第52話 「恋愛対象じゃない」と言われる前に、俺は答えを探していた
二〇二一年三月十五日、月曜日。
朝七時。
目覚まし時計が鳴るより少し早く、俺は目を覚ました。
昨日は、ゆみからメッセージが届いた。
たった数分のやり取りだったが、それだけで気分が少し明るくなった。
我ながら単純だと思う。
だが、好きな女性から連絡が来るというのは、そういうものなのかもしれない。
顔を洗い、髭を剃り、髪を整える。
鏡の中には、いつもと変わらない男がいた。
大野健太、三十五歳。
自動車部品工場に勤め、休日には草野球をしている。
女性と付き合った経験はない。
手をつないだことも、キスをしたこともない。
そんな自分が、恋愛について何を分かったつもりになっているのだろう。
「……まずは仕事だな」
俺は鏡に向かってつぶやき、家を出た。
*
昼休み。
食堂で弁当を食べていると、同僚の木村亮が隣に座った。
「大野、最近ちょっと変わったな」
「何が?」
「前より身だしなみを気にするようになっただろ」
「そうか?」
「髪もちゃんとしてるし、服も前よりマシになった」
「お前、失礼だな」
木村は笑った。
「別に悪い意味じゃないって。何か目標でもできたのか?」
俺は箸を止めた。
目標。
以前なら、迷わず答えていたかもしれない。
ゆみに好かれること。
彼女を振り向かせること。
だが、今は少し違う。
「まあ、少しは自分を変えたいと思ってな」
「いいじゃん。何で?」
「……自分に自信がないから」
口に出してみると、思っていた以上に情けない答えだった。
木村はからかわなかった。
「自信なんて、急に身につくもんじゃないだろ」
「そうだな」
「俺だって、今でも失敗するしな。結婚したからって、何でも分かるわけじゃない」
木村は弁当の残りを口に入れた。
「ただ、相手の反応ばっかり気にしてたら疲れるぞ。自分がどうしたいのかも、ちゃんと考えたほうがいい」
俺は黙ってうなずいた。
ゆみにどう思われるか。
女性からどう見られるか。
そればかり考えていた気がする。
自分が何を好きで、何をしたいのか。
そのことは、後回しになっていた。
「木村は、恋愛で失敗したことあるのか?」
「あるに決まってるだろ」
「例えば?」
「それを昼飯の時間に話さなきゃ駄目か?」
「聞きたいんだよ」
「じゃあ、今度飲みに行ったときにな」
木村は笑いながら席を立った。
俺は残った弁当を食べながら考えた。
恋愛経験がないことは、変えられない。
だが、これから何を学ぶかは、自分で選べる。
そのことだけは、少しずつ分かってきた。
*
その日の午後八時過ぎ。
仕事を終えて帰宅すると、スマートフォンにメッセージが届いていた。
ゆみからだった。
『大野さんって、今度の土曜日は予定ある?』
俺は画面を二度見した。
土曜日。
予定はない。
草野球の練習も、今週は休みだった。
すぐに返信しようとして、指が止まった。
これは、どういう意味なのだろう。
二人で会いたいということか。
それとも、みんなで遊ぶ予定なのか。
期待が膨らむ。
だが、ここで勝手に決めつけてはいけない。
『今のところ予定はないよ。どうしたの?』
送信。
数分後、返事が来た。
『友達が何人か集まるんだけど、大野さんも来ない?』
……友達。
俺はスマートフォンを持ったまま、天井を見上げた。
やっぱり、そういうことか。
いや、何を期待していたのだろう。
ゆみから誘われた。
それだけで十分、ありがたい話ではないか。
『いいよ。何時ごろ?』
返信すると、集合場所と時間が送られてきた。
どうやら、ゆみの友人たちも参加する小さな集まりらしい。
俺は参加することにした。
彼女と二人きりではない。
しかし、彼女がどんな友人と付き合っているのか知る機会にはなる。
それに、ゆみ以外の人とも話せるかもしれない。
そう考えれば、悪い話ではなかった。
*
土曜日の集まりについて、木村に話すと、彼は少し意外そうな顔をした。
「へえ。ゆみから誘われたのか」
「そうだけど、友達も来るらしい」
「それで?」
「それでって?」
「お前は行きたいのか?」
「行きたいよ」
「じゃあ、行けばいいじゃん」
あっさりした返事だった。
「でも、ゆみは俺のことをどう思ってるんだろうな」
木村はため息をついた。
「またそれか」
「気になるだろ」
「そりゃ、気になるだろうけどさ。本人に聞かなきゃ分からんことを、俺に聞かれてもな」
「それはそうだけど……」
「大野。ゆみが誘ってくれた理由が、恋愛感情じゃなかったら行かないのか?」
俺は言葉に詰まった。
もし、ゆみに恋愛対象として見られていないのなら。
