第40話 クリスマスの予約席、俺の名前はなかった
十二月六日、日曜日。
健太は、洗面所の鏡の前で襟元を整えていた。
今日は地域ボランティアの活動日だった。
クリスマスまで、あと十九日。
先月、ドリーム・エース・ナインの仲間たちと決めた目標が、頭の中に残っていた。
清潔感を意識する。
相手の話を聞く。
勝手に期待しない。
断られたら、しつこくしない。
どれも簡単そうで、実際には難しい。
「健太、朝ごはん食べていきや」
母の美代子が、台所から声をかけた。
「あとで食べるわ」
「また出かけるん?」
「ボランティアや」
「ほんま、最近よう行くなあ」
母は何か言いたそうだったが、それ以上は聞かなかった。
健太は上着を羽織り、家を出た。
冷たい風が頬に当たった。
冬の空は澄んでいたが、街のあちこちにはクリスマスの飾りが増えていた。
駅前の店には、二人掛けの席を予約するカップルの姿があった。
健太は、その光景から目をそらした。
自分だって、誰かとクリスマスを過ごしたい。
その願いは、まだ消えていなかった。
*
集合場所に到着すると、真紀が参加者たちに挨拶をしていた。
「大野さん、おはようございます!」
「おはようございます」
「今日は寒いですね。手袋、持ってきました?」
「はい。ちゃんと持ってきました」
健太はポケットから手袋を取り出した。
真紀は安心したように笑った。
「よかった。風邪をひいたら大変ですからね」
その言葉に、健太の胸が温かくなった。
以前なら、ここで考え込んでいただろう。
自分の体調を気遣ってくれた。
もしかしたら、自分に好意があるのではないか。
しかし今日は、すぐに別の考えを浮かべることができた。
真紀は、ほかの参加者にも寒さを気遣う言葉をかけていた。
彼女にとっては、仲間への自然な気遣いなのだろう。
「ありがとうございます。佐藤さんも、風邪に気をつけてくださいね」
「はい。ありがとうございます!」
健太は、それ以上の意味を付け足さなかった。
ほんの小さな変化だった。
だが、自分の気持ちを少しだけ整理できたことが、うれしかった。
*
午前中の作業が終わり、参加者たちは休憩を取っていた。
真紀は、近くにいた佐々木亮と話をしていた。
「クリスマス、もう予定決めました?」
佐々木が尋ねた。
「まだですね。仕事もあるので、どうなるか分からないです」
「そうなんですね。僕は、友達と食事するかもしれません」
「楽しそうですね」
何気ない会話だった。
健太は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。
クリスマス。
その言葉が耳に入った瞬間、心臓が跳ねた。
真紀には、クリスマスの予定があるのだろうか。
誰かと過ごすのだろうか。
恋人がいるのだろうか。
知りたい気持ちはあった。
しかし、聞く理由がない。
健太は、自分の手袋を見つめた。
相手の予定を知ったところで、自分がその相手になれるとは限らない。
そもそも、真紀が誰と過ごすかは、彼女が決めることだ。
頭では理解できていた。
それでも、胸の奥には焦りが残っていた。
「大野さん、ちょっといいですか?」
真紀に呼ばれ、健太は顔を上げた。
「はい?」
「こちらの備品、数を確認してもらえますか?」
「あ、分かりました」
健太は備品の箱を開けた。
軍手、袋、清掃用具。
一つずつ数を確認し、真紀に報告した。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ」
それだけのやり取りだった。
だが、健太は仕事のように、目の前の作業に集中できた。
相手の気持ちを探ろうとするのではなく、頼まれたことをきちんとする。
それも、人との付き合い方の一つなのだろう。
*
午後二時。
活動が終わり、参加者たちは片づけを始めた。
健太が道具を倉庫に運んでいると、真紀が近づいてきた。
「大野さん、今日もありがとうございました」
「こちらこそ、お疲れさまでした」
「最近、よく参加してくださいますね」
「はい。来ると、いろんな人と話せますし」
「私もそう思います。普段の生活だけだと、どうしても同じ人とばかり話すことになりますから」
真紀は、少し遠くを見ながら続けた。
「いろんな人の話を聞くと、自分が知らなかった考え方に出会えるんですよね」
「そうですね」
「大野さんとも、またいろいろお話しできたらうれしいです」
健太の胸が、大きく跳ねた。
また話したい。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
けれど、健太はすぐに思い直した。
彼女はボランティアの仲間として、そう言ってくれたのかもしれない。
恋愛感情があるとは限らない。
「ありがとうございます。僕も、またお話しできたらうれしいです」
健太は、素直に答えた。
真紀は笑顔でうなずいた。
それ以上、何も起こらなかった。
連絡先の交換もなかった。
食事への誘いもなかった。
ただ、二人は次の活動について確認し、それぞれ帰る準備をした。
健太は、それでいいと思おうとした。
焦らなくてもいい。
