第38話 恋愛相談の相手が、俺の知らない男と笑っていた
十一月十五日、日曜日。
健太は、朝から落ち着かなかった。
今日は地域ボランティアの活動日だった。
佐藤真紀に会える。
ただ、それだけのことだ。
何度も自分に言い聞かせたが、出かける前には鏡を確認し、髪を整え、シャツの襟を直した。
母の美代子が、台所から声をかけてきた。
「またボランティア?」
「そうや」
「最近、よく行くようになったなあ」
「地域のためや」
「へえ。地域のためねえ」
母の含みのある言い方に、健太は顔をしかめた。
「何が言いたいねん」
「別に。人と知り合うのはええことやと思ってるだけ」
健太は返事をせず、玄関を出た。
母には、何もかも見透かされているような気がした。
*
集合場所に着くと、真紀はすでに来ていた。
その隣には、前回も話をしていた若い男性がいた。
男性は佐々木亮という二十九歳の会社員で、地域活動には数か月前から参加しているらしい。
「おはようございます、大野さん!」
真紀が笑顔で挨拶した。
「おはようございます」
健太も挨拶を返した。
佐々木は、真紀に何かを話していた。
「それで、あの店、土日は結構混むんですよ」
「そうなんですね。今度、時間をずらして行ってみます」
「よかったら、ほかにもおすすめを送りますよ」
「ありがとうございます!」
二人は自然に笑い合っていた。
健太は、胸の奥がざわつくのを感じた。
何を話しているのだろう。
どんな店なのだろう。
二人は、以前から親しいのだろうか。
気になったが、聞く理由はなかった。
真紀は誰と話してもいい。
佐々木と仲良くすることだって、彼女の自由だ。
それくらいは分かっている。
分かっているのに、面白くなかった。
「大野さん、今日はこっちの区域をお願いします」
真紀に声をかけられ、健太は我に返った。
「あ、はい。分かりました」
健太は道具を受け取り、作業に向かった。
いつもなら、真紀と話せるだけでうれしかった。
今日は、彼女がほかの男性と話している姿が頭から離れなかった。
*
午前中の作業は順調に進んだ。
健太は落ち葉を集め、植え込みのごみを拾い、道具を片づけた。
真紀と話す機会もあったが、彼女はほかの参加者への対応にも忙しそうだった。
昼休憩になり、参加者たちが飲み物を手に集まった。
佐々木が真紀の隣に座った。
「この前、教えてもらった映画、観ましたよ」
「えっ、本当ですか? どうでした?」
「思っていたより面白かったです。最後、ちょっと泣きそうになりました」
「分かります! あそこ、いいですよね」
二人は映画の話で盛り上がっていた。
健太は、少し離れた場所でペットボトルのお茶を飲んでいた。
自分は真紀の好きな映画も知らない。
好きな食べ物も、休日の過ごし方も、詳しくは知らない。
それなのに、彼女に会うたび、どうすれば自分を好きになってもらえるかばかり考えていた。
健太は、初めてそのことをはっきり意識した。
自分は彼女を知りたいのだろうか。
それとも、彼女に好かれている自分を想像したいだけなのだろうか。
「健太さん、どうしたんですか?」
声をかけてきたのは、同じボランティアに参加している六十代の女性だった。
「なんか、今日は静かですね」
「いや、ちょっと考え事をしてまして」
「悩み事?」
「まあ……そんなところです」
女性は、にこやかにうなずいた。
「人間関係って難しいですよね。でも、誰かと仲良くなりたいと思うのは、悪いことじゃないですよ」
「そうですね」
「ただ、相手にも相手の生活がありますからね。こっちの思いどおりにはいかないこともありますよ」
その言葉に、健太は苦笑した。
まるで、自分の心を見透かされたようだった。
*
午後二時。
活動が終わり、参加者たちは片づけを始めた。
健太は道具を倉庫に運び、最後の確認をしていた。
そのとき、真紀と佐々木の会話が聞こえた。
「じゃあ、また次回ですね」
「はい。またおすすめの映画があったら教えてください」
「もちろんです!」
佐々木が笑いながら手を振った。
真紀も笑顔で応じた。
健太は、その様子を見てしまった。
二人は連絡先を交換しているのかもしれない。
映画の話をするくらいだから、個人的に連絡を取り合っている可能性もある。
しかし、健太は何も知らなかった。
知らないのに、勝手に想像していた。
もし二人が付き合い始めたら。
もし真紀が、佐々木のことを好きになったら。
自分が何度ボランティアに参加しても、彼女の気持ちは変わらないのではないか。
そんな考えが、次々に浮かんだ。
「大野さん?」
真紀が近づいてきた。
「今日はありがとうございました。最後まで片づけてくださって助かりました」
「いえ、これくらい普通ですよ」
「そういうところ、いつも丁寧ですよね」
