第35話 初めての夜景デート、誘われたのは俺ではなかった
十月十八日、日曜日。
ドリーム・エース・ナインの試合は、午後からの予定だった。
午前中、健太は自宅の鏡の前で、いつもより長く身だしなみを整えていた。
白いシャツに、紺色のジャケット。
普段の草野球では着ない服だった。
「今日は野球やろ? なんでそんな格好してんの?」
母の美代子が、洗濯物を畳みながら不思議そうに尋ねた。
「試合のあと、ちょっと用事があるかもしれんから」
「用事って、女の人?」
「ちゃうわ!」
即座に否定したものの、健太の耳は赤くなった。
実際には、何の予定もない。
ただ、試合後に佐藤真紀から連絡が来る可能性を、勝手に想像していただけだった。
そんな自分が情けない。
それでも、少しでも格好よく見られたいと思ってしまう。
健太は鏡の中の自分に向かって、小さくうなずいた。
「よし。今日は違うぞ」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
*
グラウンドでは、すでに田村剛たちが準備を始めていた。
「おい、健太。お前、今日なんか雰囲気ちゃうな」
松田浩一が、健太のジャケットを見て笑った。
「大人の男は、服装から違うんや」
「試合前に言うセリフちゃうやろ」
藤井直樹が苦笑した。
森川信也は、いつもの自信満々な表情で腕を組んでいた。
「恋愛も野球も、まずは自信や。俺なんか今度、女の子と夜景を見に行くことになったからな」
「は?」
健太は思わず振り向いた。
「誰と?」
「この前、知り合った子や。話が合うねん。夜景の見える店を予約した」
「二人で?」
「当たり前やろ」
森川は胸を張った。
健太の心に、黒い感情が湧いた。
自分は、女性と食事に行く予定すらない。
森川は、夜景の見える店で女性と過ごす。
同じ高校で野球をしていた仲間なのに、どうしてこんなに差がついたのだろう。
「まあ、まだ付き合ってるわけちゃうけどな」
森川は少しだけ声を落とした。
「相手が楽しんでくれたら、それでええと思ってる」
「お前、まともなこと言えるんやな」
石田雄二が感心した。
「俺を誰やと思ってんねん!」
いつもの調子に戻った森川を見て、全員が笑った。
健太も笑った。
だが、胸の奥には焦りが残った。
*
試合は、散々な結果に終わった。
健太は三塁の守備で送球を一つ暴投し、打席では三打数無安打。
森川は先発したものの、四球を連発して二回で降板した。
「次は絶対に抑える!」
「そのセリフ、今年何回目やねん」
田村の指摘に、森川は言い返せなかった。
試合後、十二人はベンチに集まり、コンビニで買った飲み物を飲んでいた。
そのとき、森川のスマートフォンが鳴った。
「お、来た」
画面を見た森川の顔が、急に緩んだ。
「なんやねん、その顔」
中村拓郎が身を乗り出した。
「今夜の待ち合わせの確認や。相手が、店のあとに夜景も見たいって」
「うおおお!」
岡本修が大声を上げた。
「森川、お前、もう勝ち確やんけ!」
「いや、まだ何も始まってへん」
森川はそう答えたが、口元は隠しきれないほど緩んでいた。
健太は、そのやり取りを黙って聞いていた。
女性のほうから、夜景を見たいと言う。
自分には想像もできない展開だった。
しかも森川は、特別に格好よくもない。運動能力だって、高校時代の実績に頼っているところがある。
それでも、女性と出かける機会を得ている。
何が違うのだろう。
「健太」
藤井が声をかけた。
「また考え込んでるやろ」
「そら考えるわ。お前ら、次々と恋愛が進んでいくやんけ」
「進んでるように見えるだけかもしれんで」
「森川は夜景やぞ」
「夜景を見に行くことと、恋人になることは別やろ」
正論だった。
健太は黙った。
正論だからこそ、余計に腹が立つ。
*
午後七時。
森川は駅前の商業施設で、待ち合わせ相手の女性と合流した。
彼女の名前は、ゆかり。
三十二歳の会社員で、共通の知人を通じて知り合った女性だった。
落ち着いた色のワンピースに、薄手のコート。
