第42話 「二人で飲もうよ」の一言に、俺は終電を忘れた
2021年1月16日、土曜日。
健太は、仕事帰りの電車でスマートフォンを眺めていた。
ゆみと会った日から、六日が経っていた。
あれから、特に連絡はない。
木村からも、ゆみからも。
当然だ。連絡先を交換したわけでもなければ、個人的な約束をしたわけでもない。
それなのに、健太は一日に何度も、スマートフォンを確認してしまう。
「……何を待ってんねん、俺は」
画面を消した、その直後だった。
木村からメッセージが届いた。
『今日、ゆみちゃんと何人かで飲みに行くねんけど、健太も来る?』
健太は、思わず画面を二度見した。
ゆみ。
飲み会。
参加できる。
返信欄に指を置いたまま、数秒間、動けなかった。
『行くわ』
そう送ってから、健太は慌てて文章を見直した。
即答しすぎたかもしれない。
しかし、もう送信してしまったものは仕方がない。
数分後、木村から店の場所と集合時間が届いた。
午後七時半。
大阪市内の駅近くにある、少しおしゃれな居酒屋だった。
*
午後七時二十分。
健太は店の前に到着した。
黒いジャケットに、濃紺のシャツ。
いつもより少しだけ丁寧に髪を整え、鏡で確認してきた。
店の窓からは、暖色の照明が漏れている。
ガラス越しに見えるカウンターには、グラスを傾ける客たちの姿があった。
健太は深呼吸した。
今日は複数人での食事だ。
ゆみと二人きりになるわけではない。
期待しすぎるな。
そう自分に言い聞かせ、扉を開けた。
「おー、健太! こっち!」
木村が手を振っていた。
その隣に、ゆみがいた。
「大野さん、こんばんは!」
彼女は肩までの髪を下ろし、黒いトップスに明るい色のスカートを合わせていた。
耳元のピアスが照明を受けて小さく光る。
昼間の運転中とは違い、仕事を終えた彼女の表情には、少しだけ気の緩んだ雰囲気があった。
「こんばんは。今日はよろしくお願いします」
「そんなかしこまらんでええって。こっち座り!」
ゆみが向かい側の席を指さした。
健太は、心の中で小さくガッツポーズをした。
彼女が自分を見つけて笑ってくれた。
それだけで、来てよかったと思った。
*
集まったのは、健太と木村、ゆみ、それに木村の知人二人を加えた五人だった。
仕事の話や最近の出来事で盛り上がり、テーブルには料理が次々と並んだ。
ゆみは、相変わらずよく笑った。
「それ、めっちゃ分かる!」
「いや、ほんまに?」
「ほんまほんま!」
話を聞きながら、相手の肩を軽く叩く。
冗談を言って、顔を見合わせて笑う。
彼女にとっては自然な振る舞いなのだろう。
しかし、健太はその一つ一つに反応してしまう。
自分が話すとき、ゆみは目を合わせてくれる。
質問をすると、楽しそうに答えてくれる。
ときどき、こちらに身を乗り出して話すこともあった。
テーブルの上のグラスに水滴が流れ、照明がゆらゆらと反射する。
ふわりと香水が漂う。
距離が近くなった瞬間、健太は何を話していたのか分からなくなった。
「大野さん?」
「えっ、はい!」
「今、聞いてた?」
「あ、聞いてました!」
「絶対うそやん!」
ゆみが笑い、周囲もつられて笑った。
健太の顔が熱くなる。
恥ずかしい。
それでも、彼女にからかわれたことが、妙にうれしかった。
自分だけに向けられた言葉ではない。
分かっている。
分かっているのに、心は勝手に意味を探してしまう。
*
午後九時を回ったころ、木村たちが仕事の話で盛り上がっている間、ゆみが健太に顔を向けた。
「大野さんって、休みの日は何してるん?」
「野球ですね。草野球のチームに入ってるんです」
「へえ、野球! ポジションは?」
「三塁です」
「かっこええやん。私、野球は詳しくないけど、球技できる人ってすごいと思うわ」
「いや、そんな……」
「また謙遜してる!」
ゆみは笑いながら、グラスを口元に運んだ。
健太は、その仕草を見ていた。
唇がグラスに触れる。
飲み終えて、彼女が小さく息をつく。
ただそれだけの光景なのに、普段の職場や家では意識することのない、妙に大人びた空気を感じた。
自分は今、女性と食事をしている。
しかも、以前から気になっていた女性と。
その事実だけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
