第55話 「今日は来ないはずだったのに」彼女の隣にいた男
二〇二一年三月二十七日、土曜日。
午後五時四十分。
俺は、駅前の居酒屋に向かって歩いていた。
ゆみから誘われた、友人たちとの集まり。
参加者は、ゆみ、奈緒、理恵、あかね、美穂、そして俺。
木村は仕事の都合で欠席するらしい。
今日は、ゆみの恋愛相談を聞かなくてもいい。
そう思うと、少し気が楽だった。
いや、正確には、相談されるのが嫌なのではない。
彼女の恋愛がうまくいくことを願いたい気持ちと、うまくいってほしくない気持ちが、自分の中に同時に存在している。
その矛盾が、苦しかった。
店に着くと、奈緒と理恵が先に来ていた。
「大野さん、こっち!」
奈緒が手を振る。
「こんばんは。ゆみは?」
「まだ来てないよ。ちょっと遅れるって」
俺は席に座り、注文を済ませた。
仕事の話をしているうちに、あかねと美穂も到着した。
だが、午後六時を過ぎても、ゆみは来なかった。
「珍しいね。ゆみが遅れるなんて」
美穂がスマートフォンを確認した。
「何かあったのかな?」
そのとき、店の入口から声が聞こえた。
「ごめん、遅くなった!」
ゆみだった。
彼女は息を切らしながら、店内に入ってきた。
そして、その後ろには、見知らぬ男が立っていた。
「実はね、途中で知り合いに会っちゃって」
ゆみが少し照れくさそうに笑う。
「この人も一緒にいいかな?」
男は、三十代半ばくらいに見えた。
背は俺より高く、髪型も整っている。
落ち着いた色のジャケットに、手入れの行き届いた靴。
いかにも、女性に慣れていそうな雰囲気だった。
「初めまして。佐々木です」
男は穏やかに頭を下げた。
俺たちも挨拶を返した。
佐々木。
その名前に、心当たりはなかった。
しかし、ゆみの表情を見た瞬間、嫌な予感がした。
彼女は、さっきまでより少しだけ落ち着かない様子だった。
それでも、笑顔は消えていなかった。
俺は、その笑顔を見たくなかった。
なぜなら、その表情が自分に向けられたものではないと、何となく分かってしまったからだ。
*
食事が始まると、佐々木は自然に会話へ加わった。
仕事の話。
趣味の話。
休日の過ごし方。
話題が変わっても、彼は無理なく会話を続けた。
誰かが話しているときは、きちんと相手を見る。
自分の話ばかりをしない。
冗談を言うときも、相手が困るようなことは言わない。
特別に面白いことを言うわけではない。
だが、一緒にいて疲れない男なのだろうと思った。
「佐々木さんって、普段は何をしてるんですか?」
奈緒が尋ねた。
「営業の仕事をしています。自動車関係の会社なんですよ」
「へえ、そうなんだ!」
ゆみが会話に加わった。
「仕事の話、前に聞いたよね」
「そうだったね」
佐々木が笑った。
そのやり取りを見て、俺は箸を動かす手を止めた。
前に聞いた。
つまり、二人は以前から話をしている。
ゆみが気になっている男性。
来週、二人で会う予定だった相手。
もしかして、この人なのだろうか。
俺は、佐々木の表情を観察した。
彼は、ゆみに特別な視線を向けているようには見えなかった。
いや、俺がそう思いたいだけかもしれない。
ゆみも、いつもどおり明るく話している。
だが、佐々木が話すとき、彼女はほかの人の話を聞くときよりも、少しだけ真剣に耳を傾けているように見えた。
気のせいだろうか。
そう思おうとした。
しかし、胸の中では、答えを探す自分がいた。
この男は、ゆみの何なのか。
友人なのか。
仕事関係の知り合いなのか。
それとも、彼女が気になっている男性なのか。
聞けば分かる。
だが、聞く勇気はなかった。
*
午後七時半。
飲み物を追加注文するため、俺は席を立った。
戻ってくる途中、店の入口近くで、ゆみと佐々木が話しているのが見えた。
偶然、二人きりになったらしい。
「今日は来てくれてありがとう」
ゆみが言った。
「いや、誘ってくれてありがとう。みんなと話せて楽しかったよ」
「本当? よかった」
ゆみは笑った。
佐々木も笑った。
それだけだった。
手をつないでいるわけでもない。
親密そうに身体を寄せているわけでもない。
ただ、二人で話しているだけだ。
それなのに、俺は足を止めてしまった。
