第44話 黒いワンピースと甘い香り、俺はまだ何も知らない
二〇二一年一月二十九日、金曜日。
午後五時を過ぎたころから、大野健太は時計を気にし始めていた。
仕事が終わるまで、あと少し。
たったそれだけの時間が、妙に長く感じられる。
今日の相手は、ゆみ。
木村亮の知り合いで、明るくて、よく笑い、少し派手な雰囲気の女性だ。
年齢は二十代後半。
健太より年下で、恋愛経験も自分より豊富に違いない。そう考えると、楽しみな気持ちの裏側に、情けないほどの不安が湧いてくる。
「大野さん、今日なんか落ち着かないっすね」
同僚の佐伯誠に声をかけられ、健太は慌てて時計から目を離した。
「そうか?」
「さっきから時間ばっかり見てますよ」
「いや、ちょっと用事があってな」
「デートですか?」
「ち、違う。飯を食べるだけや」
即座に否定してから、健太は自分の言葉に引っかかった。
ゆみとは二人で会う。
金曜日の夜に、男女が二人で食事をする。
世間一般では、デートと呼ばれることもあるだろう。
しかし、そう決めつけるのはまだ早い。
「……まあ、食事やな」
言い直す健太を見て、佐伯は意味ありげに笑った。
「楽しんできてくださいよ」
その言葉が、健太の背中を少しだけ押した。
*
午後六時半。
待ち合わせ場所は、大阪市内の駅前だった。
健太は約束の十五分前に到着していた。
寒い冬の夜。駅から吹き抜ける風が頬に当たる。
手袋をしてきたのは正解だった。
スマートフォンを見ると、ゆみからメッセージが届いていた。
『ごめん、ちょっとだけ遅れる! あと五分くらい!』
『大丈夫です。気をつけて来てください』
送信してから、健太は自分の文章を読み返した。
堅すぎるだろうか。
もっと気軽に返すべきだったのか。
考え始めたところで、背後から声がした。
「お待たせー!」
振り返る。
そこにいたゆみは、黒いワンピースにベージュのコートを合わせていた。
普段の明るい印象はそのままだが、仕事帰りに見たときとは少し違う。耳元には小さなアクセサリーが光り、整えられた髪が肩に流れている。
近づいてきた瞬間、以前の飲み会で感じた甘い香水の香りがした。
「ごめんね。待った?」
「いや、全然。俺も今来たところ」
嘘だった。
十五分前から待っていた。
しかし、そんなことを正直に伝える必要もない。
「よかった。寒かったでしょ?」
「まあ、ちょっと。でも大丈夫」
「じゃ、行こ!」
ゆみは笑って歩き始めた。
健太は、その隣に並ぶ。
それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
肩が触れそうで、触れない距離。
歩くたびに、彼女のコートの裾が揺れる。
健太は何度も話しかけるタイミングを探したが、結局、店に着くまで天気や仕事の話ばかりしていた。
それでも、ゆみは楽しそうに相づちを打ってくれた。
健太はその笑顔を見るたび、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
*
店は、駅から少し離れた落ち着いた居酒屋だった。
照明は明るすぎず、テーブルの間隔もほどよく空いている。
「いいお店だね。大野さん、こういうところ詳しいんだ?」
「いや、ネットで調べただけ」
「そうなんだ。選んでくれてありがとう」
ゆみはメニューを開き、楽しそうに料理を選び始めた。
健太は、少し安心した。
店選びを失敗したわけではなさそうだ。
注文を済ませると、ゆみは頬杖をつきながら健太を見た。
「そういえば、大野さんって、普段どんなことしてるの?」
「仕事以外?」
「うん。野球やってるんでしょ?」
「草野球な。高校のときも野球部やったけど、レギュラーではなかったよ」
「へえ。じゃあ、野球が好きなんだ」
「まあな。ずっと続けてるから」
健太は、自分の話をした。
高校時代の厳しい練習。控え選手として過ごした日々。今でも仲間と集まり、草野球を続けていること。
いつもなら、野球の話になると止まらなくなる。
しかし今日は、途中で言葉を切った。
「……ごめん。俺ばっかり話してるな」
「え? 別にいいよ。面白いし」
「そうか?」
「うん。好きなことを話してるときって、その人のことが分かるじゃん」
ゆみはグラスを持ち上げた。
「私も、好きなことの話なら結構しゃべるよ」
「何が好きなん?」
「ドライブ。あと、買い物とか、友達と飲みに行くこと。休みの日に予定がないと、なんかもったいなく感じるんだよね」
「家でゆっくりするのは?」
「それも好き。でも、誰かと遊ぶのも好き!」
ゆみは屈託なく笑った。
健太は、彼女の話を聞きながら思った。
自分とは違う。
健太は、休みの日に一人で過ごすことが多かった。
