第51話 「俺じゃない誰か」を好きな彼女に、俺は何を話せばいい
二〇二一年三月十四日、日曜日。
朝、目が覚めて最初に考えたのは、ゆみのことだった。
昨日の飲み会で聞いた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『ちょっと気になる人がいる』
たったそれだけの話だ。
ゆみは俺に交際を申し込んだこともなければ、俺の気持ちを断ったこともない。
それなのに、俺は失恋したような気分になっていた。
「……何やってんだ、俺は」
布団の中でつぶやく。
まだ何も始まっていない。
始まっていないのに、終わったような気持ちになっている。
自分でも、ばかばかしいと思った。
だが、気持ちは理屈どおりには動いてくれない。
俺は枕元のスマートフォンを手に取った。
ゆみとのメッセージ画面を開く。
最後のやり取りは、昨夜の『今日はありがとう。またね!』だった。
そこから先は、何もない。
当たり前だ。
彼女は俺の恋人ではないのだから。
それでも、何かメッセージを送りたくなった。
昨日の話の続きを聞いてみたい。
気になる人とは、どんな人なのか。
どこで知り合ったのか。
うまくいきそうなのか。
知りたいことは、いくらでもあった。
だが、質問を並べてみると、自分が何をしようとしているのか分かってきた。
俺は、ゆみの恋愛事情を知りたいのではない。
彼女の気になる相手が自分ではないと、確かめたくないだけなのだ。
相手が誰なのか分からなければ、まだ可能性が残っていると思える。
そんな卑怯な期待が、自分の中にあることに気づいた。
俺はメッセージ画面を閉じた。
今日は送らない。
無理に話題を作らなくてもいい。
そう決めて、ようやく布団から出た。
*
午後、俺は姉の真紀に電話をかけた。
特別な用事があったわけではない。
ただ、誰かに話を聞いてほしかった。
『何? 珍しいね。どうしたの?』
「いや、ちょっと相談」
『お金なら貸さないよ』
「違うわ!」
姉はいつもどおりだった。
俺は苦笑してから、ゆみとのことを話した。
知り合ってからの経緯。
二人で食事に行ったこと。
メッセージで恋愛について質問されたこと。
そして、昨日の飲み会で、彼女に気になる人がいると知ったこと。
姉は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
『それで、健太はどうしたいの?』
「どうしたいって……」
『ゆみさんと付き合いたいの?』
「そりゃ、できるなら付き合いたいよ」
『じゃあ、本人に自分の気持ちを伝えたいの?』
俺は黙った。
付き合いたい。
それは間違いない。
だが、気持ちを伝えたいのかと聞かれると、答えに詰まった。
断られるのが怖い。
今までのように話せなくなるのも怖い。
何より、ゆみから友達としての好意まで失ってしまうのではないかと思うと、動けなかった。
「……今の関係がなくなるのが怖いんだと思う」
『そっか』
「でも、このまま何もしなかったら、ずっと友達のままだろ?」
『そうかもしれないね』
「だったら、告白したほうがいいのかな」
姉は少し考えてから答えた。
『告白するかどうかは、健太が決めればいいと思う。でもね、告白したら付き合えるとか、告白しなかったら可能性がなくなるとか、そんな単純な話じゃないんじゃない?』
「……」
『相手がどう思っているかは、健太には決められないでしょ』
また、その言葉だった。
相手の気持ちは、相手のもの。
最近、何度も聞いている。
『それに、ゆみさんに気になる人がいるなら、その気持ちも尊重してあげたら? 健太が好きになるのは自由だけど、相手の恋愛まで自分の都合で動かすことはできないんだから』
「分かってるよ」
『うん。分かっていても、つらいよね』
姉の声が、少しだけ柔らかくなった。
『好きな人に振り向いてもらえないかもしれないって、苦しいことだと思うよ。でも、だからって自分を否定しなくていいからね』
俺は、何も言えなかった。
今まで、恋愛がうまくいかないのは、自分に何かが足りないからだと思っていた。
顔が悪いから。
背が低いから。
会話が下手だから。
女性を楽しませることができないから。
だから努力しなければならない。
変わらなければならない。
そう考えてきた。
もちろん、改善できることはあるだろう。
だが、自分を変えれば、必ず誰かに選んでもらえるという保証はない。
