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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第2章 2020年夏――恋愛作戦会議、開幕

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第32話 初デートの報告会、そして俺だけが知らない現実

 2020年8月30日、日曜日。


 ドリーム・エース・ナインの練習は、いつもより早く終わった。


 理由は単純だった。


 森川信也が、練習中ずっと落ち着かなかったからだ。


「おい、森川! 打球を見ろ!」


「分かってる!」


「分かってないからエラーしてんだろ!」


 三塁へのゴロを後逸した森川に、田村が怒鳴った。


 森川はボールを拾いながら、何度もスマートフォンを確認している。


 女性との食事。


 それが今日の森川にとって、野球より重要らしい。


「お前、そんなに気になるなら帰ればいいだろ」


 俺が言うと、森川は真顔で答えた。


「違うんだよ、健太。これは準備なんだ」


「何の準備だよ」


「会話の準備だ」


「……野球の準備をしろ」


 周囲から笑い声が上がった。


 だが、森川は笑わなかった。


「俺、今回は本気なんだ」


 その言葉だけは、妙に真剣だった。


 高校時代から、森川は自分を大きく見せることが多かった。


 エースだった。


 女性にモテる。


 将来は成功する。


 口にすることは立派だったが、現実が追いつかないと、周囲のせいにすることもあった。


 そんな森川が、今回は自分の欠点を直そうとしている。


 俺は、少しだけ応援したくなった。


「頑張ってこいよ」


「ああ。任せろ」


「何を任せるんだよ」


 藤井のツッコミに、また笑いが起きた。


     *


 その日の夜。


 俺たちは、いつものファミリーレストランに集まった。


 本来なら、森川は女性との食事に出かけているはずだった。


 しかし、本人からグループチャットに報告が入った。


『森川:今、食事終わった。報告会するぞ』


 その一言で、メンバーが集合した。


 恋愛の話になると、こいつらは異常に行動が早い。


「で、どうだった?」


 田村が身を乗り出した。


 森川はドリンクを一口飲み、ゆっくりと口を開いた。


「楽しかった」


「それだけか?」


「いや、いろいろ話したよ。仕事のこととか、趣味のこととか。向こうも俺に質問してくれた」


「おお!」


 中村が声を上げた。


「それ、脈ありじゃねえの?」


 森川は一瞬、得意げな顔をした。


 しかし、すぐに首を振った。


「いや、まだ分からん」


 俺は思わず森川を見た。


 以前の森川なら、女性が質問をしてくれたというだけで、自分に好意があると騒いでいたはずだ。


「……お前、成長したな」


「うるせえ。俺だって学ぶんだよ」


 森川は照れくさそうに笑った。


「それで、次の約束は?」


 山本が尋ねた。


「まだ」


「連絡は?」


「帰ったあと、お礼のメッセージを送った。返事は来たけど、次の約束まではしてない」


「じゃあ、まだ何とも言えないな」


 藤井が言った。


「そういうことだ」


 森川はうなずいた。


「楽しかったのは本当だ。でも、向こうも同じように思ってくれたかどうかは、まだ分からん」


 俺は、その言葉を聞いていた。


 楽しかった。


 それだけでも、森川には一つの経験ができた。


 女性と二人で食事をし、会話をして、帰りにお礼のメッセージを送った。


 その一連の出来事が、俺には眩しかった。


 俺は、真紀さんに連絡先を聞いた。


 そして断られた。


 森川は、女性と食事に行った。


 それでも、まだ恋人になれると決まったわけではない。


 当たり前のことだ。


 だが、俺は自分が経験していないことを、森川が経験したという事実に嫉妬していた。


「健太?」


 石田が俺を呼んだ。


「何だ?」


「大丈夫か?」


「ああ。何でもない」


 俺は笑ってみせた。


 そのとき、森川がこちらを向いた。


「健太。お前、今度のボランティアはいつだ?」


「次は、まだ先だよ」


「そっか」


 森川は少し考えてから言った。


「お前も、焦らずにやればいいんじゃないか。俺だって、今日食事しただけだ。彼女ができたわけじゃない」


「……そうだな」


「それに、断られたからって、お前自身が駄目だってことじゃないだろ」


 俺は返事ができなかった。


 森川に励まされるとは思わなかった。


 しかも、その内容は正しかった。


「ありがとう」


 ようやく、それだけ言えた。


 森川は照れ隠しのようにポテトをつまんだ。


「まあ、俺が先に結婚する可能性もあるけどな」


「お前、今の話を全部台無しにしたぞ」


 藤井が即座に突っ込んだ。


 店内に笑い声が響いた。


 俺も笑った。


 けれど、心の奥に残った焦りまでは、消えなかった。


     *


 帰宅後。


 俺は風呂から上がり、スマートフォンを確認した。


 特に連絡はない。


 当たり前だ。


 真紀さんとは、個人的な連絡先を交換していない。


 団体からの案内以外に、彼女から連絡が来る理由もない。


 それなのに、俺は何度も画面を開いてしまう。


「……馬鹿だな、俺は」


