第37話 「いい人ですね」は、恋愛の試合終了を意味するのか
十一月一日、日曜日。
健太は、久しぶりに姉の真紀と電話をしていた。
姉は結婚して家庭を持っている。恋愛経験のない弟にとって、身近にいる既婚者の意見は貴重だった。
もっとも、姉の助言はいつも遠慮がない。
「で、あんた、最近どうなん?」
「何が?」
「恋愛に決まってるやろ。三十五にもなって、いつまで報告することないねん」
「うるさいな。こっちも頑張ってるわ」
「頑張ってるって、何を?」
健太は言葉に詰まった。
女性の気持ちを調べている。
服装に気をつけている。
話し方を考えている。
恋愛動画も見ている。
だが、それを全部説明したところで、姉に笑われる未来しか見えなかった。
「……いろいろや」
「具体的に言えへんのやったら、何もしてへんのと一緒やん」
「この前、ボランティアで知り合った人と話したで」
「ほう。デートしたん?」
「してへん」
「連絡先は?」
「交換してへん」
「ほな、何を頑張ったん?」
「……話した」
電話の向こうで、姉が大きくため息をついた。
「健太。相手と話すのは大事やで。でも、あんたは何でも結果に結びつけようとしすぎやねん」
「どういう意味や?」
「相手が笑ったら脈あり。心配してくれたら脈あり。褒めてくれたら脈あり。そんなふうに考えてへん?」
健太は黙った。
図星だった。
「そんなん、相手からしたら普通のことかもしれへんやろ。あんたが優しくされたと思っても、相手は誰にでも同じように接してるかもしれん」
「分かってるわ」
「ほんまに?」
姉の声が少しだけ柔らかくなった。
「好きになったら、期待するのは分かるよ。でもな、相手の気持ちを確かめる前に、自分の中で恋愛を完成させたらあかん」
健太は、返す言葉を見つけられなかった。
「それより、相手のことを知ろうとしてる?」
「知ろうとしてるで」
「その人が何を好きで、何が嫌いで、どんな生活をしてるか。あんたに好意があるかどうかばっかり考えてへん?」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
真紀と話すとき、健太はいつも考えていた。
今の言葉は脈ありなのか。
笑顔には意味があるのか。
次はどうすれば距離を縮められるのか。
彼女自身を知ることより、彼女が自分をどう思っているのかを知りたがっていたのかもしれない。
「……気をつけるわ」
「まあ、急に変われるとは思ってへんけどな。まずは普通に人と付き合う練習をしたら?」
「人と付き合うって、恋愛のことか?」
「ちゃうわ。人間関係全般や。相手の話を聞いて、相手の都合も考えて、自分の気持ちもちゃんと伝える。それができてからでも遅くないやろ」
電話を切ったあと、健太はしばらくソファに座っていた。
姉の言葉は厳しかった。
しかし、反論できなかった。
*
その日の午後、健太はドリーム・エース・ナインの練習に参加した。
グラウンドには、いつもの仲間たちが集まっていた。
「おい、健太。最近、腹出てきてへんか?」
中村拓郎が、健太の腹部を指さした。
「お前に言われたないわ!」
「俺はええねん。これは貫禄や」
「ただの食いすぎやろ」
石田雄二が笑った。
森川信也は、ランニング用の新しいシューズを履いていた。
「お前、また高いの買ったんか?」
松田浩一が尋ねる。
「いや、これは本気で体を鍛えるためや。最近、体力落ちてるからな」
森川は、以前なら高価な道具を買っただけで満足していた。
だが、最近は練習前に走り、食事にも少し気をつけているらしい。
「この前のデートで、ウォーキングが趣味って話になってな。俺も一緒に歩けるくらいには体力つけようと思って」
「ええやん。理由は何でも、続けたら勝ちや」
藤井が言った。
「ただし、相手に合わせるためだけやなくて、自分の体のためにもな」
「分かってるって」
森川は笑った。
健太は、その会話を聞きながら、自分の腹に手を当てた。
体重は大きく変わっていない。
しかし、仕事で疲れて帰ると、夕食を食べて、そのままソファで寝てしまうことが増えていた。
運動する気力もあまりない。
恋愛のことばかり考えて、生活そのものを整えることは後回しになっていた。
「健太も走ろうや」
田村剛が声をかけた。
「いや、俺はええわ」
「その『ええわ』が一番あかんねん」
田村は笑ったが、無理に誘うことはしなかった。
健太は、少し気まずい気持ちでグラウンドに立った。
*
練習後、健太は駅前の喫茶店に立ち寄った。
席に座り、コーヒーを注文する。
窓際では、二十代後半くらいの男女が向かい合っていた。
男性が何かを話すと、女性は楽しそうに笑った。
やがて男性が、少し緊張した表情で口を開いた。
