第47話 助手席の距離、縮まったのは俺の期待だけ
二〇二一年二月二十日、土曜日。
朝九時。
大野健太は、クローゼットの前で悩んでいた。
今日は、ゆみたちとドライブに行く日だった。
先週の飲み会で話題に出た計画が、思いのほか早く実現したのだ。
参加者は四人。
運転するゆみ、友人のあかねと美穂、そして健太。
行き先は大阪府内の海沿いの観光スポットで、昼食を食べてから景色を楽しむ予定だった。
「何着ていけばええんや……」
健太は、普段の休日なら選ばない服を取り出した。
少し落ち着いた色のセーター。黒いパンツ。汚れのないスニーカー。
鏡の前で全身を確認する。
派手ではない。
だが、だらしなくもない。
「よし、これでええやろ」
そう言ってから、健太は髪を整え直した。
今日は、ゆみと長い時間を一緒に過ごせる。
それだけで、いつもの休日とは違っていた。
ただし、四人でのドライブだ。
二人きりではない。
健太は、その事実を忘れないようにしながら家を出た。
*
待ち合わせ場所に着くと、ゆみの車がすでに停まっていた。
運転席の窓が開き、彼女が顔を出した。
「大野さん、おはよう!」
「おはよう。早いな」
「二人を迎えに行く時間もあるからね。乗って乗って!」
あかねと美穂は、後から合流することになっていた。
健太が助手席に乗り込むと、車内にはほのかな甘い香りが漂っていた。
前回の食事のときにも感じた香水の香りだ。
彼女が身につけているのか、車内に残っているのかは分からない。
それでも健太には、ゆみを思い出させる香りだった。
「シートベルト、忘れないでね」
「ああ」
カチッと音がして、ベルトが固定される。
ゆみはミラーを確認し、車を発進させた。
「今日は楽しもうね!」
「うん。よろしく」
走り出した車の中で、二人は仕事の話を始めた。
ゆみは運転に慣れているらしく、交差点でも車線変更でも落ち着いていた。
「運転、うまいな」
「そう? ありがとう。運転してると、気分転換になるんだよね」
「俺は、知らん道やとちょっと緊張するわ」
「じゃあ、今日は助手席でゆっくりしてて!」
ゆみは笑った。
健太は、その横顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
車内では、普段の飲み会とは違う会話ができた。
音楽の話。休日の過ごし方。行ってみたい場所。
ゆみは、好きな曲が流れると小さく口ずさんだ。
健太は、その歌声を聞きながら、彼女がどんな音楽を聴くのか尋ねた。
「いろいろ聴くよ。気分によって違うかな」
「へえ。俺も、昔の曲とかよく聴くで」
「今度おすすめ教えてよ」
「ええよ」
その一言に、健太は嬉しくなった。
次に会う理由が、一つできたような気がしたからだ。
けれど、ゆみは単純に、音楽の話を続けたいと思っただけかもしれない。
健太は、そうした可能性も頭の片隅に置くことにした。
*
途中であかねと美穂を乗せると、車内は一気に賑やかになった。
「ゆみ、今日の選曲いいじゃん!」
「でしょ? 朝からテンション上げていかないと!」
美穂は後部座席でリズムを取り、あかねも笑いながら会話に加わった。
健太は、三人のやり取りを聞いていた。
ゆみは、友達といるときもよく笑う。
健太と二人で話していたときと、基本的には変わらない。
彼女にとって笑顔や親しさは、特定の男性だけに向けるものではないのだろう。
それを目の前で見ると、少しだけ寂しかった。
しかし、同時に納得もした。
自分が知っているゆみは、彼女の一部分にすぎない。
まだ知り合って間もないのだから、当然だった。
「大野さん、何か聴きたい曲ある?」
ゆみに尋ねられ、健太は慌てて顔を上げた。
「えっ、俺?」
「うん。好きな曲かけるよ」
「じゃあ……これ、知ってる?」
曲名を伝えると、ゆみはスマートフォンを操作して音楽を流した。
「あ、知ってる! 懐かしい!」
彼女が楽しそうに笑う。
健太も笑った。
その瞬間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
*
昼前、四人は海沿いの観光エリアに到着した。
冬の海は、空気が澄んでいた。
風は冷たいが、遠くまで見渡せる景色は美しい。
「写真撮ろうよ!」
美穂がスマートフォンを取り出し、四人で記念撮影をした。
ゆみは健太の隣に立ち、笑顔でカメラを見た。
肩と肩の間には、わずかな隙間があった。
写真を撮るために並んでいるのだから、近くに立つのは自然なことだ。
それでも健太は、撮影した写真を確認して、少しだけ嬉しくなった。
自分とゆみが、同じ一枚の写真に収まっている。
それは、ただの記念写真だった。
恋人同士の写真でもなければ、二人だけの思い出でもない。
分かっている。
それでも、嬉しいものは嬉しかった。
「大野さん、次はあっち行こう!」
ゆみが歩き出す。
「おう!」
健太は、その後ろを追いかけた。
海を眺め、店をのぞき、土産物を選ぶ。
美穂は面白いものを見つけるたびに声を上げ、あかねはそんな彼女を笑いながら見守っていた。
ゆみは、気になる店があると健太にも意見を求めた。
「これ、どう思う?」
「ええんちゃう? ゆみらしいと思う」
「本当? じゃあ、見てみようかな」
何気ないやり取りだった。
けれど健太は、彼女が自分の意見を聞いてくれたことに満足していた。
以前の自分なら、何か気の利いた言葉を言おうとして空回りしていたかもしれない。
