第43話 通知ひとつで、俺の週末は彼女色に染まった
二〇二一年一月二十三日、土曜日。
大野健太は、昼休みにスマートフォンを何度も確認していた。
理由は単純だった。
ゆみからの連絡を待っている。
先週の飲み会で、彼女は確かに言ったのだ。
『今度さ、二人で飲もうよ』
その言葉を思い出すたび、健太の胸は落ち着かなくなった。
ただし、肝心なことが一つある。
まだ、連絡先を交換していない。
「……何やってんだ、俺」
自分で自分に呆れながら、健太はスマートフォンをポケットにしまった。
ゆみと知り合うきっかけを作ってくれた木村亮に相談すれば、連絡先くらい教えてもらえるかもしれない。
しかし、それでは順番が違う気がした。
本人の許可なく連絡先を聞くのは違う。そもそも、ゆみが自分と二人で飲みたいと思っているのなら、また会ったときに自然に交換できるはずだ。
そう考えた直後、健太は別の可能性に気づいた。
――向こうも、俺から連絡が来るのを待っているんじゃないか?
「いやいや、待て待て」
自分で考えて、自分で否定する。
最近の健太は、こうした一人相撲が少しだけ増えていた。
その日の午後、工場で部品の検品をしていると、木村が隣にやってきた。
「大野さん、昨日ゆみから連絡あってさ」
「えっ?」
健太の手が止まった。
「この前の飲み会、楽しかったって。またみんなで集まりたいらしいよ」
「……みんなで?」
「うん。あいつ、飲み会好きだから」
健太は、胸の奥で膨らみかけた期待が、しぼんでいくのを感じた。
だが、木村は続けた。
「そういや大野さん、ゆみと二人で飲む約束したんだっけ?」
「いや、約束っていうか……向こうが、二人で飲もうって」
「ああ、言ってたな。あいつ、話しやすい相手には結構そういうこと言うよ」
木村は悪気なく笑った。
「変な意味じゃなくてさ。大野さん、あんまり深く考えないほうがいいよ」
「……そうだな」
健太は笑って返した。
けれど、その言葉は、思った以上に胸に残った。
話しやすい相手。
それは悪い意味ではない。
むしろ、以前の自分なら、女性からそんなふうに思われることすら想像できなかった。
しかし、健太が欲しいのは、誰にでも向けられる親しさではなかった。
自分だけに向けられる特別な感情。
そう考えた瞬間、健太はノートに書いた言葉を思い出した。
『親切と好意を混同しない』
分かっている。
分かっているのに、心は理屈どおりには動いてくれなかった。
*
月曜日の夜、健太のスマートフォンに木村からメッセージが届いた。
『ゆみが大野さんとも連絡先交換したいって。本人に聞いたらOKだったから、グループの連絡先送るね』
画面を見た健太は、思わず息を止めた。
「……マジか」
連絡先を交換できる。
たったそれだけのことなのに、部屋の空気まで変わったような気がした。
数分後、ゆみからメッセージが届いた。
『こんばんは、ゆみです! この前はありがとね。また飲もうねー!』
最後には、笑顔の絵文字がついていた。
健太は返信を打ち、消し、また打った。
『こんばんは。この前は楽しかったです。またぜひお願いします』
無難すぎる。
しかし、いきなり馴れ馴れしくするのも違う。
結局、健太はその文章を送信した。
すぐに既読がついた。
『こちらこそ! 今度はゆっくり話そうね』
たった二行。
それだけで、健太の頭の中には、まだ決まってもいない週末の光景が広がり始めた。
二人で居酒屋に行く。
向かい合って座るのか、それともカウンターなのか。
ゆみは何を着てくるのだろう。
あの甘い香水を、また近くで感じることになるのだろうか。
そんな想像をしている自分に気づき、健太は慌ててスマートフォンを伏せた。
「落ち着け。まだ何も始まってない」
そう言い聞かせても、口元は緩んでいた。
*
翌日、健太は思い切ってメッセージを送った。
『もし都合がよければ、今度二人で飲みに行きませんか?』
送信した途端、心臓が強く脈打った。
断られたらどうしよう。
忙しいと言われたら。
既読だけついて、返事が来なかったら。
仕事中でもないのに、健太は何度もスマートフォンを手に取った。
約二十分後、返信が来た。
『いいよー! 来週なら金曜の夜、空いてるよ』
「よっしゃ……!」
思わず声が出た。
健太はすぐに口を押さえ、誰もいない部屋を見回した。
誰もいない。
それでも恥ずかしかった。
さらにメッセージが届いた。
『お店は大野さんに任せてもいい? 私、あんまり詳しくないんだよね』
健太は勢いよく検索を始めた。
落ち着いて話せる店。駅から近い店。騒がしすぎない店。料理がおいしく、値段も高すぎない店。
気づけば候補を十軒も調べていた。
その中から三軒に絞り、ゆみに送る。
『このあたりはどうですか?』
『どこでも大丈夫! 選んでくれてありがとー!』
健太は、その返事を何度も読み返した。
彼女は自分に店選びを任せてくれた。
自分の選択を受け入れてくれた。
それが、なぜだかとても嬉しかった。
しかし、まだ知らないことがある。
ゆみが今回の食事を、どんな気持ちで楽しみにしているのか。
恋愛の可能性を考えているのか。
それとも、気の合う知人と飲みに行く、それだけのことなのか。
健太には分からない。
そして、ゆみ自身も、まだ健太を恋愛対象として意識しているわけではなかった。
彼女にとって健太は、少し不器用だが、真面目で話を聞いてくれる男性だった。
普段の生活では、気を遣う相手や仕事の付き合いが多い。
だからこそ、気楽に飲めそうな相手と、ゆっくり話してみたいと思ったのだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
*
金曜日まで、あと三日。
健太は久しぶりに鏡の前で髪を整え、クローゼットから服を引っ張り出した。
高価な服はない。
だが、清潔感くらいは意識したかった。
新しい香水を買うべきかとも考えたが、ゆみの香水が印象的だったからといって、自分まで香りを強くする必要はない。
そう思い直し、結局いつもの身だしなみを整えることにした。
スマートフォンには、金曜日の待ち合わせ場所と時間が記録されている。
予定は決まった。
二人で会うことも決まった。
それでも、恋人になれるかどうかは何一つ決まっていない。
健太はノートを開き、今日の出来事を書き込んだ。
『ゆみと二人で飲みに行くことになった。嬉しい。期待もしている。でも、相手の気持ちはまだ分からない。決めつけず、ちゃんと話を聞く』
そこまで書いて、ペンが止まった。
その下に、小さく付け足す。
『できれば、俺のことを男として見ていてほしい』
健太は、その一文を消さなかった。
期待することまで、悪いわけではない。
問題は、その期待を相手に押しつけることだ。
そう理解し始めた彼は、ノートを閉じた。
金曜日の夜。
ゆみと向かい合ったとき、自分はどんな顔をするのだろう。
彼女が笑ってくれたら。
目を合わせてくれたら。
少しでも近づいてきたら。
また、都合よく意味を考えてしまうのだろうか。
健太には、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、彼にとってこの約束が、ただの食事ではなくなり始めていることだった。




