第45話 脈あり診断、検索結果は残酷だった
二〇二一年一月三十日、土曜日。
朝八時。
大野健太は、布団の中でスマートフォンを握りしめていた。
昨日の夜、ゆみと二人で食事をした。
会話は弾んだ。彼女は何度も笑ってくれた。恋愛経験のない自分にも、気さくに接してくれた。
そして、別れ際には「また飲もうね」と言ってくれた。
それだけなら、十分に嬉しい出来事だった。
問題は、その先である。
「……脈ありなんかな」
誰もいない部屋で、健太はつぶやいた。
スマートフォンを開き、検索窓に文字を入力する。
『女性 二人で飲みに行く 脈あり』
検索結果には、さまざまな記事が並んでいた。
『女性が二人きりの食事に応じるのは好意のサイン?』
『女性が好きな男性に見せる行動十選』
『勘違い注意! 誰にでも優しい女性の特徴』
健太は上から順番に読み始めた。
最初の記事には、女性が二人きりの食事を受け入れるのは、相手に一定の好感を持っている可能性があると書かれていた。
「ほらな……」
思わず口元が緩む。
しかし、次の記事には、女性が友人として食事に誘うことも珍しくないと書かれていた。
「……そら、そうか」
さらに別の記事では、女性が会話中によく笑うことや、質問を返してくることが好意のサインとして紹介されていた。
健太は昨日の食事を思い返した。
ゆみは笑っていた。
質問もしてくれた。
自分の話を面白いと言ってくれた。
だが、記事を読み進めると、それらは社交的な人なら誰にでも見せる行動だとも書かれている。
「どっちやねん……」
スマートフォンを布団に放り投げた。
結局、何も分からなかった。
それでも健太は、もう一度スマートフォンを手に取った。
今度は動画サイトを開く。
恋愛アドバイザーを名乗る男性が、画面の中で自信満々に語っていた。
『女性の気持ちは行動に表れます。相手があなたのために時間を使ってくれるなら、可能性は十分にあります』
健太は身を乗り出した。
『ただし、都合のいい男になってはいけません。女性に合わせるばかりでは、恋愛対象から外されてしまいます』
「都合のいい男……」
昨日、ゆみは楽しそうだった。
自分は店を調べ、相手の話を聞き、会話を盛り上げようと努力した。
それは、相手に合わせすぎたということなのだろうか。
では、もっと自分の意見を主張するべきだったのか。
それとも、少し強引なくらいに次の約束を取りつけるべきだったのか。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
健太は動画を止め、天井を見上げた。
「恋愛って、攻略本ないんか……」
もちろん、そんなものはない。
あったとしても、目の前の相手の気持ちまで、正確に教えてくれるわけではない。
*
午後。
健太は草野球チームの仲間たちと、ファミリーレストランに集まった。
田村剛、森川信也、石田雄二、中村拓郎、山本和也、藤井直樹。
いつもの顔ぶれだ。
テーブルには大盛りの食事とドリンクバーのグラスが並んでいた。
「それで、ゆみとはどうなったんだ?」
森川が身を乗り出した。
「どうもなってない。昨日、二人で飲みに行っただけや」
「二人で?」
森川の声が大きくなった。
「おいおい、それは一歩前進だろ!」
「いや、そうとは限らんやろ」
健太は慌てて否定した。
森川は、昔から恋愛について自信満々だった。
ただし、その自信が正しいかどうかは別問題である。
「女が男と二人で飲みに行く。普通に考えたら、多少は興味があるってことだ」
「多少の興味と恋愛感情は違うだろ」
藤井が静かに口を挟んだ。
「友達として話したい場合だってある」
「お前は慎重すぎるんだよ。そんなことばかり言ってたら、いつまでたっても進まないぞ」
「進めばいいってもんでもないだろ」
森川と藤井の間に、いつもの言い合いが始まりかけた。
そこで山本がスマートフォンを置いた。
「情報を整理しよう」
「また始まったな」
中村が笑う。
「まず、ゆみさんから二人で飲もうと提案された。これは事実。次に、実際に二人で食事をした。これも事実。会話が弾んだというのは健太の主観だが、本人が楽しかったと感じていることは確かだ」
「で、結論は?」
石田が唐揚げを口に運びながら尋ねた。
「現時点では判断不能」
「長々と説明して、それかい!」
中村が突っ込むと、全員が笑った。
健太も笑った。
自分一人で考えていると、何か答えを出さなければいけない気がしていた。
けれど、他人から見ても分からないことなのだ。
「ただな、健太」
藤井が声の調子を変えた。
「一つだけ、確認しておいたほうがいいことがある」
「何?」
「お前は、ゆみさんと一緒にいて楽しかったのか。それとも、ゆみさんに好かれているかもしれないと思ったから楽しかったのか」
健太は、すぐには答えられなかった。
