第48話 「大野さんって彼女みたいな人いるの?」その質問の意味
二〇二一年二月二十七日、土曜日。
大野健太は、仕事帰りの電車でスマートフォンを見つめていた。
ゆみからメッセージが届いている。
『この前の写真、送るね! 美穂が変な顔してるやつ、めっちゃ笑った(笑)』
添付された写真には、四人で海沿いを歩いている姿が写っていた。
美穂は本当に変な顔をしていて、あかねは呆れたように笑っている。ゆみはカメラに向かってピースをしていた。
健太も、端のほうで笑っている。
何でもない写真だった。
それなのに、健太は何度も拡大してしまった。
ゆみの笑顔。
横に並んでいる自分。
同じ場所で過ごした時間。
自分だけが写っているわけではない。二人だけの記念写真でもない。
それでも、彼女と過ごした一日を思い出すと、胸が少し温かくなった。
「……また会いたいな」
口から出た言葉に、健太自身が驚いた。
これまでも、女性と仲良くなりたいと思ったことはある。
しかし、ゆみについては、ただ彼女に好かれたいというだけではなくなっていた。
話していると楽しい。
笑顔を見ると嬉しい。
彼女が普段どんな生活をしているのか、何を考えているのか、もっと知りたい。
それは、恋愛感情に近いものなのかもしれなかった。
ただし、健太はまだ、その気持ちを本人に伝えるつもりはなかった。
今は、知り合ったばかりなのだから。
そう考えられるようになったことは、以前の自分からすれば小さな進歩だった。
*
翌日、日曜日。
健太は、草野球チームの練習に参加した。
練習後、いつものファミリーレストランで仲間たちと食事をする。
「それで、ゆみとはどうなんだ?」
森川信也が、真っ先に尋ねた。
「どうって、普通や」
「普通って何だよ。二人で飲んで、ドライブにも行ったんだろ?」
「ドライブは四人や」
「細かいことはいいんだよ!」
森川は、勝手に盛り上がっていた。
「これは、かなり可能性あるぞ。次は二人で出かける約束を取りつけろ!」
「だから、そういう話じゃないかもしれんやろ」
健太は苦笑した。
田村剛が、メニューを閉じて口を挟んだ。
「森川、お前は何でも恋愛に結びつけすぎなんだよ」
「お前に言われたくねえよ!」
「俺は少なくとも、相手の都合を考えるぞ」
「考えすぎて何もできないのも問題だろ!」
二人の言い合いに、中村拓郎が笑った。
「まあまあ。健太、次に会う約束は?」
「まだ決まってない」
「じゃあ、誘えばいいじゃん。断られたら、そのとき考えればいい」
中村の言葉は単純だった。
だが、健太にとっては難しい。
誘って断られることよりも、今ある関係が気まずくなることが怖かった。
せっかく話せるようになった。
せっかく一緒に出かけられた。
その関係を、自分の気持ちを伝えたことで壊してしまったらどうしよう。
そんな不安があった。
「焦らなくてもいいんじゃないか」
石田雄二が言った。
「ただ、何も言わないまま相手の気持ちを想像し続けるのも、しんどいと思うぞ」
健太は、うなずいた。
自分はいつも、相手に嫌われない方法ばかり考えている。
しかし、嫌われないことと、関係を深めることは違うのだろう。
何も伝えなければ、相手に自分の気持ちが伝わることもない。
それでも、伝えたからといって、同じ気持ちが返ってくるとは限らない。
恋愛には、そうした不確かさがある。
「……もうちょっと、考えてみるわ」
健太はそう答えた。
森川は不満そうだったが、藤井直樹は何も言わずにうなずいた。
*
三月五日、金曜日。
健太は仕事を終え、帰宅途中の電車に揺られていた。
スマートフォンが震えた。
ゆみからのメッセージだった。
『大野さんって、今彼女いるの?』
「……えっ?」
健太は思わず画面を二度見した。
今、彼女がいるのか。
つまり、恋人がいるかどうかを聞いている。
なぜ、そんなことを聞くのだろう。
健太の頭の中で、いくつもの可能性が一斉に浮かんだ。
自分に興味があるのだろうか。
恋人がいないなら、もっと会おうと思ってくれているのだろうか。
それとも、単純に世間話として聞いただけなのだろうか。
健太は、返事を打ち始めた。
『いないよ。ずっといないかな』
送信しかけて、手を止めた。
ずっといない。
それは事実だが、少し情けなく見える気もする。
しかし、嘘をつく必要はない。
健太は、そのまま送信した。
『いないよ。ずっといないかな』
数分後、返信が来た。
『そうなんだ! 意外!』
健太の胸が高鳴った。
意外。
その言葉には、どんな意味があるのだろう。
さらにメッセージが届いた。
『話しやすいし、優しいのにね』
健太は、スマートフォンを握りしめた。
また、その言葉だった。
話しやすい。
優しい。
以前にも言われたことがある。
自分のことを好意的に見てくれているのは確かだろう。
だが、それが恋愛感情につながっているかどうかは分からない。
