第54話 「大野さんには相談しやすい」その言葉が、なぜか苦しかった
二〇二一年三月二十二日、月曜日。
昼休み。
弁当を食べ終えた俺は、スマートフォンを手に取った。
ゆみとのメッセージは、昨日の夜から止まっている。
野球の話をした。
学生時代の話もした。
彼女は俺の話に興味を持ってくれたようだった。
それだけで、少し自信が持てた。
だが、今朝になって冷静に考えてみると、疑問が浮かんだ。
彼女は、俺のことをどこまで知りたいと思っているのだろう。
野球が好きな男。
話しやすい男。
恋愛経験のない男。
その程度なのだろうか。
それとも、もう少し別の何かがあるのだろうか。
俺はスマートフォンを伏せた。
また考えすぎている。
最近、そんな自分に気づくことが増えていた。
「大野、何を難しい顔してんだ?」
隣の席から、木村が声をかけてきた。
「別に」
「ゆみか?」
「……何で分かるんだよ」
「分かりやすすぎるんだよ、お前」
木村は笑った。
「まあ、いいじゃん。好きな人がいるってのは」
「いいのかね」
「少なくとも、誰かを好きになったこと自体は悪くないだろ」
俺は少し考えた。
好きになったこと自体は、悪くない。
確かにそうだ。
問題は、その気持ちをどう扱うか。
そして、相手に何を求めるか。
それが難しいのだ。
*
その日の午後、仕事を終えて帰宅すると、ゆみからメッセージが届いていた。
『大野さん、ちょっと聞いてもいい?』
俺はすぐに返信した。
『いいよ。どうしたの?』
少しして、返事が来た。
『今度会う人のことで、ちょっと相談があって』
胸がざわついた。
やはり、その話か。
俺はスマートフォンを握り直した。
『俺でよければ』
そう返信した。
ゆみから、少し長いメッセージが届いた。
『その人、仕事関係で知り合った人なんだけど、何を考えてるのか分からなくて。話してると楽しいし、優しいんだけど、私のことをどう思ってるのか全然分からないんだよね』
俺は画面を見つめた。
何を考えているのか分からない。
自分のことをどう思っているのか分からない。
その悩みなら、俺にも分かる気がした。
ただし、俺の場合は、相手の気持ちを考えすぎてしまう側だった。
ゆみは、相手の気持ちが分からないから悩んでいる。
俺は、相手の気持ちが分からないのに、答えを出そうとして悩んでいる。
似ているようで、少し違う。
『直接聞いてみるのは難しいの?』
そう返信すると、ゆみからすぐに返事が来た。
『うーん、まだそこまで仲良くないからね。いきなり聞いたら変かなって』
俺は考えた。
自分なら、どうするだろう。
好きな女性に、自分のことをどう思っているのか聞く。
想像しただけで、胃のあたりが重くなった。
怖い。
もし、相手が何とも思っていなかったら。
もし、恋愛対象ではないと言われたら。
それでも、相手の気持ちを知ることには意味があるのだろう。
ただ、知るタイミングは人それぞれだ。
『まだ知り合って間もないなら、焦らなくてもいいんじゃないかな。まずは一緒に話したり、相手のことを知ったりする時間があってもいいと思う』
送信した。
しばらくして、ゆみから返事が届いた。
『ありがとう! 大野さんに相談してよかった』
俺は、その言葉を何度も読んだ。
相談してよかった。
その一言は、素直にうれしかった。
誰かの役に立てた。
自分の言葉が、少しでも相手の助けになった。
それは、悪い気分ではなかった。
しかし、その直後に、別の気持ちが湧き上がった。
なぜ、俺なのだろう。
なぜ、恋愛の相談をする相手として、俺を選んだのだろう。
俺は彼女の恋人になりたいと思っている。
なのに、彼女は別の男性について相談してくる。
自分が恋愛対象ではないと、遠回しに教えられているような気がした。
もちろん、ゆみはそんなつもりで相談しているわけではないのかもしれない。
俺が勝手に傷ついているだけだ。
それでも、胸の奥に小さな痛みが残った。