「実は、また二人で会いたいと思ってるんですけど……どうですか?」
女性は驚いたように目を瞬かせた。
それから、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。お話しするのは楽しいんですけど、恋愛対象としては見られなくて」
男性は、しばらく黙っていた。
健太は、思わず聞き耳を立ててしまった。
男性はやがて、小さく笑った。
「そうですか。正直に言ってくれてありがとうございます」
「こちらこそ、ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ。気をつけて帰ってくださいね」
二人は落ち着いた様子で別れた。
健太は、コーヒーカップを持つ手を止めた。
男性は、女性を責めなかった。
嫌味も言わなかった。
自分の努力が無駄だったと怒ることもなかった。
ただ、相手の気持ちを受け入れていた。
自分だったら、どうするだろう。
悔しくて、何が悪かったのか問い詰めるかもしれない。
もっと頑張れば振り向いてくれるのではないかと、しつこく連絡するかもしれない。
あるいは、自分の何が駄目だったのか、答えが出るまで考え続けるかもしれない。
健太は、苦笑した。
「……俺、あの人みたいにできるんかな」
誰にも聞こえない声でつぶやいた。
*
翌週、十一月八日。
地域ボランティアの活動日だった。
真紀は、いつもどおり明るく参加者に声をかけていた。
健太は、彼女と一緒に備品を運んだ。
「大野さん、これ、向こうのテーブルに置いてもらえますか?」
「分かりました」
二人で箱を運ぶ。
真紀が持っていた箱の端が、健太の腕に軽く触れた。
「あ、ごめんなさい」
「いや、大丈夫です」
たったそれだけのことだった。
しかし健太は、また妙に意識してしまった。
近い。
いい匂いがする。
今、彼女は自分のことをどう思っているのだろう。
考え始めたところで、健太は一度、深呼吸した。
違う。
今は箱を運んでいるだけだ。
余計な意味をつけなくていい。
作業を終えると、真紀が笑顔で言った。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ」
健太は、そこで会話を終えた。
以前なら、何か話題を探して、無理に会話を続けようとしていたかもしれない。
今回は、何も付け足さなかった。
それが正しいのかどうか、まだ分からない。
だが、少なくとも彼女の反応を試すようなことはしなかった。
活動が終わるころ、真紀が参加者たちに声をかけた。
「皆さん、よかったら次回もお願いしますね!」
健太にも、同じ笑顔が向けられた。
「大野さんも、また来てください」
「はい。また来ます」
その言葉を、健太は以前より少しだけ素直に受け取った。
彼女が自分を好きだから言ったのではない。
ボランティアの仲間として、また一緒に活動したいと思ってくれたのかもしれない。
今は、それでいい。
そう考えられたことが、健太にとっては小さな変化だった。
*
帰り道、健太のスマートフォンが鳴った。
森川からだった。
『次の試合のあと、ゆかりさんとまた会うことになったわ』
続けて、メッセージが届く。
『今度は俺の話ばっかりせんようにする。向こうの話もちゃんと聞くわ』
健太は画面を見つめた。
森川も、少しずつ変わっている。
かつての森川なら、女性とのデートが決まっただけで、仲間たちに自慢して終わっていただろう。
今は、自分の失敗を振り返っている。
健太は返信した。
『ええやん。楽しんでこいよ』
送信してから、スマートフォンをポケットにしまった。
羨ましくないと言えば、嘘になる。
自分も誰かとデートしたい。
誰かに好かれたい。
できれば、もう拒絶されたくない。
その気持ちは、消えなかった。
ただ、健太は少しだけ気づき始めていた。
恋愛の結果だけを追いかけていても、人との付き合い方は身につかない。
相手に好かれることばかり考えていたら、相手がどんな人なのか見失ってしまう。
それでも、心の奥には、まだ別の願いが残っていた。
いつか真紀と二人で食事をしたい。
できれば、夜景の見える店で。
落ち着いた照明の下、向かい合って座り、少し照れながら話をしたい。
そんな夜を、自分も経験してみたい。
健太は歩きながら、夜の街を見渡した。
店の窓から、楽しそうに食事をする男女の姿が見えた。
自分にはまだ遠い世界だった。
けれど、諦めることもできなかった。
その執着が、これから先、彼を何度も傷つけることになる。
そして、彼が本当に欲しかったものが何だったのか。
その答えに気づくころには、失ってしまったものも少なくないはずだった。




