第53話 「応援してるよ」と笑った夜、俺は自分の嘘に気づいた
二〇二一年三月二十日、土曜日。
ゆみの友人たちとの食事は、午後九時過ぎにお開きとなった。
「今日はありがとう! また集まろうね」
ゆみが笑顔で言った。
「うん。またね」
俺も笑顔で答えた。
奈緒と理恵は駅の反対方向へ帰り、俺とゆみは同じ改札へ向かった。
木村はいない。
今日は俺が、自分の意思で参加した集まりだった。
ゆみと話したかったから。
彼女のことをもっと知りたかったから。
そして、できれば自分のことも知ってほしかったから。
その願いは、今も変わっていない。
「大野さん、今日はどうだった?」
改札の手前で、ゆみが尋ねた。
「楽しかったよ。二人とも話しやすかったし」
「よかった! 私の友達、みんないい人でしょ?」
「そうだな」
ゆみは満足そうにうなずいた。
「また今度、みんなで遊ぼうね」
「うん」
俺は返事をした。
そのあと、少しだけ沈黙が流れた。
ゆみが気になっている男性。
来週、二人で会うという相手。
聞いてみたい気持ちはあった。
だが、何と尋ねればいいのか分からない。
俺たちは恋人ではない。
彼女の恋愛事情を根掘り葉掘り聞く理由もない。
結局、俺は別のことを口にした。
「来週、気になる人と会うんだって?」
「あ、うん!」
ゆみの表情が明るくなった。
俺の胸が、少し痛んだ。
「この前、話してた人?」
「そうそう。まだ、そんなに仲良くないんだけどね」
「そっか」
「だから、ちょっと緊張するんだよね」
ゆみは照れくさそうに笑った。
その顔を見て、俺は気づいた。
自分は今まで、彼女が自分と話しているときの表情ばかりを見ていた。
笑ってくれた。
楽しそうだった。
自分の話を覚えていてくれた。
その一つひとつを、心の中で大切にしていた。
しかし、今のゆみの笑顔は、それとは少し違って見えた。
誰かを好きになり、その人と会えることを楽しみにしている女性の顔だった。
俺は、その表情を見たことがなかったのかもしれない。
「大野さん?」
「え?」
「どうしたの? また考え事?」
「いや、何でもない」
俺は笑った。
「頑張ってきたらいいんじゃないか」
「本当? ありがとう!」
ゆみはうれしそうに言った。
「そう言ってもらえると、ちょっと安心する」
その言葉を聞いて、俺は複雑な気持ちになった。
ゆみにとって、俺は相談しやすい男なのかもしれない。
恋愛経験がないからこそ、気軽に話せる相手なのかもしれない。
あるいは、ただの友人なのかもしれない。
どれが正解なのかは分からない。
ただ、彼女が俺を恋人候補として見ているという確かな証拠は、まだ何もなかった。
「じゃあ、私こっちだから!」
ゆみが改札の前で手を振った。
「またね、大野さん!」
「またな」
彼女の後ろ姿が、人混みの中に消えていった。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
*
帰りの電車。
窓に映る自分の顔を見ながら、俺は考えていた。
俺は、ゆみの恋を応援したいのだろうか。
それとも、応援することで、自分がいい男だと思いたいだけなのだろうか。
もし彼女が来週の食事で相手と意気投合し、付き合うことになったら。
俺は心から祝福できるだろうか。
おめでとう、と笑顔で言えるだろうか。
答えは、分からなかった。
いや、正直に言えば、今は難しいと思った。
ゆみが幸せになるのはうれしい。
けれど、その幸せの隣にいるのが自分ではないことは、きっとつらい。
その気持ちを否定する必要はないのかもしれない。
好きなのだから、嫉妬もする。
期待してしまうこともある。
問題は、その気持ちを理由に相手を責めたり、相手の選択を邪魔したりすることなのだろう。
俺はスマートフォンを取り出した。
ゆみとのメッセージ画面を開く。
何か送ろうと思った。
『今日は楽しかったよ』
そう打ち込んだ。
送信ボタンを押そうとして、指が止まった。
ついさっきまで一緒にいたのだ。
別れ際にも、またねと挨拶をした。
今すぐメッセージを送らなければ、関係が途切れてしまうわけではない。
俺は文章を消した。
そして、スマートフォンをポケットにしまった。
相手との距離を縮めたい。
その気持ちは分かる。
でも、少し連絡を控えたくらいで壊れる関係なら、そもそも自分が思っているほど強い関係ではないのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は最寄り駅で降りた。
