第33話 恋愛マニュアルを信じた男は、相手の気持ちを見失う
2020年9月。
九月に入っても、大阪の暑さは簡単には引かなかった。
工場の中は蒸し暑く、仕事を終える頃には作業着が汗で重くなっている。
俺は帰宅すると、シャワーを浴びてから冷蔵庫を開けた。
冷えた麦茶を飲み、ソファに座る。
テレビをつけても、内容は頭に入ってこなかった。
最近、気になっていることがある。
どうすれば、女性に好かれるのだろう。
真紀さんに連絡先の交換を断られてから、俺は相手の気持ちを尊重することの大切さを考えるようになった。
けれど、考えれば考えるほど、分からなくなることもあった。
距離を詰めすぎてはいけない。
しかし、何もしなければ関係は進まない。
相手の話を聞く。
だが、自分のことも知ってもらわなければならない。
好意を押しつけてはいけない。
それでも、好意を伝えなければ、相手に気づいてもらえないこともある。
どこまでが自然な行動で、どこからが迷惑なのか。
俺には、その境界線がよく分からなかった。
「……何か、分かりやすい方法はないのかよ」
独り言をこぼしながら、スマートフォンを手に取った。
検索欄に文字を入力する。
『三十五歳 恋愛経験なし 女性に好かれる方法』
画面には、いくつもの記事が表示された。
清潔感を大切にする。
相手の話をよく聞く。
自分に自信を持つ。
女性の気持ちを考える。
どれも、間違っているとは思えなかった。
さらに検索する。
『女性が男性に好意を持っているサイン』
今度は、別の情報が並んだ。
よく目が合う。
笑顔が多い。
質問をしてくる。
会話を続けようとする。
俺は画面を見つめた。
真紀さんは、俺に笑顔を向けてくれた。
質問もしてくれた。
また一緒に作業できたら嬉しい、とも言ってくれた。
しかし、連絡先の交換は断られた。
「……どっちなんだよ」
俺は思わず声に出した。
好意があるように見える行動と、距離を縮めたくないという意思。
その二つが、俺の中でうまく整理できなかった。
記事を読み進めると、最後にこう書かれていた。
相手の気持ちは、本人にしか分からない。
結局、そこに行き着く。
俺はスマートフォンを置いた。
それでも、検索をやめることはできなかった。
何か一つでも、確かな答えが欲しかったのだ。
*
翌日の昼休み。
俺は、ドリーム・エース・ナインのグループチャットにメッセージを送った。
『健太:女性に好かれる方法を調べてるんだけど、何かいい本とかサイトを知らないか?』
すぐに中村から返信が来た。
『中村:恋愛系の動画を見ろ。成功してる男のやり方を真似すればいい』
続いて、森川。
『森川:清潔感と自信だな。俺も最近、意識してる』
山本は、相変わらず分析的だった。
『山本:相手の年齢、性格、交友関係によって有効な行動は変わる。まずは情報収集が必要だ』
最後に藤井からメッセージが届いた。
『藤井:方法を探すのはいいけど、相手を攻略対象みたいに考えるなよ』
俺は、その文章を見て少し考えた。
攻略対象。
確かに、俺はそういう考え方をしていたのかもしれない。
何をすれば好かれるのか。
どんな言葉をかければ距離が縮まるのか。
どう行動すれば、恋人になれるのか。
恋愛を、正解のある試験のように考えていた。
けれど、藤井の言葉が気になりながらも、俺は中村が勧めた動画を開いてしまった。
画面の中では、派手な服装の男性が自信満々に話していた。
「女性に遠慮しすぎる男は、恋愛対象になりにくい。大切なのは、自分の意思を持つことです」
俺はうなずいた。
自分の意思を持つ。
それは、必要なことだと思う。
「相手の反応を気にしすぎて、何もできない男になってはいけません」
さらに、男性は続けた。
「ただし、相手の嫌がることを押しつけてはいけません。大切なのは、相手の反応を見ながら行動することです」
その部分も、もっともらしく聞こえた。
問題は、俺が相手の反応を正しく読み取れるかどうかだった。
俺は動画を保存し、次の動画を再生した。
気づけば、休憩時間が終わりかけていた。
