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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第3章 ギャル運転手と勘違い男

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第41話 甘い香水と助手席、俺だけが始まりを予感した

 2021年1月10日、日曜日。


 大野健太は、朝からクローゼットの前で悩んでいた。


 黒のジャケットにするか、グレーのコートにするか。


 白いシャツは少し大人っぽすぎるだろうか。


 鏡の前で髪を整え、口元を確認する。


 今日は、知人から紹介された女性と会うわけではない。


 マッチングアプリで知り合ったわけでもない。


 それでも、健太にとっては久しぶりに胸が騒ぐ予定があった。


 自動車部品工場の同僚、木村亮から、前日に連絡があったのだ。


『知り合いの女性が、車で近くまで行くらしいねん。健太、駅まで乗せてもらったら? 俺から話はしとくわ』


 それだけの話だった。


 女性の名前は、ゆみ。


 二十代後半で、運転の仕事をしているらしい。明るく、初対面の相手とも気軽に話せるタイプだという。


 健太は、最初は断ろうと思った。


 女性の車に乗る。


 それだけで何かを期待するのは、さすがにおかしい。


 だが、木村から「気さくな人やから、気楽に話したらええねん」と言われ、結局、駅近くで拾ってもらう約束をした。


 ただの送迎。


 そう自分に言い聞かせながら、健太は香水の小瓶を手に取った。


 以前、ネットの記事で、香水はつけすぎると逆効果だと読んだ。


 手首に一度だけ。


 いや、車内では匂いがこもるかもしれない。


 結局、香水はつけずにポケットへ戻した。


「……何を期待してんねん、俺は」


 自分にツッコミを入れ、家を出た。


     *


 駅前に着いて五分ほどすると、一台の白い車がゆっくり近づいてきた。


 助手席の窓が下がる。


「大野さん?」


 明るい声が響いた。


 運転席には、長い髪をゆるく巻いた女性が座っていた。


 ベージュのコートに、首元の開いたニット。耳元では小さなピアスが揺れている。


 派手すぎないメイクなのに、目元が印象的だった。


「はい。ゆみさんですか?」


「そうそう! 木村さんから聞いてるよ。乗って、乗って!」


 ゆみは笑いながら助手席のドアを開けるよう促した。


「ありがとうございます。今日はすみません」


「ええって。こっちも通り道やし」


 健太は助手席に乗り込んだ。


 ドアを閉めると、ほのかに甘い香水の香りがした。


 車内には、落ち着いた音量で洋楽が流れている。


 暖房の風が足元を温め、窓の外には冬の街並みが流れていった。


「大野さんって、木村さんと同じ工場なん?」


「はい。自動車部品を作る工場で働いてます」


「へえ、すごいな。私、機械とか全然分からへん」


「いや、そんな大したことでは……」


「えー、でも私、車のことは運転する以外よう分からんもん。整備とかできる人、尊敬するわ」


 ゆみは前を見ながら笑った。


 健太は、思わず背筋を伸ばした。


 尊敬。


 女性からそう言われると、悪い気はしない。


「まあ、仕事で覚えただけですよ」


「謙虚やん!」


 ゆみがこちらを見て、にっと笑う。


 ほんの一瞬、目が合った。


 健太は、なぜか喉が渇いた。


 車は信号で止まった。


「大野さん、彼女おるん?」


 突然の質問だった。


 健太の頭の中で、何かが弾けた。


「えっ?」


「いや、木村さんがさ、独身って言ってたから。彼女おるんかなって」


「ああ……いません」


「うそ、もったいな!」


 ゆみは大げさに目を見開いた。


「えっ、もったいないですか?」


「うん。普通に感じええやん。もっと自信持ったらええのに」


 健太は言葉を失った。


 普通に感じがいい。


 自信を持てばいい。


 その言葉が、胸の中で何度も繰り返される。


 信号が青に変わり、車が動き出した。


「でも、恋愛って難しいですよね」


 健太は、少し勇気を出して言った。


「そうなん?」


「相手がどう思ってるか、分からないじゃないですか」


「そらそうやろ。人の気持ちなんて、本人にしか分からんやん」


 ゆみはあっさり答えた。


「だから、話してみるしかないんちゃう?」


「話してみる……」


「そうそう。考えてるだけやったら、何も分からんし」


 健太はうなずいた。


 彼女の言葉は、これまで藤井や姉から聞いてきた話にも似ていた。


