第34話 終電間際の誘いに、俺は勝手な期待を抱いた
九月の終わり。
仕事を終えた大野健太は、駅前の居酒屋でドリーム・エース・ナインの仲間たちと飲んでいた。
正確には、飲んでいたのは仲間たちで、健太はウーロン茶だった。
酒を飲めば気が大きくなる。昔、それで失敗した経験もある。今夜は余計なことを口にしないためにも、飲まないと決めていた。
「なあ、健太。最近、女の人と二人で飯食ったか?」
石田雄二が、焼き鳥を頬張りながら尋ねた。
「……ない」
「ボランティアで会ってる佐藤さんは?」
「普通に話すだけや」
「連絡先は?」
「聞いたけど、交換してもらえへんかった」
健太が答えると、中村拓郎が身を乗り出した。
「そこで諦めたらあかんやろ。押して押して押しまくれ!」
「いや、藤井は相手の意思を尊重しろって言うてたぞ」
「お前、どっちやねん!」
田村剛の突っ込みに、テーブルが笑いに包まれた。
藤井直樹だけは笑わなかった。
「一回断られたことを、何度も聞いていい理由にしたらあかん。相手が交換したくないなら、それで終わりや」
「分かってるわ」
健太は答えた。
分かっているつもりだった。
ただ、頭では理解していても、胸の中には小さな期待が残っている。
次に会えば、何かが変わるかもしれない。
もう少し格好よくなれば。
もう少し面白い話ができれば。
いつか相手の気持ちが、自分に向くかもしれない。
そんな考えを捨てきれずにいた。
*
午後九時を過ぎたころ、健太のスマートフォンに通知が届いた。
地域ボランティアの連絡グループだった。
『次回の清掃活動は、十月四日の日曜日です。参加できる方は返信をお願いします』
その下に、佐藤真紀から個別のメッセージが届いた。
『大野さん、前回はありがとうございました。次の活動、参加されますか?』
健太は画面を見つめた。
心臓が一度、大きく跳ねた。
彼女から個別に連絡が来た。
それだけで、店内の騒がしい声が遠のいた気がした。
「どないしたん?」
山本和也が画面をのぞこうとする。
「なんでもない!」
健太は慌ててスマートフォンを伏せた。
「その反応、なんでもない奴の反応ちゃうやろ」
「うるさいわ!」
仲間たちの追及をかわしながら、健太は返信を考えた。
『参加します。佐藤さんも来られますか?』
打ち込んでから、消した。
馴れ馴れしいだろうか。
ならば、こうか。
『参加します。よろしくお願いします』
それでは素っ気ない気もした。
結局、最初の文章に戻して送信した。
数分後、返信が届いた。
『はい、参加する予定です! 当日はよろしくお願いします』
最後に、笑顔の絵文字が一つ。
健太はスマートフォンを握りしめた。
たったそれだけのやり取りだった。
けれど、頭の中では勝手に物語が始まっていた。
清掃活動の帰りに二人きりになる。
近くのカフェに誘う。
夕暮れの窓際で向かい合い、普段は聞けない話をする。
彼女が少し照れたように笑う。
そして、帰り際に連絡先を交換する。
――いや、待て。
健太は頭を振った。
まだ何も起きていない。
彼女は、次の活動について確認しただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう自分に言い聞かせた。
しかし、胸の奥に灯った期待は消えなかった。
*
十月四日。
朝から曇り空だった。
集合場所に着いた健太は、軍手をはめながら真紀を探した。
彼女は少し離れた場所で、若い男性ボランティアと話していた。
男性は二十代後半くらいだろうか。清潔感のある服装で、話し方も自然だった。
「この前教えてもらった店、行ってみたんですよ」
「本当ですか? どうでした?」
「おすすめのケーキ、すごくおいしかったです」
二人は楽しそうに笑った。
健太の胸に、鈍い痛みが走る。
自分の知らない会話。
自分の知らない店。
自分の知らない真紀の笑顔。
頭の中に、嫌な想像が浮かんだ。
付き合っているのだろうか。
いや、単なる友達かもしれない。
そもそも、自分には関係のないことだ。
「大野さん、おはようございます!」
真紀が気づいて手を振った。
「お、おはようございます」
「今日も来てくださったんですね。助かります」
彼女はいつもどおりの笑顔だった。
健太は、その笑顔に救われた気がした。
だが同時に、期待してしまう自分もいた。
彼女は自分が来たことを喜んでいる。
だから、自分は特別なのではないか。
その考えが頭をよぎった瞬間、健太は慌てて作業に集中した。
ゴミ袋を持ち、歩道のごみを拾い、植え込みの周辺を清掃する。
真紀とは何度か言葉を交わしたが、二人きりになる機会はなかった。
活動が終わるころには、空から小さな雨粒が落ち始めていた。
「皆さん、今日はありがとうございました!」
真紀が参加者に頭を下げた。
そのあと、彼女は健太のところへやってきた。
「大野さん、また次回も来られそうですか?」
「はい。予定が合えば」
「よかった。大野さん、こういう作業を丁寧にしてくださるから」
また、褒められた。
健太の胸が熱くなる。
今なら、誘えるかもしれない。
活動の帰りに、お茶でもどうですか。
その一言を言うだけだ。
だが、口を開いた瞬間、彼女が困った顔をする光景が浮かんだ。
もし断られたら。
もし、今までの関係まで気まずくなったら。
結局、健太は言葉を飲み込んだ。
「ありがとうございます。また来ます」
「はい、よろしくお願いします!」
真紀は笑顔で会釈し、先ほどの男性のもとへ戻っていった。
健太は、その背中を見送った。
また、何もできなかった。
*
帰宅途中、健太は駅のホームでスマートフォンを取り出した。
検索欄に入力する。
『女性から自然に食事に誘ってもらう方法』
検索結果には、さまざまな記事が並んでいた。
自信を持て。
余裕を見せろ。
相手の話をよく聞け。
清潔感を大切にしろ。
どれも間違いではないように思えた。
しかし、読み進めるほど、分からなくなった。
自信を持つことと、相手の気持ちを無視することは違う。
余裕を見せることと、好意を隠して駆け引きすることも違う。
相手の話をよく聞いたからといって、恋人になれるわけではない。
記事の最後には、こう書かれていた。
『恋愛に絶対の正解はありません』
「……そんなこと、分かってるわ」
健太は小さくつぶやいた。
分かっている。
それでも、正解が欲しかった。
失敗しない方法が欲しかった。
断られずに済む言葉が欲しかった。
自分の努力が、確実に報われる仕組みが欲しかった。
電車がホームに滑り込んできた。
健太はスマートフォンをポケットにしまい、乗り込んだ。
窓に映った自分の顔は、思っていたより疲れていた。
三十五歳。
仕事もしている。
友人もいる。
草野球を続けている。
それなのに、恋愛のことになると、自分だけが取り残されている気がした。
誰かに選ばれたい。
誰かに必要とされたい。
誰かと手をつないで、帰り道を歩いてみたい。
その願い自体は、悪いことではないはずだ。
ただ、その願いが強くなりすぎると、相手の気持ちより、自分の期待を優先してしまう。
健太はまだ、そのことを本当の意味では理解していなかった。
スマートフォンが震えた。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットだった。
『次の試合、十月十八日で決定! 全員参加な!』
田村からの連絡に、仲間たちが次々と返信している。
健太も短く返した。
『了解!』
恋愛では何も進まなかった。
それでも、次の試合はある。
仲間たちと笑える場所は、まだ残っている。
健太は窓の外を見た。
次こそは。
今度こそは。
そう思いながら、彼はまた、答えのない夜へと帰っていった。




