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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第2章 2020年夏――恋愛作戦会議、開幕

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第40話 クリスマスの予約席、俺の名前はなかった

 十二月六日、日曜日。


 健太は、洗面所の鏡の前で襟元を整えていた。


 今日は地域ボランティアの活動日だった。


 クリスマスまで、あと十九日。


 先月、ドリーム・エース・ナインの仲間たちと決めた目標が、頭の中に残っていた。


 清潔感を意識する。


 相手の話を聞く。


 勝手に期待しない。


 断られたら、しつこくしない。


 どれも簡単そうで、実際には難しい。


「健太、朝ごはん食べていきや」


 母の美代子が、台所から声をかけた。


「あとで食べるわ」


「また出かけるん?」


「ボランティアや」


「ほんま、最近よう行くなあ」


 母は何か言いたそうだったが、それ以上は聞かなかった。


 健太は上着を羽織り、家を出た。


 冷たい風が頬に当たった。


 冬の空は澄んでいたが、街のあちこちにはクリスマスの飾りが増えていた。


 駅前の店には、二人掛けの席を予約するカップルの姿があった。


 健太は、その光景から目をそらした。


 自分だって、誰かとクリスマスを過ごしたい。


 その願いは、まだ消えていなかった。


     *


 集合場所に到着すると、真紀が参加者たちに挨拶をしていた。


「大野さん、おはようございます!」


「おはようございます」


「今日は寒いですね。手袋、持ってきました?」


「はい。ちゃんと持ってきました」


 健太はポケットから手袋を取り出した。


 真紀は安心したように笑った。


「よかった。風邪をひいたら大変ですからね」


 その言葉に、健太の胸が温かくなった。


 以前なら、ここで考え込んでいただろう。


 自分の体調を気遣ってくれた。


 もしかしたら、自分に好意があるのではないか。


 しかし今日は、すぐに別の考えを浮かべることができた。


 真紀は、ほかの参加者にも寒さを気遣う言葉をかけていた。


 彼女にとっては、仲間への自然な気遣いなのだろう。


「ありがとうございます。佐藤さんも、風邪に気をつけてくださいね」


「はい。ありがとうございます!」


 健太は、それ以上の意味を付け足さなかった。


 ほんの小さな変化だった。


 だが、自分の気持ちを少しだけ整理できたことが、うれしかった。


     *


 午前中の作業が終わり、参加者たちは休憩を取っていた。


 真紀は、近くにいた佐々木亮と話をしていた。


「クリスマス、もう予定決めました?」


 佐々木が尋ねた。


「まだですね。仕事もあるので、どうなるか分からないです」


「そうなんですね。僕は、友達と食事するかもしれません」


「楽しそうですね」


 何気ない会話だった。


 健太は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。


 クリスマス。


 その言葉が耳に入った瞬間、心臓が跳ねた。


 真紀には、クリスマスの予定があるのだろうか。


 誰かと過ごすのだろうか。


 恋人がいるのだろうか。


 知りたい気持ちはあった。


 しかし、聞く理由がない。


 健太は、自分の手袋を見つめた。


 相手の予定を知ったところで、自分がその相手になれるとは限らない。


 そもそも、真紀が誰と過ごすかは、彼女が決めることだ。


 頭では理解できていた。


 それでも、胸の奥には焦りが残っていた。


「大野さん、ちょっといいですか?」


 真紀に呼ばれ、健太は顔を上げた。


「はい?」


「こちらの備品、数を確認してもらえますか?」


「あ、分かりました」


 健太は備品の箱を開けた。


 軍手、袋、清掃用具。


 一つずつ数を確認し、真紀に報告した。


「ありがとうございます。助かりました」


「いえ」


 それだけのやり取りだった。


 だが、健太は仕事のように、目の前の作業に集中できた。


 相手の気持ちを探ろうとするのではなく、頼まれたことをきちんとする。


 それも、人との付き合い方の一つなのだろう。


     *


 午後二時。


 活動が終わり、参加者たちは片づけを始めた。


 健太が道具を倉庫に運んでいると、真紀が近づいてきた。


「大野さん、今日もありがとうございました」


「こちらこそ、お疲れさまでした」


「最近、よく参加してくださいますね」


「はい。来ると、いろんな人と話せますし」


「私もそう思います。普段の生活だけだと、どうしても同じ人とばかり話すことになりますから」


 真紀は、少し遠くを見ながら続けた。


「いろんな人の話を聞くと、自分が知らなかった考え方に出会えるんですよね」


「そうですね」


「大野さんとも、またいろいろお話しできたらうれしいです」


 健太の胸が、大きく跳ねた。


 また話したい。


 その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


 けれど、健太はすぐに思い直した。


 彼女はボランティアの仲間として、そう言ってくれたのかもしれない。


 恋愛感情があるとは限らない。


「ありがとうございます。僕も、またお話しできたらうれしいです」


 健太は、素直に答えた。


 真紀は笑顔でうなずいた。


 それ以上、何も起こらなかった。


 連絡先の交換もなかった。


 食事への誘いもなかった。


 ただ、二人は次の活動について確認し、それぞれ帰る準備をした。