*
その週末、俺は久しぶりに姉の真紀に電話をした。
姉は結婚しており、俺よりも恋愛や家庭生活の経験がある。
ただし、遠慮のない性格なので、相談するときには少し覚悟が必要だった。
「何よ、珍しいじゃない」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「お金なら貸さないわよ」
「違う!」
電話の向こうで、姉が笑った。
「で、何?」
俺は、佐藤真紀さんのことを説明した。
ボランティアで知り合ったこと。
何度か話をしたこと。
連絡先を尋ねたら、交換はしないと断られたこと。
姉は、最後まで黙って聞いていた。
「それで、あんたはどうしたいの?」
「……また会ったら、普通に話したい」
「それだけ?」
「できれば、もっと仲良くなりたい」
「じゃあ、そうなんじゃないの」
「何が?」
「今は普通に話せばいいってことよ。相手が個人的な連絡先を交換しないって言ったなら、それを尊重する。次に会ったときも、相手が話したそうなら話す。それだけでしょ」
「でも、何もしなかったら、いつまでも進展しないんじゃないか?」
姉は、少し間を置いた。
「あんたさ、恋愛を進展させることばっかり考えてない?」
俺は言葉に詰まった。
「相手と仲良くなりたいんでしょ? だったら、相手がどういう人なのか知ることも大切じゃない。付き合うことだけが目的なら、相手が誰でもいいみたいに聞こえるわよ」
「そんなつもりじゃない」
「分かってる。でも、あんたは焦ると、自分の気持ちばっかりになるから」
姉の声は、思ったよりも穏やかだった。
「好きになるのは自由よ。でも、相手にも好きになる自由がある。あんたが頑張ったからって、相手が同じ気持ちにならなきゃいけないわけじゃない」
俺は黙って聞いていた。
「それに、あんた自身はどうなの? 相手に好かれるために、何かを変えようとしてる?」
「清潔感とか、会話の仕方とか……」
「それは悪いことじゃない。でも、相手に好かれるためだけに変えると、うまくいかなかったときに相手を恨むことになるわよ」
「……」
「自分がそうなりたいと思うから変える。それが先でしょ」
姉の言葉は、耳が痛かった。
俺は女性に好かれたい。
恋人が欲しい。
そのために、自分を変えようとしている。
だが、もし何をしても恋人ができなかったら。
努力したのに報われなかったら。
そのとき、俺はどうするのだろう。
相手が悪いと考えるのか。
女性は見る目がないと考えるのか。
それとも、自分には価値がないと考えるのか。
どれも、健全な答えには思えなかった。
「……分かった。ありがとう」
「分かったならいいけど」
姉は、いつもの調子に戻った。
「あと、相手の名前を間違えないようにね」
「何でだよ!」
「あんた、昔から自分のことで頭がいっぱいになると、人の話を聞いてないから」
俺は反論しようとしたが、言葉が出なかった。
姉は笑って、電話を切った。
*
九月中旬。
俺は、ボランティア団体から届いた案内を確認した。
次回の活動は、翌週の日曜日。
参加申し込みを済ませる。
佐藤真紀さんが来るかどうかは分からない。
以前なら、参加者の情報を何とかして知ろうとしたかもしれない。
だが、今回は案内に書かれている内容だけを確認した。
俺は活動に参加する。
それ以上のことは、まだ決まっていない。
そう考えた。
ところが、その夜。
森川から電話がかかってきた。
「健太、ちょっと相談がある」
「何だよ。今度は何をやらかした?」
「失礼だな。俺は真剣なんだよ」
森川は、先日食事に行った女性と、もう一度会う約束をしたという。
「それで、次はどうしたらいいと思う?」
「どうしたらって、普通に会って話せばいいだろ」
「それは分かってる。でも、二回目だぞ。そろそろ、俺の気持ちを伝えた方がいいのかなって」
「まだ早いんじゃないか?」
俺は、思いついたまま答えた。
森川は黙った。
「……そうか。早いか」
「いや、相手の気持ちが分からないから、何とも言えないけど」
「だよな」