*
翌日、日曜日。
午後から草野球の練習があった。
グラウンドに着くと、田村剛がキャッチャー用具を並べていた。
「おう、大野。お前、最近ちょっと静かじゃないか?」
「そうか?」
「前はもっと、恋愛の話ばっかりしてただろ」
「……してたか?」
「してたよ」
田村は苦笑した。
「ゆみさんとは、どうなったんだ?」
「どうもなってないよ」
「そっか」
田村は、それ以上追及しなかった。
俺はグローブをはめ、キャッチボールを始めた。
ボールが手に収まる感触は、昔と変わらない。
投げる。
相手が捕る。
返ってきたボールを、また投げる。
野球には、目に見えるやり取りがある。
相手の胸元を狙えば、ボールがそこに届いたかどうかが分かる。
捕りやすい球を投げようと思えば、そのための練習もできる。
もちろん、試合では思いどおりにいかないこともある。
それでも、何を改善すればいいのか、ある程度は分かる。
恋愛には、それがない。
優しくしたからといって、好かれるとは限らない。
話を聞いたからといって、恋人になれるとは限らない。
相手に合わせようと努力しても、恋愛感情が生まれるとは限らない。
その不確かさが、俺には怖かった。
「大野、ぼーっとしてるぞ!」
田村の声が飛んできた。
「悪い!」
俺は慌てて構え直した。
次の球は、少し高く浮いた。
「おいおい、肩に力が入りすぎだ」
田村が笑った。
「もっと楽に投げろよ」
「分かってるって」
俺は苦笑した。
力を入れればいいというものではない。
それは野球でも、恋愛でも、同じなのかもしれなかった。
*
練習が終わり、帰り支度をしていると、田村が声をかけてきた。
「大野。今度、みんなで飲みに行かないか?」
「いいけど、何かあったのか?」
「いや、たまには野球以外の話もしたいだろ」
田村は少し照れくさそうに笑った。
「俺たちも、もういい年だしな」
「何だよ、急に」
「いや、何となく」
俺はうなずいた。
恋愛のことを考えると、自分だけが取り残されているような気持ちになる。
周りの男たちは、彼女ができたり、結婚したり、家庭を築いたりしている。
自分には何もない。
そう思うと、焦りが生まれる。
だが、田村だって、森川だって、ほかの仲間たちだって、それぞれ悩みを抱えているのだろう。
俺だけが人生の問題を抱えているわけではない。
「いいよ。飲みに行こう」
俺は答えた。
その約束が、少しだけうれしかった。
ゆみとの関係がどうなるかは分からない。
けれど、自分の生活には、ほかにも大切なものがある。
それを忘れずにいたいと思った。
*
その夜、ゆみからメッセージが届いた。
『大野さん、今日は野球だったの?』
俺は驚いた。
『そうだよ。よく分かったね』
『前に日曜日は野球することが多いって言ってたじゃん!』
また、覚えていてくれた。
胸が少し温かくなる。
だが、今回はすぐに意味を決めつけなかった。
『そうそう。今日は天気もよくて、いい練習になったよ』
返信すると、ゆみは野球の話をいくつか尋ねてきた。
俺は自分が野球を好きな理由や、学生時代のことを話した。
普段より少し長くやり取りが続いた。
そして最後に、ゆみからこんなメッセージが届いた。
『大野さんって、ちゃんと好きなものがあるんだね。そういうの、いいと思う!』
俺は画面を見つめた。
ゆみは俺のことを、少しは知ってくれている。
恋愛対象として見ているかどうかは、分からない。
でも、俺には野球がある。
仕事もある。
家族もいる。
友人もいる。
恋人がいないからといって、それらが消えてしまうわけではない。
俺は短く返信した。
『ありがとう。これからも続けるよ』
送信して、スマートフォンを置いた。
ゆみへの気持ちは、まだ消えていない。
来週、彼女が別の男性と会うことを考えると、やはり胸は痛む。
それでも、俺は少しだけ考え方を変えられた気がした。
彼女に好かれるためだけに、自分を変えるのではない。
彼女に選ばれなかったとしても、自分の人生まで否定しない。
簡単なことではない。
明日になれば、また期待してしまうかもしれない。
彼女の言葉に、勝手な意味を見つけてしまうかもしれない。
それでも、少しずつでいい。
俺は、自分の人生を自分で歩ける男になりたかった。
そして、そのために必要なのは、女性に好かれる技術だけではないのだと、ようやく気づき始めていた。




