第50話 「今日は誰を見に来たの?」笑顔の裏で、俺だけが焦っていた
二〇二一年三月十三日、土曜日。
午後六時半。
俺は、待ち合わせの居酒屋に到着した。
約束の時間より十五分も早い。
別に、ゆみに会いたくて早く来たわけではない。
いや、会いたかったのは事実だ。
ただ、遅刻するのが嫌だった。それだけだ。
そう自分に言い訳しながら、俺は店の前でスマートフォンを確認した。
ゆみからのメッセージはない。
木村からもない。
俺は店に入ると、予約名を告げて席に案内された。
今日の参加者は、木村、ゆみ、あかね、美穂、そして俺の五人。
以前の飲み会と同じ顔ぶれだった。
席に着き、メニューを開く。
飲み物を選び、料理を決める。
普段なら、それだけで十分だった。
しかし今日は違う。
ゆみが来たとき、最初に何を話そうか。
仕事の話は、この前した。
野球の話もした。
趣味の話もした。
では、恋愛の話はどうだろう。
彼女は俺の恋愛経験について聞いてきた。
もしかしたら、今日もその話になるかもしれない。
いや、なるとは限らない。
俺はメニューを閉じた。
考えすぎだ。
*
「お待たせー!」
午後六時四十分。
ゆみが店に入ってきた。
明るい色のジャケットに、細身のパンツ。耳元には小さなアクセサリーが揺れていた。
いつものように、彼女は笑顔だった。
「大野さん、早いね!」
「うん。道が混むと思って」
「そっか。私、途中でコンビニ寄っちゃった」
ゆみは何のためらいもなく、俺の向かい側に座った。
それだけで、胸が少し騒いだ。
やがて木村たちも到着し、飲み会が始まった。
仕事の愚痴、最近見たテレビ、休日の過ごし方。
話題は次々に変わった。
ゆみは相変わらず話し上手だった。
あかねが話せば笑い、木村が冗談を言えば突っ込み、美穂の話には真剣に耳を傾ける。
俺にも何度か話を振ってくれた。
「大野さん、最近走ってるんでしょ?」
「えっ、なんで知ってるの?」
「この前、メッセージで言ってたじゃん」
そうだった。
何気なく話したことを覚えていてくれた。
俺はうれしくなった。
「まあ、少しずつだけどね」
「いいじゃん! 続けてるの、偉いと思うよ」
ゆみは笑った。
その笑顔を見ながら、俺は考えた。
彼女は俺のことを、ちゃんと見てくれているのかもしれない。
けれど、その考えはすぐに打ち消した。
覚えていることと、好きになることは違う。
相手を褒めることと、恋愛感情を持つことも違う。
何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、目の前で笑われると、簡単に忘れてしまう。
*
午後八時を過ぎたころだった。
美穂が、ゆみに尋ねた。
「そういえば、例の人とはどうなったの?」
俺は、グラスを持つ手を止めた。
「例の人?」
あかねが身を乗り出した。
「えっ、まだ話してなかったの?」
「ちょっと、今ここで言わなくていいじゃん!」
ゆみは笑いながら、美穂の肩を軽く叩いた。
俺は何も言わなかった。
例の人。
誰だろう。
仕事関係の人か。
昔からの友達か。
それとも、ゆみが気になっている男性なのか。
胸の中に、嫌な想像が広がった。
「何それ、気になるやん」
木村が面白がって尋ねた。
「別に大した話じゃないって!」
ゆみは手を振った。
「この前、ちょっと気になる人がいるって話しただけ」
気になる人。
その言葉が、俺の耳に残った。
ゆみには、気になる男性がいる。
その可能性は、もちろん考えていた。
だが、実際に本人の口から聞くと、想像していたよりも胸に響いた。
「それで、どうするの?」
あかねが尋ねた。
「どうしようかなって。まだ、相手のこともよく知らないし」
「じゃあ、まずは話してみれば?」
美穂が言った。
「うん。そうだよね」
ゆみはうなずいた。
俺はグラスの中の氷を見つめた。
彼女が恋愛の相談をしていた友達。
その話は、本当だったのかもしれない。
俺に恋愛経験を聞いてきたのも、ただ相談相手として話しやすかったからなのだろう。
そこに特別な意味があるとは限らない。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
「大野さん?」
突然、ゆみに呼ばれた。
「えっ?」
「どうしたの? さっきから静かじゃない?」
「ああ、いや。ちょっと考え事してた」
「眠い?」
「いや、大丈夫」
俺は笑った。
いつものように。
彼女の前で、落ち込んでいる姿を見せたくなかった。
だが、何に落ち込んでいるのか、自分でもはっきりとは分からなかった。
ゆみは俺の気持ちを裏切ったわけではない。
俺たちは付き合っていない。
彼女が誰を好きになろうと、俺が口を出せる立場ではない。
それなのに、心のどこかで、彼女に選ばれなかったような気持ちになっていた。
まだ選ばれる機会さえ、なかったというのに。
*
飲み会の終わり。
店の前で、俺たちは解散することになった。
「今日は楽しかったね!」
ゆみが言った。
「またみんなで飲もうよ」
「そうだな」
俺は答えた。
駅へ向かう途中、木村が隣に並んだ。
「お前、ちょっと元気なかったな」
「そうか?」
「ゆみの話、気にしてる?」
俺はすぐには答えられなかった。
「……気にならないって言ったら、嘘になる」
「そりゃそうか」
木村は歩きながら言った。
「でも、ゆみが誰を好きでも、それはゆみの自由だろ」
「分かってる」
「分かってるのと、納得できるのは別だけどな」
俺は苦笑した。
まさに、そのとおりだった。
頭では分かっている。
彼女の気持ちは彼女のものだ。
だが、俺の期待は、俺自身が思っていた以上に大きくなっていた。
「大野。好きになるのは自由だぞ」
木村が言った。
「でも、相手が自分を好きになるかどうかまで、自分の努力で決まると思うなよ」
俺は黙ってうなずいた。
その言葉は、思っていたよりも深く胸に刺さった。
俺は、ゆみのために走り始めたわけではない。
……いや、最初はそうだった。
彼女に好かれたいから、少しでも変わろうと思った。
それ自体は悪くない。
だが、変わった自分を見せれば、彼女が振り向いてくれる。
そんな期待を、知らないうちに抱いていたのではないか。
駅の改札で木村と別れ、俺は一人で電車に乗った。
窓に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。
ゆみには、気になる男性がいる。
その相手が誰なのか、俺は知らない。
知りたい気持ちはある。
けれど、無理に聞き出す必要はない。
俺はスマートフォンを取り出し、ゆみに短いメッセージを送った。
『今日は楽しかったよ。またみんなで飲もう』
しばらくして、返信が届いた。
『うん! 今日はありがとう。またね!』
それだけだった。
俺は画面を閉じた。
期待していた言葉は、そこにはなかった。
だが、彼女は何も悪くない。
俺が勝手に期待して、勝手に傷ついているだけなのだ。
電車が駅に停まった。
俺は立ち上がり、ドアの向こうへ歩き出した。
恋愛は、試合のように勝敗が決まるものではない。
相手を打ち負かせば、望むものが手に入るわけでもない。
それでも俺は、まだ諦めきれなかった。
ゆみが好きだった。
その気持ちだけは、嘘ではなかったからだ。
そして俺は、まだ知らなかった。
自分の気持ちを大切にすることと、相手の気持ちを尊重すること。
その二つを、本当に両立させる難しさを。