その事実を受け入れるのは、想像以上に難しかった。
「姉ちゃん」
『何?』
「俺って、そんなに魅力ないのかな」
電話の向こうで、姉が息を吐いた。
『ゆみさんが健太を恋愛対象として好きになるかどうかと、健太に魅力があるかどうかは、別の話でしょ』
「……」
『一人の女性に選ばれなかったからって、世の中の女性全員に選ばれないわけじゃないよ』
姉はそこで少し笑った。
『まあ、健太の場合、考えすぎて自分で自分を疲れさせてるところはあるけどね』
「そこは余計だろ!」
『あはは。元気出た?』
「全然」
『じゃあ、またね』
電話は切れた。
俺はスマートフォンを握ったまま、しばらく座っていた。
姉の言葉ですべてが解決したわけではない。
ゆみを好きな気持ちは、まだ残っている。
それでも、自分の価値を彼女の反応だけで決める必要はない。
そう思える瞬間が、ほんの少しだけあった。
*
夕方、俺は久しぶりにバットを持って、近所の公園へ向かった。
誰もいない広場で、素振りを始める。
一回。
二回。
三回。
高校時代、俺は強豪校の野球部にいた。
レギュラーではなかったが、練習だけは真面目にやっていた。
試合に出られなくても、練習すれば少しずつ上達できる。
そう信じていた。
だが、恋愛は違う。
素振りを一万回したからといって、好きな女性が自分を好きになってくれるわけではない。
優しく接したからといって、恋人になれるわけでもない。
努力の方向を間違えなければ必ず結果が出る。
そんな分かりやすい世界ではなかった。
俺はバットを止め、空を見上げた。
悔しかった。
ゆみに気になる人がいることが悔しいのではない。
自分がどれだけ努力しても、相手の気持ちは思いどおりにならない。
その現実が、悔しかった。
それでも、彼女を責めたいとは思わなかった。
ゆみは俺に優しくしてくれた。
一緒に食事をして、話をして、笑ってくれた。
それは、彼女が自分の意思でしてくれたことだ。
そこに俺が勝手な意味を付け加えてしまっただけなのかもしれない。
俺は、もう一度バットを振った。
今度は、ゆみに見せるためではない。
自分が野球を好きだったことを、思い出したかった。
*
夜。
風呂から上がると、スマートフォンに通知が届いていた。
ゆみからだった。
『昨日、ちゃんと帰れた?』
俺は画面を見つめた。
たった一言。
それでも、うれしかった。
やっぱり好きだ。
そう思った瞬間、また期待が膨らみかけた。
だが、俺は深呼吸した。
帰れたかどうかを気にかけてくれた。
それ以上でも、それ以下でもない。
今は、そのまま受け取ればいい。
『うん、ちゃんと帰れたよ。ゆみも大丈夫だった?』
返信すると、すぐに返事が届いた。
『大丈夫! 今日はちょっと寝坊しちゃったけどね(笑)』
俺は思わず笑った。
『飲みすぎたんじゃないの?』
『ちょっとだけ!』
そんな他愛のないやり取りが、数分続いた。
やがて、ゆみから最後のメッセージが届いた。
『またみんなで遊ぼうね!』
俺は画面を見つめた。
以前なら、この言葉を見て落ち込んでいたかもしれない。
また、みんなで。
二人きりではない。
自分は特別ではない。
そんなふうに考えていたと思う。
今だって、少し寂しい。
けれど、彼女がまた会いたいと思ってくれていることまで、否定する必要はないのかもしれない。
『うん。またみんなで!』
そう返した。
スマートフォンを置き、俺は椅子の背にもたれた。
ゆみとの恋が、これからどうなるのかは分からない。
もしかしたら、彼女は別の男性と付き合うかもしれない。
俺が気持ちを伝える日が来るかもしれない。
あるいは、このまま何も起こらず、自然に疎遠になっていくのかもしれない。
どれも、今の俺には決められない。
だからこそ、今すぐ答えを出そうとするのはやめようと思った。
好きな気持ちは、すぐには消せない。
それでも、自分の人生を、ゆみの返事だけに預ける必要はない。
明日も仕事がある。
野球の練習もある。
自分の生活もある。
俺はまだ、恋愛の初心者だ。
失敗するだろう。
勘違いもするだろう。
傷つくこともあるだろう。
それでも、少しずつ学んでいけばいい。
そう思いながら、俺は部屋の明かりを消した。
ただし――。
ゆみの名前がスマートフォンに表示されるたび、胸が高鳴ってしまう自分を、まだ完全には変えられそうになかった。




