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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第2章 2020年夏――恋愛作戦会議、開幕

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第36話 香水の匂いと濡れた髪、俺は大人の恋を夢見た

 十月二十五日、日曜日。


 健太は、地域ボランティアの集合場所へ向かう車の中で、何度もスマートフォンを確認していた。


 佐藤真紀から、新しいメッセージは届いていない。


 当然だった。


 今日はボランティア活動の日であり、二人で会う約束をしたわけではない。


 それなのに、健太は昨夜から落ち着かなかった。


 昨晩、動画サイトで恋愛に関する動画を見ていたら、関連動画に「女性が男性を意識する瞬間」というタイトルが出てきた。


 その動画では、清潔感、香り、服装、会話の距離感などが紹介されていた。


 健太は、さっそく洗面所で自分の髪型を整え、普段より念入りに歯を磨いた。


 香水も買おうかと思ったが、何を選べばいいのか分からず、結局やめた。


「香水をつけたら、急にモテるんかな……」


 そんなことを考えながら、集合場所に到着した。


     *


「大野さん、おはようございます!」


 真紀の声が聞こえた。


 振り向くと、彼女が立っていた。


 淡いベージュの上着に、動きやすそうなパンツ。髪は後ろでまとめられている。


 特別に着飾っているわけではない。


 けれど、健太にはその姿が妙に魅力的に見えた。


「おはようございます」


「今日は少し冷えますね」


「そうですね。もう十月も終わりですし」


 会話はそれだけだった。


 真紀はほかの参加者にも挨拶をして、作業の準備を始めた。


 健太は、自分の返事がそっけなかったのではないかと気になった。


 もっと気の利いたことを言えばよかった。


 寒いなら、温かい飲み物でも差し入れればよかったのだろうか。


 だが、そんなことをしたら、好意を押しつけていると思われるかもしれない。


 また考えすぎていた。


「大野さん、こちらの袋をお願いできますか?」


「あ、はい!」


 真紀から渡されたごみ袋を受け取り、健太は作業に取りかかった。


 今日は公園周辺の清掃だった。


 落ち葉が歩道に広がり、植え込みには空き缶や菓子の袋が落ちている。


 健太は黙々と拾い続けた。


 途中、真紀が近くに来た。


「大野さんって、こういう作業、慣れてますよね」


「いや、そんなことないですよ」


「でも、いつも丁寧ですよ。見えにくいところまで確認してくださるし」


 また褒められた。


 健太の胸が、少しだけ温かくなる。


「ありがとうございます。こういうの、嫌いじゃないんです」


「私もです。誰かの役に立てたらうれしいですし、普段会わない人とも話せますから」


「そうですね」


 健太は彼女の横顔を見た。


 近くで話していると、柔らかなシャンプーの香りがした。


 それは香水のように強いものではなかった。


 ほんの一瞬、風に乗って届いただけだった。


 それでも健太は、妙に意識してしまった。


 女性とこんな距離で話すこと自体、ほとんど経験がない。


 相手が何を考えているのか分からない。


 自分の顔は赤くなっていないだろうか。


 変な目で見ていると思われていないだろうか。


「大野さん?」


「は、はい!」


「袋、もういっぱいみたいです」


「あっ、ほんまや!」


 健太は慌てて袋の口を結んだ。


 真紀は笑った。


「大丈夫ですか? なんか、ぼんやりしてましたよ」


「すみません。ちょっと考え事を……」


「お疲れなんじゃないですか? 無理しないでくださいね」


 その気遣いに、健太はまた期待してしまった。


 心配してくれた。


 自分の様子に気づいてくれた。


 もしかして、少しは特別に思ってくれているのではないか。


 しかし、真紀は同じように別の参加者にも声をかけていた。


 彼女は、誰に対しても気配りのできる人だった。


 健太はそれを知っていたはずなのに、自分に向けられた優しさだけを特別なものにしたくなっていた。


     *


 午後三時。


 清掃活動が終わるころ、突然、雨が降り始めた。


「うわ、結構降ってきたな!」


 参加者たちは慌てて道具を片づけた。


 真紀は、近くに置いてあった段ボールを抱えて、雨の当たらない場所へ走った。


 その途中、風にあおられた髪がほどけた。


 彼女は苦笑しながら髪をまとめ直した。


 濡れた前髪を指で払い、上着についた雨粒を手で払う。


 ほんの数秒の出来事だった。


 健太は、思わず目をそらした。


 普段の作業着姿とは違う、少し無防備な雰囲気。