自分でも嫌になるほど、嫉妬していた。
ゆみが誰と話そうと自由だ。
俺は彼女の恋人ではない。
それなのに、彼女が別の男と笑っている姿を見ると、胸の奥がざわつく。
俺は何を期待していたのだろう。
自分が少しずつ変われば、ゆみが振り向いてくれる。
自分が優しく接し続ければ、いつか特別な存在になれる。
そんな未来を、勝手に想像していたのではないか。
「大野さん?」
声をかけられ、俺は我に返った。
ゆみがこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。飲み物、持ってきたよ」
「ありがとう!」
ゆみは、いつものように笑った。
俺はグラスをテーブルに置いた。
何も起きていない。
誰も俺を傷つけていない。
それなのに、自分の心だけが勝手に傷ついている。
そのことが、少し情けなかった。
*
食事が終わるころ、佐々木は先に帰ることになった。
「今日はありがとうございました」
彼が頭を下げる。
「また機会があったら、よろしくお願いします」
「こちらこそ!」
奈緒たちが挨拶を返した。
ゆみも、笑顔で手を振った。
「またね、佐々木さん」
「うん。また」
佐々木は店を出ていった。
その姿が見えなくなると、理恵がゆみに尋ねた。
「ねえ、ゆみ。佐々木さんとはどうなの?」
俺の胸が跳ねた。
ゆみは一瞬、困ったような顔をした。
「どうって?」
「この前、気になる人がいるって言ってたじゃん」
奈緒が、楽しそうに口を挟む。
「もしかして、あの人?」
ゆみは頬を赤くした。
「……うん。そうだよ」
店内が一瞬、静かになった。
あかねが、うれしそうに声を上げた。
「えーっ! そうだったの?」
「ちょっと、声が大きいって!」
ゆみは慌てて周囲を見回した。
みんなが笑った。
俺も、笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
やはり、そうだったのか。
佐々木が、ゆみの気になる男性。
彼女が二人で会う予定だった相手。
そして今日、偶然のような形で、この集まりに加わった男。
俺は、ゆみが彼にどんな気持ちを抱いているのか、少しだけ理解できた気がした。
少なくとも、彼女は彼ともっと仲良くなりたいと思っている。
俺と同じように。
だが、俺と違うのは、彼女には、その気持ちを向ける相手がいるということだった。
*
帰り道。
俺は一人で駅へ向かっていた。
スマートフォンを取り出す。
ゆみから、何かメッセージが届いているわけではない。
当然だ。
彼女は今夜、友人たちと楽しく過ごした。
俺も、その場にいた。
それだけのことだ。
それでも、胸の奥には重たいものが残っていた。
佐々木は、別に悪い男ではなかった。
俺より背が高く、身だしなみも整っていた。
会話も自然で、相手の話を聞くこともできる。
だからといって、彼がゆみと付き合うことが決まったわけではない。
俺にも、まだ何かできることがあるのかもしれない。
そんな考えが、頭をよぎった。
だが、すぐに別の考えが浮かんだ。
俺は、彼に勝ちたいのだろうか。
ゆみを振り向かせるために、彼より優れた男になりたいのだろうか。
もしそうなら、俺はゆみのことを本当に大切に思っているのだろうか。
それとも、ただ自分が選ばれたいだけなのだろうか。
答えは、まだ出なかった。
駅のホームに立ち、電車を待つ。
夜風が頬を冷やした。
俺は、ゆみの笑顔を思い出した。
佐々木と話していたときの、少し照れたような表情。
あの笑顔を、自分に向けてほしいと思った。
その気持ちは、今も変わらない。
ただ、彼女が誰を好きになるかは、俺には決められない。
そのことを理解していても、すぐに納得できるわけではなかった。
俺は、電車に乗り込んだ。
窓に映る自分の顔を見つめる。
恋愛経験のない三十五歳の男。
好きな女性が、自分ではない男を好きになっている。
それだけのことなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
答えは分からない。
ただ、俺はまだ、ゆみを諦められそうになかった。
そして、その気持ちをどうすればいいのかも、まだ分からなかった。