「なあ、大野さん」
「はい?」
「今度さ、二人で飲もうよ」
健太の思考が止まった。
周囲の話し声が、一瞬だけ遠くに聞こえた気がした。
「……え?」
「今日、あんまりゆっくり話せてへんやん。仕事の話とか、野球の話とか、もっと聞きたいし」
ゆみは、いつもの明るい調子で続けた。
「今度、予定合うときに行こうや!」
健太の心臓が、激しく打ち始めた。
二人で。
飲もう。
もっと話したい。
その三つの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
これは、さすがに。
いや、待て。
健太は、これまでの教訓を思い出した。
親切と好意を混同しない。
相手の言葉を勝手に解釈しない。
断られることを恐れて、先走らない。
だが、今回はどうだろう。
女性の方から、二人で飲もうと誘ってくれたのだ。
少なくとも、自分と二人で過ごすことを嫌がってはいない。
それなら、喜んでもいいのではないか。
「……ぜひ。行きたいです」
健太は、できるだけ自然に答えた。
「よっしゃ! じゃあ、また連絡するわ」
ゆみは笑顔でグラスを持ち上げた。
健太も慌てて自分のグラスを持ち上げた。
軽く音が鳴る。
その瞬間、健太は心の中で、次の試合のプレイボールを宣言していた。
*
午後十時半。
店を出るころには、外の空気が一段と冷たくなっていた。
「じゃあ、またね!」
ゆみは木村たちに手を振った。
健太にも笑顔を向ける。
「大野さん、今日はありがとう。また飲もうな!」
「はい。ありがとうございました!」
ゆみは駅の反対側へ歩いていった。
健太は、その後ろ姿を目で追いかけた。
追いかけて、何かを言いたくなった。
次はいつですか。
連絡先を交換しませんか。
また会いたいです。
いくつもの言葉が喉元まで出かかった。
しかし、彼は何も言わなかった。
今日、彼女から誘ってくれた。
ならば、焦る必要はない。
そう考えて、木村と駅へ向かった。
「健太、今日はどうやった?」
木村が尋ねた。
「楽しかったわ」
「やろ? ゆみちゃん、ああいう感じやから、誰とでもすぐ仲良くなるねん」
健太の足が、一瞬だけ止まりそうになった。
「……誰とでも?」
「せやで。ノリええし、話しやすいやろ」
「まあ、そうやな」
「今度、みんなでまた集まろうや」
木村は何気なく言った。
健太はうなずいた。
ゆみは、誰とでも仲良くなる。
その言葉は、彼の期待に小さな影を落とした。
だが、二人で飲もうと誘われたことまで、なかったことにはならない。
少なくとも、彼女は自分と話すことを楽しんでくれた。
それは事実だ。
健太は、その事実だけを胸に残すことにした。
*
帰宅したのは、午後十一時を過ぎてからだった。
部屋に入り、上着を脱ぐ。
スマートフォンを机に置いたが、すぐにまた手に取った。
ゆみからの連絡先は、まだ知らない。
次の約束も、日時は決まっていない。
それでも、健太は笑みを浮かべていた。
久しぶりに、女性から二人きりの食事に誘われた。
それだけで、明日からの景色が少し違って見えた。
彼はノートを開いた。
『恋愛活動の記録』
そこに、今日の出来事を書き込もうとした。
しかし、ペンが止まった。
これは、恋愛が進展したと言えるのだろうか。
ただの友人として誘われただけかもしれない。
まだ、相手の気持ちは分からない。
健太は、しばらく考えたあと、こう書いた。
『ゆみさんから、二人で飲もうと誘われた。うれしかった。だが、まだ決めつけない』
そして、最後に小さく付け足した。
『次に会ったとき、もっと彼女のことを知りたい』
その言葉は、今までより少しだけ健全だった。
相手を自分の恋人にする方法ではなく、相手を知りたいという気持ち。
それは確かな前進だった。
ただし、健太はまだ気づいていなかった。
人は、誰かと二人で飲みたいと思うことがある。
気が合うから。
話しやすいから。
友人として仲良くなりたいから。
そして、その理由が恋愛感情であるとは限らない。
ゆみが次の夜を楽しみにしているとしても、健太が思い描く夜と同じとは限らないのだ。
彼は、まだ知らない。
次の夜、どれほど香水の香りに胸を騒がせても。
どれほど近い距離で笑い合っても。
どれほど終電の時刻を意識しても。
その夜が恋愛の始まりになる保証など、どこにもないことを。