 大人の女性という言葉が、頭に浮かんだ。


 彼女と二人で食事をしたら、どんな話をするのだろう。


 夜の街を歩いたら。


 落ち着いた照明の店で、向かい合って座ったら。


 彼女が笑いながらグラスを持ち上げたら。


 そんな想像が、勝手に膨らんでいく。


「大野さん、こっちです!」


 真紀に呼ばれ、健太は我に返った。


「すみません!」


 段ボールを運び、道具を片づける。


 彼女の髪は、すでにきちんとまとめ直されていた。


 さっきの光景など、彼女にとっては何でもないことだろう。


 それなのに、健太の頭の中では、まるで映画のワンシーンのように残っていた。


     *


 雨が弱まったあと、参加者たちは解散することになった。


「今日はありがとうございました。皆さん、気をつけて帰ってくださいね」


 真紀が挨拶をしている。


 健太は、帰り際に声をかけようか迷った。


 雨で濡れたし、近くの喫茶店で温かいものでも飲みませんか。


 それくらいなら、不自然ではないかもしれない。


 しかし、彼女が誰かと約束していたら。


 断りにくいと思わせたら。


 これまで築いてきた関係が壊れたら。


 考えれば考えるほど、足が動かなくなった。


「大野さん、また次回もよろしくお願いします!」


 真紀が笑顔で声をかけてきた。


「はい。また来ます」


 結局、それだけだった。


 彼女は傘を開き、駅の方向へ歩いていった。


 健太はその背中を見送った。


 誘えなかった。


 何も進まなかった。


 ただ、彼女の姿を見て、勝手に胸を躍らせただけだった。


     *


 その夜。


 健太は、ドリーム・エース・ナインの仲間たちとのオンライン通話に参加していた。


「なあ、お前ら。香水って、何を使ってる?」


 唐突な質問に、全員が黙った。


「……健太、急にどうした?」


 田村剛が尋ねた。


「いや、清潔感とか大事やろ。女性に好印象を持ってもらうためには、香りも重要なんかなって」


「香水の前に、ちゃんと風呂入って服を洗え」


 藤井直樹が即答した。


「入ってるわ!」


「なら、無理に香水を使う必要はないやろ。強い香りが苦手な人もいるしな」


 山本和也が、真面目な顔で続けた。


「相手の好みも分からんのに、香りで印象を操作しようとするのは効率が悪い」


「お前は何でも分析するなあ」


 石田雄二が笑った。


 森川信也は、少し得意げに口を開いた。


「俺は今度のデート、ちょっと大人っぽい店にしようと思ってる」


「またデートかよ!」


 中村拓郎が叫んだ。


「ええやろ。次も会う約束ができたんやから」


 森川は、以前より少し落ち着いた表情をしていた。


「ただ、今度は俺ばっかりしゃべらんようにするわ。前回、昔の野球の話ばっかりしてもうたからな」


「おお、成長してるやん」


 田村が感心した。


 健太は黙って聞いていた。


 森川は、失敗を振り返り、次の機会に生かそうとしている。


 一方の自分は、真紀の何気ない仕草を何度も思い出し、そこに意味を探しているだけだった。


「健太はどうなん?」


 藤井に尋ねられ、健太は苦笑した。


「俺は……まだ何もないわ」


「焦らんでええ。ただ、相手の反応を勝手に恋愛のサインに変えんようにな」


「分かってる」


 健太は答えた。


 今度こそ、本当に分かっているつもりだった。


 女性の優しさは、必ずしも恋愛感情ではない。


 近くで話したからといって、特別な関係になったわけではない。


 相手の何気ない仕草を、自分の都合のいい物語に変えてはいけない。


 頭では理解できる。


 けれど、心は思いどおりにならなかった。


     *


 通話を終えた健太は、風呂に入ったあと、鏡の前に立った。


 髪を整え、顔を見つめる。


 三十五歳。


 若いころに思い描いていた自分とは、ずいぶん違う。


 四十歳になるころには、恋人くらいできていると思っていた。


 誰かと食事をして、休日を一緒に過ごし、自然に手をつなぐ。


 そんな未来が、当たり前のように訪れると思っていた。


 しかし現実は、何も変わっていない。


 真紀の香りも、雨に濡れた髪も、彼女の笑顔も、すべて健太の記憶の中にあるだけだった。


 彼女が同じ光景を覚えているかどうかさえ、分からない。


 健太は鏡から目をそらした。


「……次は、もうちょっと頑張ろう」


 誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。


 努力すれば、いつか報われる。


 そう信じていたかった。


 だが、恋愛は、努力した人から順番に報われる競技ではない。


 その当たり前の事実を、健太が本当に受け入れるまでには、まだ長い時間が必要だった。

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