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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第2章 2020年夏――恋愛作戦会議、開幕

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第35話 初めての夜景デート、誘われたのは俺ではなかった

 十月十八日、日曜日。


 ドリーム・エース・ナインの試合は、午後からの予定だった。


 午前中、健太は自宅の鏡の前で、いつもより長く身だしなみを整えていた。


 白いシャツに、紺色のジャケット。


 普段の草野球では着ない服だった。


「今日は野球やろ? なんでそんな格好してんの?」


 母の美代子が、洗濯物を畳みながら不思議そうに尋ねた。


「試合のあと、ちょっと用事があるかもしれんから」


「用事って、女の人?」


「ちゃうわ!」


 即座に否定したものの、健太の耳は赤くなった。


 実際には、何の予定もない。


 ただ、試合後に佐藤真紀から連絡が来る可能性を、勝手に想像していただけだった。


 そんな自分が情けない。


 それでも、少しでも格好よく見られたいと思ってしまう。


 健太は鏡の中の自分に向かって、小さくうなずいた。


「よし。今日は違うぞ」


 何が違うのか、自分でも分からなかった。


     *


 グラウンドでは、すでに田村剛たちが準備を始めていた。


「おい、健太。お前、今日なんか雰囲気ちゃうな」


 松田浩一が、健太のジャケットを見て笑った。


「大人の男は、服装から違うんや」


「試合前に言うセリフちゃうやろ」


 藤井直樹が苦笑した。


 森川信也は、いつもの自信満々な表情で腕を組んでいた。


「恋愛も野球も、まずは自信や。俺なんか今度、女の子と夜景を見に行くことになったからな」


「は?」


 健太は思わず振り向いた。


「誰と?」


「この前、知り合った子や。話が合うねん。夜景の見える店を予約した」


「二人で?」


「当たり前やろ」


 森川は胸を張った。


 健太の心に、黒い感情が湧いた。


 自分は、女性と食事に行く予定すらない。


 森川は、夜景の見える店で女性と過ごす。


 同じ高校で野球をしていた仲間なのに、どうしてこんなに差がついたのだろう。


「まあ、まだ付き合ってるわけちゃうけどな」


 森川は少しだけ声を落とした。


「相手が楽しんでくれたら、それでええと思ってる」


「お前、まともなこと言えるんやな」


 石田雄二が感心した。


「俺を誰やと思ってんねん!」


 いつもの調子に戻った森川を見て、全員が笑った。


 健太も笑った。


 だが、胸の奥には焦りが残った。


     *


 試合は、散々な結果に終わった。


 健太は三塁の守備で送球を一つ暴投し、打席では三打数無安打。


 森川は先発したものの、四球を連発して二回で降板した。


「次は絶対に抑える!」


「そのセリフ、今年何回目やねん」


 田村の指摘に、森川は言い返せなかった。


 試合後、十二人はベンチに集まり、コンビニで買った飲み物を飲んでいた。


 そのとき、森川のスマートフォンが鳴った。


「お、来た」


 画面を見た森川の顔が、急に緩んだ。


「なんやねん、その顔」


 中村拓郎が身を乗り出した。


「今夜の待ち合わせの確認や。相手が、店のあとに夜景も見たいって」


「うおおお!」


 岡本修が大声を上げた。


「森川、お前、もう勝ち確やんけ!」


「いや、まだ何も始まってへん」


 森川はそう答えたが、口元は隠しきれないほど緩んでいた。


 健太は、そのやり取りを黙って聞いていた。


 女性のほうから、夜景を見たいと言う。


 自分には想像もできない展開だった。


 しかも森川は、特別に格好よくもない。運動能力だって、高校時代の実績に頼っているところがある。


 それでも、女性と出かける機会を得ている。


 何が違うのだろう。


「健太」


 藤井が声をかけた。


「また考え込んでるやろ」


「そら考えるわ。お前ら、次々と恋愛が進んでいくやんけ」


「進んでるように見えるだけかもしれんで」


「森川は夜景やぞ」


「夜景を見に行くことと、恋人になることは別やろ」


 正論だった。


 健太は黙った。


 正論だからこそ、余計に腹が立つ。


     *


 午後七時。


 森川は駅前の商業施設で、待ち合わせ相手の女性と合流した。