それでも、彼女と会いたいと思うのだろうか。
答えは、すぐには出なかった。
「……会いたいよ」
「だったら、それでいいだろ」
木村は立ち上がった。
「ただし、相手が自分を好きになるように仕向けようとか、そういうことばかり考えるなよ。普通に楽しんでこい」
俺はうなずいた。
その言葉を、今度こそ忘れないようにしたかった。
*
三月二十日、土曜日。
午後六時。
俺は待ち合わせ場所に到着した。
ゆみの友人たちが集まるという店は、駅近くのカジュアルなダイニングだった。
店内に入ると、ゆみが手を振った。
「大野さん、こっち!」
その隣には、見覚えのない女性が二人いた。
一人は肩までの髪をした、落ち着いた雰囲気の女性。
もう一人は、明るい茶色の髪に、大きなピアスをつけた女性だった。
「紹介するね。こっちは奈緒、こっちは理恵」
「初めまして。大野です」
「初めまして!」
二人は笑顔で挨拶してくれた。
俺はゆみの隣ではなく、向かい側の席に座った。
料理が運ばれ、会話が始まる。
奈緒は事務職で働いているらしい。
理恵は接客業で、休日には友人と買い物に出かけることが多いという。
ゆみは二人と昔からの友人らしく、遠慮のない冗談を言い合っていた。
俺は、その様子を見ながら、少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。
「大野さんって、ゆみの友達なんだよね?」
奈緒が尋ねた。
「そうですね。知り合ったのは、今年に入ってからですけど」
「へえ。ゆみ、男友達多いもんね」
「ちょっと、奈緒!」
ゆみが笑いながら抗議した。
「だって本当じゃん」
理恵も笑った。
「ゆみって、誰とでもすぐ仲良くなるからね」
俺もつられて笑った。
そうだ。
ゆみは、誰とでも仲良くなれる女性なのだ。
俺だけに特別な態度を取っているわけではない。
その事実を、今度は少し落ち着いて受け止められた。
だが、その直後だった。
奈緒が何気なく尋ねた。
「そういえば、ゆみ。最近、例の人とはどうなの?」
俺の箸が止まった。
また、その話だ。
ゆみは一瞬だけ表情を変えた。
そして、少し照れたように笑った。
「……うん。実はね、来週、その人と二人で会うことになったんだ」
胸の奥が、ずしりと重くなった。
来週。
二人で。
俺とではない、別の男性と。
奈緒と理恵が、うれしそうに声を上げた。
「えっ、やったじゃん!」
「ついに進展したんだ!」
「まだ、どうなるか分からないってば!」
ゆみは顔を赤くしながら笑った。
俺はグラスを持ち上げた。
喉が渇いていたわけではない。
何かをしていないと、自分の表情が変わってしまいそうだった。
ゆみが誰かを好きになる。
その相手と二人で会う。
そして、うまくいけば付き合うかもしれない。
当たり前のことだ。
それなのに、俺は苦しかった。
俺は彼女に何もしてもらっていないわけではない。
一緒に食事をして、笑って、メッセージを交換した。
それだけで、十分うれしかった。
しかし、俺が欲しかったのは、その先だった。
自分だけを見てほしい。
自分と二人きりで会いたいと思ってほしい。
自分を恋人に選んでほしい。
その願いが叶わないかもしれないと知って、初めて、自分の期待の大きさを思い知らされた。
「大野さん?」
ゆみが俺を見た。
「どうしたの? 料理、冷めちゃうよ」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「疲れてる?」
「いや、大丈夫」
俺は笑った。
彼女の恋を応援することができれば、立派な男なのだろうか。
嫉妬しないことが、成熟した人間なのだろうか。
そんなことを考えてしまう時点で、俺はまだ自分の気持ちを持て余していた。
好きな女性が、別の男性を好きになる。
その事実を受け入れることは、思っていた以上に難しい。
それでも、ゆみには笑っていてほしいと思った。
その気持ちは本物だった。
同時に、できればその笑顔を自分に向けてほしかった。
その二つの気持ちが、胸の中でぶつかり合っていた。
俺はグラスをテーブルに置いた。
今夜、ゆみの気になる男性が誰なのか、俺は尋ねなかった。
聞いたところで、何かが変わるわけではない。
それに、知るのが怖かった。
俺はまだ、恋愛のスタートラインにすら立てていないのかもしれない。
だが、今夜の俺には、もう一つだけ分かったことがあった。
相手に選ばれたいという気持ちは、相手を大切にしたいという気持ちと、必ずしも同じではない。
ゆみを好きでいる自分と、ゆみの気持ちを尊重できる自分。
その二つを両立できる日は、まだ遠そうだった。