 健太は、それでいいと思おうとした。


 焦らなくてもいい。


 自分の生活を整え、人と自然に話せるようになればいい。


 恋愛の結果だけが、すべてではない。


 それでも、駅へ向かう途中、彼は何度も振り返りそうになった。


 真紀と、もう少し話したかった。


 それが、正直な気持ちだった。


     *


 その夜、ドリーム・エース・ナインのグループチャットが動いた。


 田村から、年末の予定について連絡があった。


『十二月二十七日に今年最後の試合をやる。参加できる奴は返信してくれ』


 すぐに、仲間たちから返事が届いた。


『参加!』


『もちろん行くで!』


『今年最後やから、勝って終わろうや!』


 健太も返信した。


『参加します』


 続いて、森川から個別のメッセージが届いた。


『ゆかりさんと、クリスマス前に会うことになったわ』


 健太は画面を見つめた。


『ええやん。楽しんでこいよ』


 そう返信すると、森川からすぐに返事が来た。


『ありがとう。まだ付き合ってるわけちゃうけど、ちゃんと話してくるわ』


 健太は、その言葉を読んでうなずいた。


 森川は、少しずつ前に進んでいる。


 自分も、いつかは。


 そう考えたところで、健太はスマートフォンを置いた。


 今夜は、恋愛動画を見るのをやめようと思った。


 代わりに、明日の仕事の準備をして、少し早く寝ることにした。


 それも、自分の生活を変えるための一歩だ。


     *


 十二月二十四日。


 クリスマスイブの夜。


 健太は、仕事を終えて帰宅していた。


 街にはイルミネーションが輝き、駅前は多くの人でにぎわっていた。


 赤いリボンのついた紙袋を持つ女性。


 花束を抱えた男性。


 腕を組んで歩くカップル。


 健太は、混雑を避けるように歩道の端を歩いた。


 スマートフォンを取り出す。


 真紀からのメッセージはない。


 当然だった。


 クリスマスを一緒に過ごす約束など、していないのだから。


 健太は、ポケットにスマートフォンをしまった。


 帰宅すると、母が食卓に料理を並べていた。


「おかえり。今日はチキン買ってきたで」


「ありがとう」


「クリスマスやからな」


 テーブルには、チキンとサラダ、スープが並んでいた。


 健太は椅子に座った。


 家族と過ごすクリスマス。


 決して悪いものではない。


 母の料理はおいしかったし、父の正一もテレビを見ながら機嫌よく食事をしていた。


 それでも、心のどこかで思ってしまった。


 来年こそは、誰かと過ごせるだろうか。


 食事のあと、健太は自室に戻った。


 十一月に書いたノートを開いた。


『クリスマスまでにやること』


 いくつかは、できるようになった。


 身だしなみを意識した。


 人の話を聞こうとした。


 相手の親切を、すぐに恋愛感情だと決めつけないようにした。


 週に二回歩くという目標も、完璧ではないが続けている。


 しかし、最後の一行だけは達成できなかった。


『できれば、クリスマスまでに彼女を作る』


 健太は、その文字を見つめた。


「……まあ、そんな簡単にはいかんか」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


 努力したからといって、すぐに結果が出るわけではない。


 それは、仕事でも野球でも同じだった。


 だから、今は焦らなくていい。


 そう思うことにした。


 ただ、ノートを閉じる直前、健太は小さく書き足した。


『来年こそは、誰かとクリスマスを過ごしたい』


 それは、目標というより願いだった。


     *


 十二月二十七日。


 ドリーム・エース・ナインの今年最後の試合。


 グラウンドには、十二人の仲間たちが集まっていた。


 森川は以前より少し体が軽くなったと話し、石田は食事の量を見直していると報告した。


 田村は、来年は練習のない日にも歩く時間を作ると言った。


 それぞれの変化は、まだ小さい。


 けれど、確かに始まっていた。


「よし、来年も頑張ろうや!」


 田村の声に、全員がうなずいた。


 健太も笑った。


 恋愛は、何も進まなかった。


 クリスマスも、一人で過ごした。


 それでも、仲間たちと野球をする時間は残っている。


 来年は、何かが変わるかもしれない。


 健太は、そう信じたかった。


 試合が始まる。


 空は冬らしく澄み渡っていた。


 白球が青空へ飛び、仲間たちの声がグラウンドに響く。


 その瞬間だけは、恋愛のことも、将来の不安も忘れられた。


 健太は三塁の守備についた。


 打球が飛んでくる。


 彼は一歩前に出て、ボールを捕った。


「よっしゃ!」


 送球は、一塁手のミットに収まった。


 アウト。


 仲間たちが声を上げた。


 健太は笑った。


 まだ、自分にはできることがある。


 まだ、やり直せることもある。


 そう思っていた。


 だが、三十五歳の冬に抱いた願いは、四十歳の春までに、何度も形を変えていくことになる。


 恋愛を成功させたいという願いは、いつしか、失敗したくないという恐れに変わる。


 誰かに好かれたいという気持ちは、いつしか、自分の価値を証明したいという執着に変わる。


 そして、健太の周りでは、彼が知らないところで、少しずつ人生が動き始めていた。


 森川とゆかりの関係。


 田村の新しい出会い。


 石田が見直し始めた食生活。


 それぞれの小さな変化が、やがて大きな違いになっていく。


 健太は、まだそれを知らない。


 ただ、冬の空の下で、来年こそはと願っていた。


 そして、二〇二一年が近づいていた。

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