第36話 香水の匂いと濡れた髪、俺は大人の恋を夢見た
十月二十五日、日曜日。
健太は、地域ボランティアの集合場所へ向かう車の中で、何度もスマートフォンを確認していた。
佐藤真紀から、新しいメッセージは届いていない。
当然だった。
今日はボランティア活動の日であり、二人で会う約束をしたわけではない。
それなのに、健太は昨夜から落ち着かなかった。
昨晩、動画サイトで恋愛に関する動画を見ていたら、関連動画に「女性が男性を意識する瞬間」というタイトルが出てきた。
その動画では、清潔感、香り、服装、会話の距離感などが紹介されていた。
健太は、さっそく洗面所で自分の髪型を整え、普段より念入りに歯を磨いた。
香水も買おうかと思ったが、何を選べばいいのか分からず、結局やめた。
「香水をつけたら、急にモテるんかな……」
そんなことを考えながら、集合場所に到着した。
*
「大野さん、おはようございます!」
真紀の声が聞こえた。
振り向くと、彼女が立っていた。
淡いベージュの上着に、動きやすそうなパンツ。髪は後ろでまとめられている。
特別に着飾っているわけではない。
けれど、健太にはその姿が妙に魅力的に見えた。
「おはようございます」
「今日は少し冷えますね」
「そうですね。もう十月も終わりですし」
会話はそれだけだった。
真紀はほかの参加者にも挨拶をして、作業の準備を始めた。
健太は、自分の返事がそっけなかったのではないかと気になった。
もっと気の利いたことを言えばよかった。
寒いなら、温かい飲み物でも差し入れればよかったのだろうか。
だが、そんなことをしたら、好意を押しつけていると思われるかもしれない。
また考えすぎていた。
「大野さん、こちらの袋をお願いできますか?」
「あ、はい!」
真紀から渡されたごみ袋を受け取り、健太は作業に取りかかった。
今日は公園周辺の清掃だった。
落ち葉が歩道に広がり、植え込みには空き缶や菓子の袋が落ちている。
健太は黙々と拾い続けた。
途中、真紀が近くに来た。
「大野さんって、こういう作業、慣れてますよね」
「いや、そんなことないですよ」
「でも、いつも丁寧ですよ。見えにくいところまで確認してくださるし」
また褒められた。
健太の胸が、少しだけ温かくなる。
「ありがとうございます。こういうの、嫌いじゃないんです」
「私もです。誰かの役に立てたらうれしいですし、普段会わない人とも話せますから」
「そうですね」
健太は彼女の横顔を見た。
近くで話していると、柔らかなシャンプーの香りがした。
それは香水のように強いものではなかった。
ほんの一瞬、風に乗って届いただけだった。
それでも健太は、妙に意識してしまった。
女性とこんな距離で話すこと自体、ほとんど経験がない。
相手が何を考えているのか分からない。
自分の顔は赤くなっていないだろうか。
変な目で見ていると思われていないだろうか。
「大野さん?」
「は、はい!」
「袋、もういっぱいみたいです」
「あっ、ほんまや!」
健太は慌てて袋の口を結んだ。
真紀は笑った。
「大丈夫ですか? なんか、ぼんやりしてましたよ」
「すみません。ちょっと考え事を……」
「お疲れなんじゃないですか? 無理しないでくださいね」
その気遣いに、健太はまた期待してしまった。
心配してくれた。
自分の様子に気づいてくれた。
もしかして、少しは特別に思ってくれているのではないか。
しかし、真紀は同じように別の参加者にも声をかけていた。
彼女は、誰に対しても気配りのできる人だった。
健太はそれを知っていたはずなのに、自分に向けられた優しさだけを特別なものにしたくなっていた。
*
午後三時。
清掃活動が終わるころ、突然、雨が降り始めた。
「うわ、結構降ってきたな!」
参加者たちは慌てて道具を片づけた。
真紀は、近くに置いてあった段ボールを抱えて、雨の当たらない場所へ走った。
その途中、風にあおられた髪がほどけた。
彼女は苦笑しながら髪をまとめ直した。
濡れた前髪を指で払い、上着についた雨粒を手で払う。
ほんの数秒の出来事だった。
健太は、思わず目をそらした。
普段の作業着姿とは違う、少し無防備な雰囲気。
大人の女性という言葉が、頭に浮かんだ。
彼女と二人で食事をしたら、どんな話をするのだろう。
夜の街を歩いたら。
