が鳴る前に、俺は目を覚ました。
昨日の飲み会が、頭から離れなかった。
ゆみが気になっている男性。
佐々木。
落ち着いた話し方。清潔感のある服装。自然な笑顔。
俺とは違う。
そう考え始めると、次から次へと、自分に足りないものが浮かんできた。
身長。会話力。恋愛経験。女性と接するときの余裕。
考えれば考えるほど、気持ちが沈んでいく。
「……何やってんだ、俺は」
俺は布団から起き上がった。
まだ何も決まっていない。
ゆみと佐々木が付き合っているわけでもない。
それなのに、俺は勝手に負けた気分になっていた。
顔を洗い、朝食を済ませる。
その後、近所を走ることにした。
最近、少しずつ続けているジョギングだ。
最初は、ゆみに格好いいと思われたいという気持ちが大きかった。
体を引き締めれば、少しは自信がつくかもしれない。
そんな期待があった。
もちろん、その気持ちがなくなったわけではない。
それでも、走っている間だけは、誰かと自分を比べずにいられた。
息が上がる。
汗が流れる。
足が重くなる。
それでも、自分のペースで前に進む。
恋愛とは違い、走った距離は自分の努力として残る。
俺は、昨日より少しだけ長く走った。
帰宅してシャワーを浴びたころ、スマートフォンが震えた。
ゆみからだった。
『昨日はありがとう! みんなと飲めて楽しかったね!』
俺は画面を見つめた。
昨日のことを、彼女は楽しかったと言っている。
俺も楽しかった。
苦しかったけれど、楽しかった。
『こちらこそ、ありがとう。楽しかったよ』
そう返信した。
すると、すぐに返事が届いた。
『佐々木さんとも話せたし、よかった!』
指が止まった。
わざわざ、その名前を出すのか。
俺の胸に、小さな痛みが走った。
だが、ゆみは悪くない。
彼女にとって、佐々木は気になっている相手なのだ。
うれしかったことを、誰かに話したくなるのも自然なことだろう。
問題は、それを聞いた俺がどう感じるかだった。
俺は、文字を打ち始めた。
『そうなんだ。いい人そうだったね』
送信ボタンを押す直前、手が止まった。
本当は、そんなことを言いたくなかった。
佐々木がいい人であってほしくない。
ゆみと仲良くなってほしくない。
できれば、彼女の気持ちが自分に向いてほしい。
それが本音だった。
だが、俺はその本音を、彼女にぶつけることはできなかった。
『そうなんだ。いい人そうだったね』
結局、送信した。
『うん! 話しやすかったよ』
ゆみから返事が来た。
俺は、スマートフォンを伏せた。
胸の奥に、言葉にできない感情が残った。
*
午後。
俺は、いつもの草野球チーム「ドリーム・エース・ナイン」の練習に参加した。
グラウンドには、田村剛、森川信也、石田雄二、中村拓郎たちが集まっていた。
「おう、大野。今日は早いな」
田村が声をかけてきた。
「まあな」
「最近、ちゃんと走ってるらしいじゃないか」
「何で知ってるんだよ」
「木村から聞いた。少し痩せたんじゃないかって」
俺は自分の腹を見下ろした。
「まだまだだよ」
「続けることが大事だろ」
田村は、それ以上何も言わなかった。
練習が始まる。
キャッチボールをして、ノックを受け、バッティング練習をする。
俺は三塁の守備位置についた。
打球が飛んでくる。
腰を落とし、捕球して、一塁へ送球する。
失敗もした。
送球がそれて、石田に苦笑された。
「おい、大野! 女のこと考えてたんじゃないだろうな?」
「うるせえよ!」
みんなが笑った。
俺も笑った。
ここでは、恋愛経験の有無も、女性に好かれているかどうかも関係ない。
ボールを捕れるか。
送球が正確か。
チームのために動けるか。
それが問われる。
もちろん、野球が人生のすべてではない。
けれど、俺にはまだ、自分が自分でいられる場所があった。
練習後、ベンチで水を飲んでいると、田村が隣に座った。
「ゆみさんの件、どうなった?」
俺は少し驚いた。
「何で知ってるんだよ」
「お前、分かりやすいんだよ。最近、スマホを見る回数が増えたしな」
「……何もねえよ」
「何もないのに、そんな顔をするか?」
俺は返事をしなかった。
田村は、しばらく空を眺めていた。
「好きな女に、別の好きな男がいる。それはきついだろうな」
「……ああ」
「でも、相手の男に勝つことばかり考えたら、しんどくなるぞ」
「勝つって……」
「自分を変えるのは悪くない。だけど、相手に選ばれるためだけに変わり続けたら、いつか疲れる」
田村は、ペットボトルのふたを閉めた。
「お前がいいと思う自分になれよ。その結果、誰かに好かれたら、それはそれでいいじゃないか」
簡単に言う。
だが、俺には難しかった。
自分がいいと思う自分。
そんなものを、俺は今まで真剣に考えたことがあっただろうか。
女性に好かれたい。
彼女がほしい。
結婚したい。
誰かに必要とされたい。
そればかりだった。
「……考えてみるよ」
俺は答えた。
田村は、それで十分だというように立ち上がった。
*
夜九時。
自宅に戻った俺は、夕食を済ませ、テレビを見ていた。
スマートフォンには、ゆみとのメッセージが残っている。
たった数行のやり取り。
それだけで、俺の気分は上がったり下がったりする。
自分でも、少し異常だと思った。
ゆみは俺の恋人ではない。
彼女が誰と会おうと、誰を好きになろうと、俺には口を出す権利がない。
それは分かっている。
それでも、彼女から連絡が来るとうれしい。
彼女が笑ってくれるとうれしい。
彼女に頼られるとうれしい。
そして、その笑顔が自分以外の男に向けられると、苦しくなる。
俺は、スマートフォンを手に取った。
ゆみに何かメッセージを送りたい。
だが、何を送ればいいのか分からない。
無理に話題を作れば、面倒な男だと思われるかもしれない。
何も送らなければ、少しずつ忘れられてしまうかもしれない。
そんな考えが、頭の中をぐるぐる回った。
そのとき、ふと思った。
俺は、ゆみと話したいのだろうか。
それとも、ゆみの中に自分の居場所があることを確認したいだけなのだろうか。
答えは、簡単には出なかった。
俺はスマートフォンを置いた。
今日は、もう連絡しない。
明日も仕事がある。
仕事をして、食事をして、眠る。
それだけの生活でも、きちんと続けていかなければならない。
恋愛がうまくいかないからといって、人生のすべてを投げ出すわけにはいかない。
俺はテレビを消し、寝室へ向かった。
布団に入って目を閉じる。
ゆみのことは、まだ好きだった。
佐々木に嫉妬する気持ちも、消えていない。
明日になれば、また彼女からの連絡を待ってしまうかもしれない。
それでも、今日一日、俺は自分のために走り、自分のために野球をした。
その事実だけは、誰にも奪えない。
そう思いながら、俺は眠りについた。