野球の予定がなければ、家でテレビを見たり、ネットを眺めたりして終わることもある。
誰かと出かける予定があるだけで、毎日がこんなにも楽しみになるとは思わなかった。
「大野さんは?」
「俺は……そうやな。野球以外やと、最近は何か新しいことを始めたいと思ってる」
「いいじゃん。何するの?」
「それを考えてるところ」
「まだ決まってないんだ!」
ゆみが笑い、健太もつられて笑った。
不思議だった。
女性と二人で食事をしているのに、今のところ、会話はちゃんと続いている。
無理に格好をつけなくても、話を盛らなくても、彼女は笑ってくれる。
健太は、少しだけ自分に自信を持てそうな気がした。
*
料理が運ばれてくるころには、二人の会話も弾んでいた。
ゆみは仕事で経験した失敗談を話し、健太は工場で起きた思わぬトラブルの話をした。
笑い声が何度も重なる。
ふと、ゆみが身を乗り出した。
「ねえ、大野さんって、彼女いないんだよね?」
健太の箸が止まった。
「……うん」
「今まで付き合ったことは?」
「ない」
「えっ、ほんと?」
驚いた表情。
健太は、顔が熱くなるのを感じた。
「そんなに珍しいか?」
「いや、珍しいっていうか。大野さん、普通に話しやすいし、優しいじゃん」
その言葉に、健太の胸が跳ねた。
優しい。
話しやすい。
以前にも、女性から言われたことがある言葉だった。
だが、それだけで恋愛感情があるとは限らない。
健太は、自分にそう言い聞かせた。
「ありがとう。でも、恋愛は全然うまくいかなくてな」
「そっかあ」
ゆみは少し考え、それから言った。
「でもさ、彼女が欲しいなら、もっといろんな人と会ってみたらいいんじゃない?」
「いろんな人?」
「うん。最初から一人に決めるんじゃなくてさ。話してみて、気が合う人がいたら、また会えばいいし」
健太は、黙ってうなずいた。
その言葉は、今の自分に必要なものかもしれない。
自分はいつも、女性と知り合うと、すぐにその人との未来を想像してしまう。
まだ何も始まっていないのに、相手の気持ちを確かめる前に、頭の中で関係を進めてしまう。
ゆみとだって、今日が初めての二人きりの食事だ。
彼女が自分をどう思っているのか、まだ分からない。
「……そうやな。ありがとう」
「どういたしまして!」
ゆみは、何気なく笑った。
その笑顔を見ながら、健太は心の中でつぶやいた。
――でも、できれば、その相手が君だったらいいのに。
口には出さなかった。
今の自分には、その言葉を伝えるだけの確かな関係がないと分かっていたからだ。
*
食事を終え、店を出たのは午後九時を少し回ったころだった。
夜の空気は冷たかったが、店の中で温まった体には心地よく感じられた。
「今日はありがとう。楽しかった!」
ゆみが言った。
「俺も楽しかったよ」
「また飲もうね」
その言葉に、健太は一瞬だけ迷った。
ここで、次の約束を聞いてもいいのだろうか。
焦っていると思われないか。
断られたら、今日の楽しかった時間まで気まずくならないだろうか。
迷った末に、健太は言った。
「うん。また都合が合えば」
「うん! じゃあ、気をつけて帰ってね」
ゆみは手を振り、駅の改札へ向かっていった。
健太は、その後ろ姿を見送った。
追いかけたい気持ちはあった。
もう少し話したい。
次はいつ会えるのか、聞きたい。
けれど、彼は動かなかった。
相手の帰りたい気持ちを、自分の寂しさで引き止めたくなかった。
それが正しい選択だったのか、健太には分からない。
ただ、今日の自分は、以前より少しだけ相手のことを考えられた気がした。
帰りの電車の中で、スマートフォンが震えた。
ゆみからだった。
『今日はありがと! またみんなでも飲もうねー!』
健太は画面を見つめた。
最後の一言が、胸に引っかかった。
また、みんなでも。
二人きりで会うのは嫌ではなかったのだろう。
けれど、彼女が望んでいるのは、気軽に付き合える知人としての関係なのかもしれない。
健太は返信した。
『こちらこそありがとう。また行こう』
送信してから、窓の外へ目を向けた。
街の明かりが流れていく。
今日、ゆみと過ごした時間は楽しかった。
彼女は優しく、よく笑い、健太の話を聞いてくれた。
だからこそ、もう一度会いたいと思った。
その気持ちまで否定する必要はない。
ただし、相手も同じ気持ちだと決めつけてはいけない。
健太は、スマートフォンのメモに一行だけ書いた。
『一緒にいて楽しいことと、恋人になりたいことは、同じではない』
画面を閉じる。
彼はまだ知らなかった。
ゆみとの関係が、これから少しずつ変わっていくことも。
そして、その変化を自分に都合よく解釈したくなる瞬間が、何度も訪れることも。
健太の恋愛は、まだ始まっていなかった。
少なくとも、彼が望む形では。




