↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第3章 ギャル運転手と勘違い男

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/77

第44話 黒いワンピースと甘い香り、俺はまだ何も知らない

 二〇二一年一月二十九日、金曜日。


 午後五時を過ぎたころから、大野健太は時計を気にし始めていた。


 仕事が終わるまで、あと少し。


 たったそれだけの時間が、妙に長く感じられる。


 今日の相手は、ゆみ。


 木村亮の知り合いで、明るくて、よく笑い、少し派手な雰囲気の女性だ。


 年齢は二十代後半。


 健太より年下で、恋愛経験も自分より豊富に違いない。そう考えると、楽しみな気持ちの裏側に、情けないほどの不安が湧いてくる。


「大野さん、今日なんか落ち着かないっすね」


 同僚の佐伯誠に声をかけられ、健太は慌てて時計から目を離した。


「そうか?」


「さっきから時間ばっかり見てますよ」


「いや、ちょっと用事があってな」


「デートですか?」


「ち、違う。飯を食べるだけや」


 即座に否定してから、健太は自分の言葉に引っかかった。


 ゆみとは二人で会う。


 金曜日の夜に、男女が二人で食事をする。


 世間一般では、デートと呼ばれることもあるだろう。


 しかし、そう決めつけるのはまだ早い。


「……まあ、食事やな」


 言い直す健太を見て、佐伯は意味ありげに笑った。


「楽しんできてくださいよ」


 その言葉が、健太の背中を少しだけ押した。


     *


 午後六時半。


 待ち合わせ場所は、大阪市内の駅前だった。


 健太は約束の十五分前に到着していた。


 寒い冬の夜。駅から吹き抜ける風が頬に当たる。


 手袋をしてきたのは正解だった。


 スマートフォンを見ると、ゆみからメッセージが届いていた。


『ごめん、ちょっとだけ遅れる! あと五分くらい!』


『大丈夫です。気をつけて来てください』


 送信してから、健太は自分の文章を読み返した。


 堅すぎるだろうか。


 もっと気軽に返すべきだったのか。


 考え始めたところで、背後から声がした。


「お待たせー!」


 振り返る。


 そこにいたゆみは、黒いワンピースにベージュのコートを合わせていた。


 普段の明るい印象はそのままだが、仕事帰りに見たときとは少し違う。耳元には小さなアクセサリーが光り、整えられた髪が肩に流れている。


 近づいてきた瞬間、以前の飲み会で感じた甘い香水の香りがした。


「ごめんね。待った?」


「いや、全然。俺も今来たところ」


 嘘だった。


 十五分前から待っていた。


 しかし、そんなことを正直に伝える必要もない。


「よかった。寒かったでしょ?」


「まあ、ちょっと。でも大丈夫」


「じゃ、行こ!」


 ゆみは笑って歩き始めた。


 健太は、その隣に並ぶ。


 それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かなかった。


 肩が触れそうで、触れない距離。


 歩くたびに、彼女のコートの裾が揺れる。


 健太は何度も話しかけるタイミングを探したが、結局、店に着くまで天気や仕事の話ばかりしていた。


 それでも、ゆみは楽しそうに相づちを打ってくれた。


 健太はその笑顔を見るたび、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。


     *


 店は、駅から少し離れた落ち着いた居酒屋だった。


 照明は明るすぎず、テーブルの間隔もほどよく空いている。


「いいお店だね。大野さん、こういうところ詳しいんだ?」


「いや、ネットで調べただけ」


「そうなんだ。選んでくれてありがとう」


 ゆみはメニューを開き、楽しそうに料理を選び始めた。


 健太は、少し安心した。


 店選びを失敗したわけではなさそうだ。


 注文を済ませると、ゆみは頬杖をつきながら健太を見た。


「そういえば、大野さんって、普段どんなことしてるの?」


「仕事以外?」


「うん。野球やってるんでしょ?」


「草野球な。高校のときも野球部やったけど、レギュラーではなかったよ」


「へえ。じゃあ、野球が好きなんだ」


「まあな。ずっと続けてるから」


 健太は、自分の話をした。


 高校時代の厳しい練習。控え選手として過ごした日々。今でも仲間と集まり、草野球を続けていること。


 いつもなら、野球の話になると止まらなくなる。


 しかし今日は、途中で言葉を切った。


「……ごめん。俺ばっかり話してるな」


「え? 別にいいよ。面白いし」


「そうか?」


「うん。好きなことを話してるときって、その人のことが分かるじゃん」


 ゆみはグラスを持ち上げた。


「私も、好きなことの話なら結構しゃべるよ」


「何が好きなん?」


「ドライブ。あと、買い物とか、友達と飲みに行くこと。休みの日に予定がないと、なんかもったいなく感じるんだよね」


「家でゆっくりするのは?」


「それも好き。でも、誰かと遊ぶのも好き!」


 ゆみは屈託なく笑った。


 健太は、彼女の話を聞きながら思った。


 自分とは違う。


 健太は、休みの日に一人で過ごすことが多かった。