 けれど、ゆみの声で聞くと、なぜか違って感じられた。


 柔らかな声。


 車内に漂う香水。


 信号待ちで、ふとこちらに向けられる笑顔。


 健太の想像力は、勝手に膨らんでいった。


 もしかしたら、彼女は自分に興味があるのではないか。


 だから彼女の有無を聞いたのではないか。


 もしかしたら、木村が何か話してくれたのではないか。


 いや、待て。


 健太は頭の中でブレーキをかけた。


 質問されたからといって、好意があるとは限らない。


 彼女は、ただ会話のきっかけを作っただけかもしれない。


 それでも、助手席に座っている自分の心臓は、いつもより忙しく動いていた。


     *


 駅に着くまで、二人は仕事や食べ物の話をした。


 ゆみは話題が豊富だった。


 最近行ったカフェの話。


 運転中に困った出来事。


 休日に友達と買い物をした話。


 健太は相づちを打ちながら、できるだけ相手の話を聞こうとした。


「大野さん、ちゃんと聞いてくれるんやね」


「え?」


「いや、話しててもスマホばっかり見る人とかおるやん。そういう人、苦手やねん」


「それは失礼ですよね」


「ほんまに。せっかく話してるのにさ」


 ゆみは頬を膨らませたあと、すぐに笑った。


「大野さんは、そういうところちゃんとしてそう」


 また褒められた。


 健太は、窓の外を見ながら口元を緩めた。


 うれしい。


 単純に、うれしかった。


 女性と二人きりで車に乗り、会話を楽しみ、褒められる。


 それは、健太が長い間、夢見ていた状況だった。


 ただし、彼女が自分を恋愛対象として見ているかどうかは、まだ分からない。


 健太は、そこだけは忘れないようにした。


 車が駅前のロータリーに入る。


「ここで大丈夫です。ありがとうございました」


「はーい。気をつけてな!」


 ゆみは片手を軽く振った。


 健太がドアを閉めようとすると、彼女がもう一度声をかけた。


「あ、大野さん!」


「はい?」


「今度、木村さんも一緒に、みんなでご飯でも行こ!」


 健太は、動きを止めた。


 今度。


 ご飯。


 また会う。


 頭の中で、三つの言葉が結びつきそうになる。


「ぜひ。お願いします」


「じゃあ、またね!」


 車は軽快に走り去っていった。


 健太は、しばらくその場に立っていた。


 冬の風が吹きつける。


 頬が冷たい。


 それなのに、胸の奥は妙に熱かった。


     *


 その夜。


 健太は自室で、昼間の出来事を思い返していた。


 彼女は自分に彼女がいるか聞いた。


 もったいないと言った。


 感じがいいと褒めた。


 また食事に行こうと言った。


 どれも、単独で考えれば特別な意味はないのかもしれない。


 だが、いくつも重なると、何かのサインに思えてくる。


 健太はスマートフォンを手に取り、検索窓を開いた。


『女性 彼女いるか聞く 脈あり』


 検索結果には、さまざまな記事が並んだ。


 興味がある相手の恋人の有無を確認することがある。


 単なる雑談の場合もある。


 社交的な女性は、誰にでも気軽に質問する。


 答えは一つではなかった。


「……結局、分からんやん」


 健太はため息をついた。


 それでも、昼間の光景は頭から離れなかった。


 甘い香水。


 隣から聞こえる笑い声。


 信号待ちで一瞬だけ合った目。


 そして、「今度、みんなでご飯でも行こ」という言葉。


 健太は、ノートを開いた。


 そこには、以前書いた目標が残っていた。


『相手の言葉を勝手に解釈しない』


 彼は、その一文をじっと見つめた。


「まだ、何も始まってへん」


 自分に言い聞かせる。


 彼女は、みんなで食事に行こうと言った。


 二人きりで会おうとは言っていない。


 それでも、心のどこかでは期待していた。


 次に会ったら、もっと親しくなれるかもしれない。


 もっと話せば、自分を特別に思ってくれるかもしれない。


 そして、いつか。


 そんな想像が、頭の中で静かに膨らんでいく。


 健太はノートを閉じた。


 この日、彼は女性と車内で二人きりになり、香水の香りに胸を騒がせ、恋愛の始まりを予感した。


 だが、ゆみにとっては、知人を駅まで送っただけの一日だった。


 彼女が次に会うことを楽しみにしているとしても、それは友人たちとの食事かもしれない。


 健太は、まだ知らない。


 恋愛の試合は、彼が心の中でプレイボールを宣言しただけでは始まらないのだ。

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