健太は、藤井の言葉を思い出した。
相手の答えを、代わりに決めない。
期待することまで否定する必要はない。
健太は、素直に返した。
『ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ』
すると、ゆみから返信が届いた。
『今度、恋愛の話も聞かせてよ! 大野さんのこと、まだあんまり知らないし』
健太は、画面を見つめた。
自分のことを知りたい。
恋愛の話を聞きたい。
そう言われたことが、嬉しかった。
ただし、彼女が何を知りたいのかは、まだ分からない。
恋愛相談をしたいだけなのかもしれない。
友達として興味を持っているのかもしれない。
それでも、健太は返信した。
『いいよ。俺もゆみのこと、もっと知りたいし』
送信した後、胸がどきどきした。
少し踏み込んだ言葉だったかもしれない。
重かっただろうか。
そう不安になりかけたとき、返信が届いた。
『いいね! じゃあ、また飲もう!』
健太は、ゆっくり息を吐いた。
よかった。
少なくとも、嫌がられたわけではなさそうだ。
しかし、次に会う日程は、まだ決まっていなかった。
*
三月七日、日曜日。
健太は、実家で昼食を食べていた。
母の美代子が、味噌汁をよそいながら尋ねた。
「最近、スマホをよく見てるね」
「そうか?」
「そうよ。前は、家では野球の動画ばかり見てたのに」
「……まあ、ちょっとな」
母親には、何となく隠し通せない気がした。
「もしかして、好きな人でもできた?」
健太は、箸を止めた。
「いや、まだ、そんなんじゃない」
「まだ?」
「……いや、だから、そういうんじゃないって」
母は、笑いながら食卓に座った。
「別に、誰か好きになるのは悪いことじゃないでしょ」
「分かってるよ」
「ただ、相手の気持ちも大事にしなさいね」
健太は、顔を上げた。
母は、何気ない様子で続けた。
「自分が好きだからって、相手も同じ気持ちとは限らないんだから。お父さんだって、昔は私の気持ちを全然分かってなかったのよ」
「親父が?」
「そう。付き合い始めたころなんて、私が何を考えているか、勝手に決めつけてばっかりだったんだから」
健太は、思わず笑った。
「今でもそうやん」
「そうなのよ。だから困るの」
母は笑いながら、父の分の料理を用意した。
その姿を見て、健太は思った。
恋愛は、若いときに一度成功すれば終わりというものではない。
夫婦になっても、相手の気持ちを考え続けなければならない。
誰かと一緒に生きるというのは、そういうことなのかもしれない。
自分はまだ、その入口にすら立っていない。
だからこそ、焦って答えを求めるのではなく、少しずつ相手を知っていけばいい。
健太は、そう考えた。
*
その夜。
健太は、ゆみにメッセージを送った。
『この前話してた飲み会、来週あたりどう? 都合が合えば、またゆっくり話したいな』
送信してから、スマートフォンを机に置いた。
今度は、すぐに返事を確認しようとはしなかった。
風呂に入り、洗濯物を片づけ、明日の仕事の準備をした。
その後で画面を見ると、返信が届いていた。
『誘ってくれてありがとう! 来週はちょっと予定があるんだ。また都合合うときに行こうね』
健太は、静かに息を吐いた。
断られた。
いや、正確には、来週の誘いを断られただけだ。
彼女は、また都合が合うときにと言っている。
そこに期待を持つこともできるし、社交辞令だと考えることもできる。
しかし、今の段階では、それ以上のことは分からない。
健太は返信した。
『了解! また都合が合うときに行こう』
それだけにした。
送信した後、少しだけ寂しさが残った。
けれど、以前のように、すぐに自分を否定することはなかった。
自分は誘った。
ゆみは、その日には行けないと答えた。
ただ、それだけのことだ。
自分に魅力がないからだと、決めつける必要はない。
反対に、次は必ず会えると期待しすぎる必要もない。
健太はノートを開いた。
『ゆみに誘いを断られた。でも、関係が終わったわけではない。自分の気持ちを伝えることと、相手に応えてもらうことは別』
書き終えて、ペンを置いた。
そのとき、もう一度スマートフォンが震えた。
ゆみからだった。
『そういえば、大野さんって、好きな人ができたら自分から告白するタイプ?』
健太は、目を見開いた。
なぜ、そんなことを聞くのだろう。
さっきの会話の続きなのか。
それとも、自分に何かを期待しているのか。
心臓が、再び速くなった。
健太は、すぐには返事を打てなかった。
期待するな。
決めつけるな。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥では、確かな希望が芽生え始めていた。
今度こそ、何かが変わるのかもしれない。
しかし、その質問には、健太がまだ知らない理由があった。