 彼女の名前は、ゆかり。


 三十二歳の会社員で、共通の知人を通じて知り合った女性だった。


 落ち着いた色のワンピースに、薄手のコート。


 髪からほのかに香る香水が、森川の緊張をさらに高めた。


「こんばんは。待ちました?」


「いや、俺も今来たところ」


 実際には、三十分前から待っていた。


 だが、森川はそれを言わなかった。


 二人は予約した店へ向かった。


 窓際の席からは、街の明かりが見えた。


 料理が運ばれ、グラスの表面には細かな水滴が浮かんでいた。


 森川は最初こそ緊張していたが、ゆかりが野球の話を面白がって聞いてくれたことで、少しずつ自然に話せるようになった。


「高校時代、そんなに強かったんですか?」


「まあな。今は草野球やけど、当時は本気で甲子園を目指してた」


「すごいですね」


 その言葉に、森川の胸が熱くなった。


 だが、すぐに昔の自慢話ばかりになりかけた自分に気づいた。


 彼女は、過去の実績を聞くためだけに来たわけではない。


「ごめん。俺、昔の話ばっかりしてるな。ゆかりさんは、休みの日は何してるん?」


 そう尋ねると、彼女はうれしそうに話し始めた。


 最近始めたウォーキング。


 休日に訪れたカフェ。


 仕事で失敗した日のこと。


 森川は、ときどき自分の話を挟みながら、彼女の話を聞いた。


 食事のあと、二人は展望スペースへ向かった。


 夜景が広がっていた。


「きれいですね」


「せやな」


 森川は、何か気の利いたことを言おうとした。


 だが、言葉が出てこなかった。


 ゆかりが笑った。


「森川さん、さっきから急に静かですね」


「いや……こういうとき、何を言うたらええんか分からんくて」


「無理に何か言わなくてもいいですよ」


 その言葉に、森川は肩の力を抜いた。


 二人はしばらく、黙って夜景を眺めた。


 その時間は、森川が想像していたような劇的なものではなかった。


 キスもなければ、恋人になる約束もない。


 ただ、一緒に食事をして、話をして、同じ景色を見ただけだった。


 それでも、森川にとっては十分に特別な夜だった。


     *


 同じころ、健太は自宅の部屋でスマートフォンを見ていた。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットに、森川から写真が送られてきた。


 夜景の写真だった。


『今日は楽しかった。また会う約束もできたわ』


 仲間たちから、祝福のメッセージが次々と届いた。


 健太は画面を見つめた。


 胸が痛かった。


 羨ましい。


 悔しい。


 自分も、あんな時間を過ごしてみたい。


 女性と向かい合って食事をし、少し緊張しながら話をして、帰り道に「また会いたい」と思ってもらう。


 そんな普通のことが、自分には遠い世界の出来事に感じられた。


 健太は、真紀とのメッセージ画面を開いた。


 最後のやり取りは、ボランティア活動への参加確認だった。


 そこから、何も進んでいない。


 新しいメッセージを送ろうとして、指が止まった。


 用事もないのに連絡したら、迷惑だろうか。


 それとも、少しくらい積極的になったほうがいいのだろうか。


 また、正解を探し始めていた。


 健太はスマートフォンを伏せた。


「……俺は、何をやってるんやろ」


 部屋は静かだった。


 窓の外では、車が一台通り過ぎていった。


 夜景を見ながら誰かと笑っている森川。


 その一方で、健太は一人きりの部屋で、他人の幸せを羨んでいる。


 同じチームで、同じグラウンドに立っていたはずなのに。


 いつの間にか、人生の試合では大きな差がつき始めていた。


 そして健太はまだ知らなかった。


 仲間たちが少しずつ自分の生活を変え、恋愛だけでなく健康や将来にも向き合い始めていることを。


 彼らは、まだ完璧ではない。


 失敗もするし、迷いもする。


 それでも、一歩ずつ前へ進んでいた。


 健太だけが、答えを探すことに時間を使い、最初の一歩を踏み出せずにいた。


 次のボランティア活動は、十月下旬。


 真紀に会えるかもしれない。


 健太は、もう一度スマートフォンを手に取った。


 そして、検索欄に文字を打ち込んだ。


『女性が本当に好きな男性にだけ見せる態度』


 画面には、無数の記事が並んでいた。


 健太は、その一つを開いた。


 夜は、まだ長かった。

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