また、褒められた。
健太は、うれしかった。
けれど、その言葉の意味を考え始めてしまった。
これは好意なのか。
それとも、仲間への感謝なのか。
彼女の目を見ても、答えは分からなかった。
「大野さん、何かありました?」
「えっ?」
「今日は、ちょっと元気がないように見えたので」
心配してくれた。
それだけで、胸が揺れた。
しかし、健太は答えられなかった。
あなたが別の男性と楽しそうに話しているのを見て、嫉妬していました。
そんなことを言えるはずがない。
彼女は、自分の恋人ではないのだから。
「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけです」
「そうなんですね。無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
真紀は笑顔で会釈し、ほかの参加者のところへ戻っていった。
健太は、その背中を見送った。
彼女は優しかった。
今日も、自分を気遣ってくれた。
でも、その優しさを理由に、彼女の気持ちを自分のものだと思ってはいけない。
健太は、ようやくそこまで考えられるようになっていた。
それでも、嫉妬は消えなかった。
*
帰り道、健太は藤井直樹に電話をかけた。
「なあ、ちょっと聞いてくれるか」
『どうした?』
「今日、ボランティアでな。真紀さんが、別の男と楽しそうに話しててん」
『うん』
「映画の話とか、店の話とか。なんか、ええ感じに見えてな」
『それで?』
「……正直、嫉妬した」
電話の向こうで、藤井は少し黙った。
『そっか』
「でも、俺の彼女でもないし、誰と話そうが自由やろ。そんなこと分かってるねん」
『分かってることと、感情がついてくることは別やからな』
「俺、器が小さいんかな」
『嫉妬するだけで器が小さいとは思わんよ。問題は、その感情を理由に相手を縛ろうとするかどうかやろ』
健太は、黙って聞いていた。
『真紀さんが誰と仲良くするかは、真紀さんが決めることや。健太が寂しいからって、相手に何かを求める権利が生まれるわけちゃう』
「……そうやな」
『でも、自分の気持ちまで否定せんでええ。好きなら好きでええし、悔しいなら悔しいでええ。ただ、その気持ちを相手に背負わせんようにしたらええねん』
健太は、ゆっくり息を吐いた。
自分の気持ちは、間違いなのだろうか。
そう考えていた。
だが、感情そのものに正解も不正解もないのかもしれない。
大事なのは、その感情をどう扱うかだ。
「ありがとう。ちょっと楽になったわ」
『それならよかった』
電話を切った健太は、駅の改札へ向かった。
*
その夜。
健太は、真紀とのメッセージ画面を開いていた。
何か話題を見つけて、連絡してみようか。
そう思った。
しかし、今日は何も送らなかった。
彼女は今日、十分に自分と話してくれた。
次に会う予定もある。
今すぐ距離を縮めなければ、誰かに取られてしまう。
そんな焦りで連絡するのは、違う気がした。
健太はスマートフォンを置いた。
その直後、ドリーム・エース・ナインのグループチャットが動いた。
森川からだった。
『ゆかりさんと次のデート決まった。今度は昼から散歩して、カフェに行くことになった』
田村が返信した。
『お前、ちゃんと続いてるやん』
森川は、すぐに返した。
『まあな。でも、まだ付き合ってるわけちゃうし、焦らんようにするわ』
健太は、その文章を何度も読んだ。
森川も、以前のように浮かれているだけではなかった。
相手の気持ちを確かめながら、少しずつ関係を築こうとしている。
自分は、どうだろう。
真紀と恋人になりたい。
その願いは強い。
けれど、彼女のことをどれだけ知っているのか。
彼女が何を大切にしているのか。
自分がいないところで、どんな毎日を過ごしているのか。
まだ、ほとんど知らない。
健太は、スマートフォンに短い文章を打ち込んだ。
『俺も焦らんようにするわ』
送信すると、藤井から返信が来た。
『それがええと思う。自分の生活も大事にな』
健太は、少し笑った。
恋愛がうまくいかなくても、人生のすべてが失われるわけではない。
仕事もある。
家族もいる。
仲間もいる。
それらを大切にしながら、人との関係を築いていけばいい。
頭では、そう思えた。
けれど、布団に入って目を閉じると、真紀と佐々木が笑い合う姿が浮かんできた。
嫉妬も、不安も、消えてはいなかった。
健太は寝返りを打った。
「……俺も、誰かとあんなふうに笑いたいな」
小さくつぶやいた。
その願いは、まだ純粋だった。
ただ、その願いをかなえることばかりに夢中になれば、目の前にいる人間を見失ってしまう。
健太がそのことを本当に理解するのは、もう少し先の話だった。