「……両方やと思う」
「それでいいと思うよ。でも、相手の気持ちを確かめるためだけに会うようになると、しんどくなるぞ」
藤井はグラスの水を飲んだ。
「相手が笑ったら脈あり。返事が遅ければ脈なし。そんなふうに一つ一つ採点していたら、目の前の人をちゃんと見られなくなる」
健太は、昨日の自分を思い返した。
ゆみが笑ったとき、嬉しかった。
だが同時に、これは好意のサインなのかと考えていた。
彼女が話を聞いてくれたときも、次につながる可能性を探していた。
自分は本当に、ゆみのことを知ろうとしていたのだろうか。
それとも、自分を好きになってくれそうな女性かどうかを見極めようとしていたのだろうか。
「……難しいな」
「簡単じゃないよ」
藤井は笑った。
「俺だって、昔は相手の気持ちを勝手に決めつけて失敗した。だからって、何も期待するなとは言わない。期待してもいい。ただ、答えを相手の代わりに決めるなってことだ」
健太は、ゆっくりとうなずいた。
*
その日の夜。
健太は自宅で、ゆみとのメッセージ画面を開いた。
最後のやり取りは、昨夜の「また飲もうね」で終わっている。
何か送ったほうがいいのだろうか。
昨日の感想を伝えるべきか。
次の約束を聞くべきか。
それとも、しばらく連絡せずに様子を見たほうがいいのか。
また、答えを探そうとしていた。
健太は入力欄に文章を打ち込んだ。
『昨日は楽しかったです。また二人で飲みに行きませんか?』
送信ボタンに指を近づける。
しかし、そこで止まった。
昨日も「また飲もう」と言っていた。
今日、続けて誘えば、急かしていると思われるかもしれない。
そんな不安が頭をよぎった。
結局、健太は文章を消した。
「……何やってんだ、俺」
ため息をつき、スマートフォンを机に置く。
少しして、別の考えが浮かんだ。
誘いたいなら、誘えばいいのではないか。
相手が行きたいかどうかは、相手が決めることだ。
断られる可能性があるからといって、最初から何も伝えないのは、相手の気持ちを尊重していることになるのだろうか。
健太は、もう一度スマートフォンを手に取った。
今度は、短い文章を打った。
『昨日はありがとう。楽しかったです。また都合が合えば飲みに行きましょう』
具体的な日程を迫らず、返事を急かす言葉もつけない。
送信した。
既読は、すぐにはつかなかった。
健太はスマートフォンを机に伏せた。
返事が来るかどうかを、何度も確認するのはやめよう。
そう決めて、風呂に入った。
上がってから確認すると、返信が届いていた。
『こちらこそ! また予定合ったら行こうねー!』
健太は画面を見つめた。
嬉しい。
また会えるかもしれない。
だが、具体的な日程はない。
彼女の言葉は、期待を持たせるものにも、社交辞令にも読めた。
結局、答えは出なかった。
健太は、返信に笑顔の絵文字を一つ添えて送った。
それ以上は、何も書かなかった。
*
日曜日。
健太は、草野球の練習に向かうため、朝から運動着に着替えた。
鏡の前で腹を軽く引っ込め、横から自分の体形を確認する。
「……ちょっと、腹出てきたな」
以前より体重が増えている気がした。
仕事から帰ると疲れて、運動する気力が残らない。夜食を食べることも増えていた。
恋愛のことばかり考えていても、自分の生活が変わるわけではない。
健太は、練習の前に少し走ることにした。
五分ほど走ったところで、息が上がった。
「はあっ……はあっ……」
足も重い。
高校時代は、もっと走れたはずだった。
それでも、歩いて呼吸を整え、もう一度ゆっくり走り始めた。
恋愛のために体を鍛える。
女性に好かれるために自分を変える。
それも、最初のきっかけとしては悪くないのかもしれない。
ただ、誰かに選ばれなければ意味がないと考えると、努力そのものが苦しくなる。
健太は、まだその違いを十分には理解できていなかった。
走り終えた彼は、額の汗を拭きながら空を見上げた。
ゆみから連絡が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
どちらであっても、今日は草野球の練習がある。
仲間たちと過ごす時間がある。
自分の生活は、彼女からの返事だけで決まるわけではない。
そう考えられたことが、今日の小さな収穫だった。
だが、健太のスマートフォンは、その日の夕方に再び震えることになる。
画面に表示された名前は、ゆみだった。
『来週、友達も一緒なんだけど、みんなで飲まない?』
健太は、しばらく画面を見つめた。
また会える。
それは嬉しい。
けれど、二人きりではない。
彼女は自分と、どんな関係を望んでいるのだろう。
健太は返信欄を開いた。
今度こそ、相手の言葉を自分の願望に合わせて読み替えないように。
そう思いながら、彼はゆっくりと文字を打ち始めた。