自分の生活を整え、人と自然に話せるようになればいい。
恋愛の結果だけが、すべてではない。
それでも、駅へ向かう途中、彼は何度も振り返りそうになった。
真紀と、もう少し話したかった。
それが、正直な気持ちだった。
*
その夜、ドリーム・エース・ナインのグループチャットが動いた。
田村から、年末の予定について連絡があった。
『十二月二十七日に今年最後の試合をやる。参加できる奴は返信してくれ』
すぐに、仲間たちから返事が届いた。
『参加!』
『もちろん行くで!』
『今年最後やから、勝って終わろうや!』
健太も返信した。
『参加します』
続いて、森川から個別のメッセージが届いた。
『ゆかりさんと、クリスマス前に会うことになったわ』
健太は画面を見つめた。
『ええやん。楽しんでこいよ』
そう返信すると、森川からすぐに返事が来た。
『ありがとう。まだ付き合ってるわけちゃうけど、ちゃんと話してくるわ』
健太は、その言葉を読んでうなずいた。
森川は、少しずつ前に進んでいる。
自分も、いつかは。
そう考えたところで、健太はスマートフォンを置いた。
今夜は、恋愛動画を見るのをやめようと思った。
代わりに、明日の仕事の準備をして、少し早く寝ることにした。
それも、自分の生活を変えるための一歩だ。
*
十二月二十四日。
クリスマスイブの夜。
健太は、仕事を終えて帰宅していた。
街にはイルミネーションが輝き、駅前は多くの人でにぎわっていた。
赤いリボンのついた紙袋を持つ女性。
花束を抱えた男性。
腕を組んで歩くカップル。
健太は、混雑を避けるように歩道の端を歩いた。
スマートフォンを取り出す。
真紀からのメッセージはない。
当然だった。
クリスマスを一緒に過ごす約束など、していないのだから。
健太は、ポケットにスマートフォンをしまった。
帰宅すると、母が食卓に料理を並べていた。
「おかえり。今日はチキン買ってきたで」
「ありがとう」
「クリスマスやからな」
テーブルには、チキンとサラダ、スープが並んでいた。
健太は椅子に座った。
家族と過ごすクリスマス。
決して悪いものではない。
母の料理はおいしかったし、父の正一もテレビを見ながら機嫌よく食事をしていた。
それでも、心のどこかで思ってしまった。
来年こそは、誰かと過ごせるだろうか。
食事のあと、健太は自室に戻った。
十一月に書いたノートを開いた。
『クリスマスまでにやること』
いくつかは、できるようになった。
身だしなみを意識した。
人の話を聞こうとした。
相手の親切を、すぐに恋愛感情だと決めつけないようにした。
週に二回歩くという目標も、完璧ではないが続けている。
しかし、最後の一行だけは達成できなかった。
『できれば、クリスマスまでに彼女を作る』
健太は、その文字を見つめた。
「……まあ、そんな簡単にはいかんか」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
努力したからといって、すぐに結果が出るわけではない。
それは、仕事でも野球でも同じだった。
だから、今は焦らなくていい。
そう思うことにした。
ただ、ノートを閉じる直前、健太は小さく書き足した。
『来年こそは、誰かとクリスマスを過ごしたい』
それは、目標というより願いだった。
*
十二月二十七日。
ドリーム・エース・ナインの今年最後の試合。
グラウンドには、十二人の仲間たちが集まっていた。
森川は以前より少し体が軽くなったと話し、石田は食事の量を見直していると報告した。
田村は、来年は練習のない日にも歩く時間を作ると言った。
それぞれの変化は、まだ小さい。
けれど、確かに始まっていた。
「よし、来年も頑張ろうや!」
田村の声に、全員がうなずいた。
健太も笑った。
恋愛は、何も進まなかった。
クリスマスも、一人で過ごした。
それでも、仲間たちと野球をする時間は残っている。
来年は、何かが変わるかもしれない。
健太は、そう信じたかった。
試合が始まる。
空は冬らしく澄み渡っていた。
白球が青空へ飛び、仲間たちの声がグラウンドに響く。
その瞬間だけは、恋愛のことも、将来の不安も忘れられた。
健太は三塁の守備についた。
打球が飛んでくる。
彼は一歩前に出て、ボールを捕った。
「よっしゃ!」
送球は、一塁手のミットに収まった。
アウト。
仲間たちが声を上げた。
健太は笑った。
まだ、自分にはできることがある。
まだ、やり直せることもある。
そう思っていた。
だが、三十五歳の冬に抱いた願いは、四十歳の春までに、何度も形を変えていくことになる。
恋愛を成功させたいという願いは、いつしか、失敗したくないという恐れに変わる。
誰かに好かれたいという気持ちは、いつしか、自分の価値を証明したいという執着に変わる。
そして、健太の周りでは、彼が知らないところで、少しずつ人生が動き始めていた。
森川とゆかりの関係。
田村の新しい出会い。
石田が見直し始めた食生活。
それぞれの小さな変化が、やがて大きな違いになっていく。
健太は、まだそれを知らない。
ただ、冬の空の下で、来年こそはと願っていた。
そして、二〇二一年が近づいていた。