*
翌日。
仕事帰りに木村と食事をすることになった。
俺は、ゆみから恋愛相談を受けたことを話した。
「なるほどな」
木村はラーメンをすすりながら言った。
「それで、お前はどう思ったんだ?」
「うれしかったよ。相談してもらえたのは」
「うん」
「でも、ちょっと複雑だった」
「そりゃそうだろうな」
木村は箸を置いた。
「お前はゆみのことが好きなんだもんな」
「……そうだよ」
「だったら、他の男の相談をされたら、そりゃ複雑にもなる」
木村はあっさりと言った。
「でもさ、相談されたからって、お前が必ず相談役にならなきゃいけないわけでもないだろ」
「え?」
「つらいなら、無理して全部聞かなくてもいいんじゃないか。相手のことを尊重するのと、自分の気持ちを押し殺すのは別だろ」
俺は黙った。
今まで、ゆみに嫌われたくないと思っていた。
だから、彼女の話なら何でも聞こうと考えていた。
恋愛相談だって、できるだけ親身になって答えようとしていた。
それが、彼女のためになると思っていたからだ。
だが、木村の言うことにも一理ある。
自分の気持ちを無視してまで、相手に合わせ続ける必要はないのかもしれない。
「ただ、勘違いするなよ」
木村が続けた。
「相談を受けたからって、脈がないと決まったわけでもない。もちろん、脈がある証拠でもない。今分かってるのは、ゆみがお前に相談したってことだけだ」
「……結局、それか」
「それ以外に何があるんだよ」
俺は思わず笑った。
木村の言葉は、いつも単純だった。
しかし、今の俺には、その単純さが必要なのかもしれなかった。
分からないことは、分からない。
それ以上でも、それ以下でもない。
勝手に答えを作って、自分を苦しめなくてもいい。
*
三月二十四日、水曜日。
夜、ゆみから再びメッセージが届いた。
『大野さん、今度の土曜日なんだけど、みんなで集まらない?』
俺は画面を見つめた。
今度の土曜日。
彼女が気になる男性と会う予定の日だったはずだ。
しかし、メッセージには、その男性の話は書かれていない。
『いいよ。何時ごろ?』
そう返信すると、ゆみから返事が届いた。
『夕方くらい! この前の奈緒たちも来るよ』
俺は、少しだけ迷った。
ゆみの気になる男性との約束は、どうなったのだろう。
予定が変わったのか。
それとも、別の日になったのか。
聞きたい気持ちはあった。
だが、今は尋ねないことにした。
彼女が話したければ、自分から話してくれるだろう。
俺は、ゆみとの集まりに参加することにした。
それは、彼女に好かれるための作戦ではない。
……そう思いたかった。
*
土曜日まで、あと三日。
俺は自分の生活を整えることにした。
仕事でミスをしないよう、確認を丁寧にする。
夜更かしを減らす。
少しずつ運動を続ける。
そして、恋愛のことばかり考えないようにする。
どれも、すぐに劇的な変化が出ることではない。
だが、やらないよりはいい。
俺は、自分の人生を少しずつ立て直したかった。
ゆみに好かれたいという気持ちは、まだある。
彼女の隣にいる男性を想像すると、今でも胸がざわつく。
それでも、彼女が誰を好きになるかは、俺には決められない。
俺にできるのは、自分がどんな人間になりたいかを考え、できることを続けることだけだ。
土曜日、ゆみと会ったら、俺は普通に話せるだろうか。
彼女が気になる男性の話をしたら、俺はどんな顔をするだろうか。
正直、自信はない。
それでも、逃げずに向き合ってみたいと思った。
恋愛経験のない三十五歳の男が、初めて本気で誰かを好きになった。
その気持ちを、どう扱えばいいのか。
俺はまだ、答えを知らない。
ただ一つ、以前より分かってきたことがある。
誰かにとって大切な存在になりたいのなら、まず自分自身の気持ちを、なかったことにしないことも必要なのかもしれない。
俺はスマートフォンを置き、明日の仕事の準備を始めた。
土曜日は、もうすぐだった。