電話の向こうで、森川がため息をついた。
「俺、今まで相手の反応を気にせず突っ走って、何度も失敗してきたからな。今回は、同じことをしたくないんだよ」
俺は、少し驚いた。
森川も、森川なりに悩んでいる。
恋愛経験が少ないのは、俺だけではない。
誰だって、相手の気持ちを完全に知ることはできない。
「森川。気持ちを伝えるかどうかは、お前が決めることだと思う。でも、相手がどう答えても受け止める覚悟は必要だろうな」
「……お前、まともなこと言うじゃん」
「失礼だな」
二人で笑った。
電話を切ったあと、俺はしばらく考えていた。
森川は、恋愛を進めることだけを考えているわけではない。
相手の気持ちを傷つけたくない。
自分も、もう無駄に傷つきたくない。
その両方を考えているのだ。
そして、俺も同じだった。
真紀さんに会いたい。
もっと話したい。
できれば、好きになってもらいたい。
それでも、彼女が望まないことを強いるつもりはない。
その気持ちは、本物だと思いたかった。
だが、俺はまだ、自分の期待が裏切られたときにどうなるのかを知らない。
今は、相手を尊重できているつもりでも、もっと強く好きになったとき、同じように振る舞えるのだろうか。
自信はなかった。
*
九月二十日、日曜日。
俺は、ボランティア活動の集合場所に向かった。
少し早く着いたため、道具の準備を手伝う。
参加者が一人、また一人と集まってきた。
その中に、佐藤真紀さんの姿があった。
「あ、大野さん。おはようございます」
「おはようございます」
俺は、自然に挨拶をした。
彼女も、いつもと変わらない様子だった。
連絡先のことには触れない。
俺も、触れなかった。
作業が始まると、俺たちは別々の場所を担当した。
昼前、道具を運ぶときに一度だけ言葉を交わした。
「大野さん、そちらは大丈夫ですか?」
「はい。こっちは終わりました。何か手伝いましょうか?」
「では、あちらの袋をお願いできますか?」
「分かりました」
それだけだった。
特別な会話もなければ、二人きりになることもなかった。
活動が終わると、真紀さんはほかの参加者と一緒に帰っていった。
俺は、その姿を見送りながら、少しだけ寂しさを感じた。
もっと話したかった。
けれど、今日はこれでいい。
無理に会話を増やす必要はない。
相手が望んでいないかもしれないことを、勝手に押しつけない。
そう考えた。
ところが、帰宅してからスマートフォンを確認すると、森川からメッセージが届いていた。
『森川:今日、二回目の食事に行ってきた。今度、また会う約束もできた』
俺は画面を見つめた。
森川は、少しずつ前に進んでいる。
俺は、同じ場所に立っている。
いや、正確には違う。
俺も、少しずつ学んでいる。
ただ、学ぶことと、恋愛が進展することは別なのだ。
その事実が、胸に重くのしかかった。
俺は返信した。
『健太:よかったな。相手の話、ちゃんと聞けたか?』
『森川:聞けたよ。俺の話も聞いてくれた。次も会いたいって言ってくれたから、素直に嬉しかった』
俺は、短く返した。
『健太:頑張れよ』
送信してから、スマートフォンを伏せた。
羨ましかった。
悔しかった。
そして、自分だけが取り残されていくような気がした。
その感情を、俺はまだうまく扱えなかった。
だから、また検索してしまう。
女性に好かれる方法。
三十五歳から恋愛を始める方法。
恋愛経験がない男が、最初にするべきこと。
画面の中には、いくらでも答えが並んでいた。
だが、どれだけ読んでも、真紀さんが俺をどう思っているのかは分からない。
森川の恋が、これからどうなるのかも分からない。
そして、俺自身が、次にどんな失敗をするのかも分からなかった。
それでも俺は、答えを探し続けた。
自分が傷つかずに済む方法を。
女性に拒絶されない方法を。
努力すれば、いつか必ず報われると信じられる方法を。
その願いこそが、俺を少しずつ間違った方向へ導いていることに、まだ気づかないまま。
恋愛には、誰にでも通用する正解がある。
俺は、そう信じたかったのだ。