髪からほのかに香る香水が、森川の緊張をさらに高めた。
「こんばんは。待ちました?」
「いや、俺も今来たところ」
実際には、三十分前から待っていた。
だが、森川はそれを言わなかった。
二人は予約した店へ向かった。
窓際の席からは、街の明かりが見えた。
料理が運ばれ、グラスの表面には細かな水滴が浮かんでいた。
森川は最初こそ緊張していたが、ゆかりが野球の話を面白がって聞いてくれたことで、少しずつ自然に話せるようになった。
「高校時代、そんなに強かったんですか?」
「まあな。今は草野球やけど、当時は本気で甲子園を目指してた」
「すごいですね」
その言葉に、森川の胸が熱くなった。
だが、すぐに昔の自慢話ばかりになりかけた自分に気づいた。
彼女は、過去の実績を聞くためだけに来たわけではない。
「ごめん。俺、昔の話ばっかりしてるな。ゆかりさんは、休みの日は何してるん?」
そう尋ねると、彼女はうれしそうに話し始めた。
最近始めたウォーキング。
休日に訪れたカフェ。
仕事で失敗した日のこと。
森川は、ときどき自分の話を挟みながら、彼女の話を聞いた。
食事のあと、二人は展望スペースへ向かった。
夜景が広がっていた。
「きれいですね」
「せやな」
森川は、何か気の利いたことを言おうとした。
だが、言葉が出てこなかった。
ゆかりが笑った。
「森川さん、さっきから急に静かですね」
「いや……こういうとき、何を言うたらええんか分からんくて」
「無理に何か言わなくてもいいですよ」
その言葉に、森川は肩の力を抜いた。
二人はしばらく、黙って夜景を眺めた。
その時間は、森川が想像していたような劇的なものではなかった。
キスもなければ、恋人になる約束もない。
ただ、一緒に食事をして、話をして、同じ景色を見ただけだった。
それでも、森川にとっては十分に特別な夜だった。
*
同じころ、健太は自宅の部屋でスマートフォンを見ていた。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットに、森川から写真が送られてきた。
夜景の写真だった。
『今日は楽しかった。また会う約束もできたわ』
仲間たちから、祝福のメッセージが次々と届いた。
健太は画面を見つめた。
胸が痛かった。
羨ましい。
悔しい。
自分も、あんな時間を過ごしてみたい。
女性と向かい合って食事をし、少し緊張しながら話をして、帰り道に「また会いたい」と思ってもらう。
そんな普通のことが、自分には遠い世界の出来事に感じられた。
健太は、真紀とのメッセージ画面を開いた。
最後のやり取りは、ボランティア活動への参加確認だった。
そこから、何も進んでいない。
新しいメッセージを送ろうとして、指が止まった。
用事もないのに連絡したら、迷惑だろうか。
それとも、少しくらい積極的になったほうがいいのだろうか。
また、正解を探し始めていた。
健太はスマートフォンを伏せた。
「……俺は、何をやってるんやろ」
部屋は静かだった。
窓の外では、車が一台通り過ぎていった。
夜景を見ながら誰かと笑っている森川。
その一方で、健太は一人きりの部屋で、他人の幸せを羨んでいる。
同じチームで、同じグラウンドに立っていたはずなのに。
いつの間にか、人生の試合では大きな差がつき始めていた。
そして健太はまだ知らなかった。
仲間たちが少しずつ自分の生活を変え、恋愛だけでなく健康や将来にも向き合い始めていることを。
彼らは、まだ完璧ではない。
失敗もするし、迷いもする。
それでも、一歩ずつ前へ進んでいた。
健太だけが、答えを探すことに時間を使い、最初の一歩を踏み出せずにいた。
次のボランティア活動は、十月下旬。
真紀に会えるかもしれない。
健太は、もう一度スマートフォンを手に取った。
そして、検索欄に文字を打ち込んだ。
『女性が本当に好きな男性にだけ見せる態度』
画面には、無数の記事が並んでいた。
健太は、その一つを開いた。
夜は、まだ長かった。