落ち着いた照明の店で、向かい合って座ったら。
彼女が笑いながらグラスを持ち上げたら。
そんな想像が、勝手に膨らんでいく。
「大野さん、こっちです!」
真紀に呼ばれ、健太は我に返った。
「すみません!」
段ボールを運び、道具を片づける。
彼女の髪は、すでにきちんとまとめ直されていた。
さっきの光景など、彼女にとっては何でもないことだろう。
それなのに、健太の頭の中では、まるで映画のワンシーンのように残っていた。
*
雨が弱まったあと、参加者たちは解散することになった。
「今日はありがとうございました。皆さん、気をつけて帰ってくださいね」
真紀が挨拶をしている。
健太は、帰り際に声をかけようか迷った。
雨で濡れたし、近くの喫茶店で温かいものでも飲みませんか。
それくらいなら、不自然ではないかもしれない。
しかし、彼女が誰かと約束していたら。
断りにくいと思わせたら。
これまで築いてきた関係が壊れたら。
考えれば考えるほど、足が動かなくなった。
「大野さん、また次回もよろしくお願いします!」
真紀が笑顔で声をかけてきた。
「はい。また来ます」
結局、それだけだった。
彼女は傘を開き、駅の方向へ歩いていった。
健太はその背中を見送った。
誘えなかった。
何も進まなかった。
ただ、彼女の姿を見て、勝手に胸を躍らせただけだった。
*
その夜。
健太は、ドリーム・エース・ナインの仲間たちとのオンライン通話に参加していた。
「なあ、お前ら。香水って、何を使ってる?」
唐突な質問に、全員が黙った。
「……健太、急にどうした?」
田村剛が尋ねた。
「いや、清潔感とか大事やろ。女性に好印象を持ってもらうためには、香りも重要なんかなって」
「香水の前に、ちゃんと風呂入って服を洗え」
藤井直樹が即答した。
「入ってるわ!」
「なら、無理に香水を使う必要はないやろ。強い香りが苦手な人もいるしな」
山本和也が、真面目な顔で続けた。
「相手の好みも分からんのに、香りで印象を操作しようとするのは効率が悪い」
「お前は何でも分析するなあ」
石田雄二が笑った。
森川信也は、少し得意げに口を開いた。
「俺は今度のデート、ちょっと大人っぽい店にしようと思ってる」
「またデートかよ!」
中村拓郎が叫んだ。
「ええやろ。次も会う約束ができたんやから」
森川は、以前より少し落ち着いた表情をしていた。
「ただ、今度は俺ばっかりしゃべらんようにするわ。前回、昔の野球の話ばっかりしてもうたからな」
「おお、成長してるやん」
田村が感心した。
健太は黙って聞いていた。
森川は、失敗を振り返り、次の機会に生かそうとしている。
一方の自分は、真紀の何気ない仕草を何度も思い出し、そこに意味を探しているだけだった。
「健太はどうなん?」
藤井に尋ねられ、健太は苦笑した。
「俺は……まだ何もないわ」
「焦らんでええ。ただ、相手の反応を勝手に恋愛のサインに変えんようにな」
「分かってる」
健太は答えた。
今度こそ、本当に分かっているつもりだった。
女性の優しさは、必ずしも恋愛感情ではない。
近くで話したからといって、特別な関係になったわけではない。
相手の何気ない仕草を、自分の都合のいい物語に変えてはいけない。
頭では理解できる。
けれど、心は思いどおりにならなかった。
*
通話を終えた健太は、風呂に入ったあと、鏡の前に立った。
髪を整え、顔を見つめる。
三十五歳。
若いころに思い描いていた自分とは、ずいぶん違う。
四十歳になるころには、恋人くらいできていると思っていた。
誰かと食事をして、休日を一緒に過ごし、自然に手をつなぐ。
そんな未来が、当たり前のように訪れると思っていた。
しかし現実は、何も変わっていない。
真紀の香りも、雨に濡れた髪も、彼女の笑顔も、すべて健太の記憶の中にあるだけだった。
彼女が同じ光景を覚えているかどうかさえ、分からない。
健太は鏡から目をそらした。
「……次は、もうちょっと頑張ろう」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
努力すれば、いつか報われる。
そう信じていたかった。
だが、恋愛は、努力した人から順番に報われる競技ではない。
その当たり前の事実を、健太が本当に受け入れるまでには、まだ長い時間が必要だった。