今は、無理に格好をつけなくても、会話は続いている。
それだけでも、少し自信が持てた。
*
昼食の後、四人は海の見えるカフェに入った。
窓際の席からは、冬の海が広がっていた。
温かい飲み物を注文し、ゆっくりと休憩する。
話題は自然と、恋愛の話になった。
「そういえば、あかねって最近どうなの?」
美穂が尋ねた。
「ああ、前に話してた人? この前、もう会わないことにしたよ」
「えっ、何で?」
「向こうは結婚を急いでたけど、私はまだそこまで考えられなかったから」
あかねは、淡々と話した。
「嫌いになったわけじゃないんだけどね。将来の考え方が違ったから、早めに伝えたほうがいいと思って」
健太は、その話を聞きながら考えた。
相手が悪いわけではない。
あかねが悪いわけでもない。
ただ、求めるものが違った。
恋愛では、どちらかが正しいとは限らないのだ。
「そういうこともあるんだな」
健太が言うと、あかねはうなずいた。
「ありますよ。どれだけいい人でも、恋愛感情が生まれるとは限らないですから」
その言葉に、健太は少しだけ緊張した。
ゆみが、カップを置いた。
「そうそう。いい人だなって思うことと、付き合いたいと思うことは別だよね」
彼女は何気なく言った。
誰か特定の男性を思い浮かべている様子ではなかった。
それでも健太は、胸の奥をつかまれたような気がした。
自分は、ゆみにとってどんな存在なのだろう。
話しやすい人。
一緒に飲める人。
ドライブに誘える知人。
それとも、少しだけ気になる男性。
今のところ、答えは出ていない。
「大野さんは、どう思う?」
突然、ゆみに話を振られた。
「えっ?」
「いい人だけど恋愛対象じゃないって、あると思う?」
健太は、少し考えた。
「……あると思う。相手が自分をどう思うかは、自分では決められへんから」
言いながら、胸の中が少し痛んだ。
それは、自分が何度も考えてきたことだった。
好きになってもらいたい。
選ばれたい。
けれど、相手の気持ちを自分の望む形に変えることはできない。
ゆみは、健太の答えを聞いて微笑んだ。
「大野さん、ちゃんと考えてるんだね」
「いや、最近ちょっと考えるようになっただけや」
「それって、いいことだと思うよ」
健太は、素直に嬉しかった。
ただし、彼女の言葉は、健太の考え方に対する感想だった。
恋愛感情の告白ではない。
その違いを、健太は忘れないようにした。
*
午後四時過ぎ。
帰り道、あかねと美穂は後部座席で疲れて眠ってしまった。
車内は静かになった。
ラジオから流れる音楽と、道路を走るタイヤの音だけが聞こえる。
「二人とも寝ちゃったね」
ゆみが小さな声で言った。
「楽しんでたからな。疲れたんやろ」
「うん。私も、ちょっと眠いかも」
「無理せんと、休憩したほうがええで」
「ありがとう。でも、もう少しだから大丈夫」
健太は、彼女の様子を見ていた。
疲れているなら、話しかけすぎないほうがいい。
何かしてあげたいと思っても、相手が必要としていないなら、無理に手を出す必要はない。
そんなことを考えながら、健太は窓の外へ視線を向けた。
しばらくして、ゆみが口を開いた。
「今日、来てくれてありがとうね」
「え?」
「大野さんが来てくれたから、楽しかったよ」
健太の心臓が跳ねた。
「……俺も、楽しかった」
「よかった!」
ゆみは笑った。
その言葉は、確かに嬉しかった。
だが、彼女は今日のドライブを楽しんだと言ったのであって、健太と恋愛関係になりたいと言ったわけではない。
健太は、その違いを頭の中で何度も確認した。
それでも、期待してしまう自分がいた。
今日のような時間を、また過ごしたい。
今度は、もっとゆみのことを知りたい。
いつか、彼女から自分を特別な相手として見てもらえたら。
そんな願いが、胸の奥で静かに膨らんでいった。
*
夕方、駅前で車を降りるとき、健太はゆみに礼を言った。
「今日はありがとう。運転もお疲れさま」
「こちらこそ! またみんなで行こうね」
「うん。またな」
ゆみは笑顔で手を振り、車を走らせた。
健太は、見えなくなるまでその車を見送った。
帰宅後、スマートフォンには、ドライブ中に撮った写真が送られてきていた。
四人で写った写真。
海を背景にした写真。
店で買ったものを見せ合って笑っている写真。
健太は、一枚ずつ確認した。
その中に、ゆみと並んで写った写真があった。
彼女は自然な笑顔で、健太も少し緊張した顔をしながら笑っていた。
「……ええ写真やな」
小さくつぶやいた。
その写真を、特別な意味のあるものにしたかった。
だが、今はまだ、四人で出かけた日の記録にすぎない。
健太は写真を保存し、ノートを開いた。
『今日、ゆみとドライブに行った。楽しかった。自分の意見も少し言えた。相手の話も聞けた』
そこまで書いて、ペンを止める。
そして、最後にこう付け加えた。
『距離が近くなった気がする。でも、本当に近くなったのは、俺の期待だけかもしれない』
書き終えた健太は、ノートを閉じた。
恋愛がうまくいく保証はない。
それでも、誰かと過ごす時間を楽しめたことは、嘘ではなかった。
健太は、少しずつ変わり始めていた。
しかし、彼が気づいていないこともあった。
相手を尊重しようと努力することと、相手に好かれることは、必ずしも同じではない。
そして、努力したからこそ報われるはずだと考え始めたとき、彼は再び、相手の気持ちを自分の願望で塗り替えてしまうのだった。