 野球の予定がなければ、家でテレビを見たり、ネットを眺めたりして終わることもある。


 誰かと出かける予定があるだけで、毎日がこんなにも楽しみになるとは思わなかった。


「大野さんは?」


「俺は……そうやな。野球以外やと、最近は何か新しいことを始めたいと思ってる」


「いいじゃん。何するの?」


「それを考えてるところ」


「まだ決まってないんだ!」


 ゆみが笑い、健太もつられて笑った。


 不思議だった。


 女性と二人で食事をしているのに、今のところ、会話はちゃんと続いている。


 無理に格好をつけなくても、話を盛らなくても、彼女は笑ってくれる。


 健太は、少しだけ自分に自信を持てそうな気がした。


     *


 料理が運ばれてくるころには、二人の会話も弾んでいた。


 ゆみは仕事で経験した失敗談を話し、健太は工場で起きた思わぬトラブルの話をした。


 笑い声が何度も重なる。


 ふと、ゆみが身を乗り出した。


「ねえ、大野さんって、彼女いないんだよね?」


 健太の箸が止まった。


「……うん」


「今まで付き合ったことは?」


「ない」


「えっ、ほんと?」


 驚いた表情。


 健太は、顔が熱くなるのを感じた。


「そんなに珍しいか?」


「いや、珍しいっていうか。大野さん、普通に話しやすいし、優しいじゃん」


 その言葉に、健太の胸が跳ねた。


 優しい。


 話しやすい。


 以前にも、女性から言われたことがある言葉だった。


 だが、それだけで恋愛感情があるとは限らない。


 健太は、自分にそう言い聞かせた。


「ありがとう。でも、恋愛は全然うまくいかなくてな」


「そっかあ」


 ゆみは少し考え、それから言った。


「でもさ、彼女が欲しいなら、もっといろんな人と会ってみたらいいんじゃない?」


「いろんな人?」


「うん。最初から一人に決めるんじゃなくてさ。話してみて、気が合う人がいたら、また会えばいいし」


 健太は、黙ってうなずいた。


 その言葉は、今の自分に必要なものかもしれない。


 自分はいつも、女性と知り合うと、すぐにその人との未来を想像してしまう。


 まだ何も始まっていないのに、相手の気持ちを確かめる前に、頭の中で関係を進めてしまう。


 ゆみとだって、今日が初めての二人きりの食事だ。


 彼女が自分をどう思っているのか、まだ分からない。


「……そうやな。ありがとう」


「どういたしまして!」


 ゆみは、何気なく笑った。


 その笑顔を見ながら、健太は心の中でつぶやいた。


 ――でも、できれば、その相手が君だったらいいのに。


 口には出さなかった。


 今の自分には、その言葉を伝えるだけの確かな関係がないと分かっていたからだ。


     *


 食事を終え、店を出たのは午後九時を少し回ったころだった。


 夜の空気は冷たかったが、店の中で温まった体には心地よく感じられた。


「今日はありがとう。楽しかった!」


 ゆみが言った。


「俺も楽しかったよ」


「また飲もうね」


 その言葉に、健太は一瞬だけ迷った。


 ここで、次の約束を聞いてもいいのだろうか。


 焦っていると思われないか。


 断られたら、今日の楽しかった時間まで気まずくならないだろうか。


 迷った末に、健太は言った。


「うん。また都合が合えば」


「うん! じゃあ、気をつけて帰ってね」


 ゆみは手を振り、駅の改札へ向かっていった。


 健太は、その後ろ姿を見送った。


 追いかけたい気持ちはあった。


 もう少し話したい。


 次はいつ会えるのか、聞きたい。


 けれど、彼は動かなかった。


 相手の帰りたい気持ちを、自分の寂しさで引き止めたくなかった。


 それが正しい選択だったのか、健太には分からない。


 ただ、今日の自分は、以前より少しだけ相手のことを考えられた気がした。


 帰りの電車の中で、スマートフォンが震えた。


 ゆみからだった。


『今日はありがと! またみんなでも飲もうねー!』


 健太は画面を見つめた。


 最後の一言が、胸に引っかかった。


 また、みんなでも。


 二人きりで会うのは嫌ではなかったのだろう。


 けれど、彼女が望んでいるのは、気軽に付き合える知人としての関係なのかもしれない。


 健太は返信した。


『こちらこそありがとう。また行こう』


 送信してから、窓の外へ目を向けた。


 街の明かりが流れていく。


 今日、ゆみと過ごした時間は楽しかった。


 彼女は優しく、よく笑い、健太の話を聞いてくれた。


 だからこそ、もう一度会いたいと思った。


 その気持ちまで否定する必要はない。


 ただし、相手も同じ気持ちだと決めつけてはいけない。


 健太は、スマートフォンのメモに一行だけ書いた。


『一緒にいて楽しいことと、恋人になりたいことは、同じではない』


 画面を閉じる。


 彼はまだ知らなかった。


 ゆみとの関係が、これから少しずつ変わっていくことも。


 そして、その変化を自分に都合よく解釈したくなる瞬間が、何度も訪れることも。


 健太の恋愛は、まだ始まっていなかった。


 少なくとも、彼が望む形では。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。