 スマートフォンを伏せた。


 恋愛に慣れていないから、期待する。


 期待するから、相手の行動に意味を探す。


 そして、何も起きなければ、自分が否定されたような気持ちになる。


 森川のように、まずは一度の食事を楽しめればいい。


 そう思った。


 しかし、俺はその段階にすら進めていない。


 その事実が、どうしても引っかかった。


 俺は三十五歳だ。


 同級生の中には、結婚して子どもがいる人間もいる。


 家を建てた者もいれば、仕事で責任ある立場になった者もいる。


 それに比べて、自分は何をしているのだろう。


 そんな考えが、頭の中を回り始めた。


 恋愛がうまくいかないことだけが問題ではない。


 自分の人生が、思っていたほど進んでいないことが怖いのだ。


 恋人ができれば、その焦りも消えるのだろうか。


 誰かに必要とされれば、自分の人生にも意味があると思えるのだろうか。


 俺は、そこで考えるのをやめた。


 そんなものを女性に求めたら、きっとまた間違える。


 誰かに好かれることで、自分の価値を証明しようとする。


 相手が期待どおりに応えてくれなければ、勝手に傷つく。


 それでは、これまでと同じだ。


 俺はスマートフォンを机に置いた。


 明日は仕事だ。


 まずは目の前の生活を、きちんと送ろう。


     *


 翌日の昼休み。


 工場の休憩室で、木村が結婚指輪を回しながら話していた。


「昨日、嫁と子どもの靴を買いに行ったんだよ」


「へえ」


 俺は弁当を食べながら答えた。


「子どもがさ、気に入った靴を見つけたんだけど、値段が予算オーバーで。嫁と相談して、別のにしたんだ」


「子ども、納得したのか?」


「最初は不満そうだったけどな。理由を話したら、最後は自分で選び直してたよ」


 木村は笑った。


「まあ、毎日いろいろあるけど、そういうのも含めて家族だな」


 俺は箸を止めた。


 木村は、特別な話をしているわけではない。


 休日に家族と買い物へ行き、子どもと相談して靴を選ぶ。


 それだけだ。


 しかし、俺にはその話が、遠い世界の出来事のように聞こえた。


 恋人ができる。


 結婚する。


 子どもが生まれる。


 家族で出かける。


 世間では当たり前のように語られる出来事が、俺には一つもない。


「健太は、休みの日は何してるんだ?」


 木村が尋ねた。


「野球とか、家でのんびりしたりとか」


「彼女ができたら、出かける場所も増えるだろうな」


 悪気のない言葉だった。


 木村は、俺を馬鹿にしているわけではない。


 それは分かっている。


 それでも、胸の奥がざわついた。


「……そうだな」


 俺は、曖昧に笑った。


 木村が話を続ける。


「でも、彼女ができたら全部楽しくなるってわけでもないぞ。予定を合わせるのも大変だし、考え方が違うこともあるしな」


「そうなのか?」


「当たり前だろ。相手だって自分の生活があるんだから」


 その言葉は、最近の俺が学び始めたことと同じだった。


 相手には、相手の人生がある。


 自分の寂しさを埋めるためだけに、誰かと付き合うわけにはいかない。


 けれど、俺はまだ、恋人ができたら自分の人生が変わると期待している。


 そこに、自分の問題を解決してほしいという願いが混ざっていないだろうか。


 俺は弁当の残りを口に運んだ。


「木村って、結婚してよかったと思う?」


「そりゃ、よかったと思うよ」


 木村は少し考えてから続けた。


「ただ、結婚したから幸せになったというより、一緒に生活する中で、幸せなことも面倒なことも増えたって感じかな」


 その言葉が、妙に印象に残った。


 結婚は、人生を一発逆転させる魔法ではない。


 恋人ができれば、孤独が完全に消えるわけでもない。


 それでも俺は、誰かと一緒に生きることに憧れていた。


 憧れること自体は、悪くない。


 ただ、その憧れを現実の相手に押しつけてはいけない。


 俺は、また一つだけ覚えておこうと思った。


     *


 その夜。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットに、森川から新しいメッセージが届いた。


『森川:昨日の女性から、また食事に行きましょうって返事が来た』


 俺は画面を見つめた。


 すぐにメンバーが反応する。


『田村:おお!』


『中村:来たな、第二戦!』


『山本:二回目の食事への合意は、少なくとも交流継続の意思を示している可能性が高い』


『藤井:だから、まだ付き合えると決まったわけじゃないって』


『森川:分かってるよ。でも、嬉しいもんは嬉しいだろ』


 最後の一文を読んで、俺は少し笑った。


 森川は、嬉しいことを素直に喜んでいる。


 そのうえで、相手の気持ちが決まったわけではないと理解しようとしている。


 俺も、真紀さんに笑顔を向けられたときは嬉しかった。


 その嬉しさまで否定する必要はない。


 ただ、俺はその先を求めすぎたのかもしれない。


 連絡先を交換できれば。


 二人で話せれば。


 自分を特別に思ってくれれば。


 嬉しい気持ちが生まれるたびに、その気持ちを確かなものにしたくなっていた。


 森川のメッセージに、俺は返信した。


『健太:よかったな。今度も相手の話をちゃんと聞いてこいよ』


 すぐに返事が来た。


『森川:お前に言われなくても分かってる!』


 続けて、藤井からメッセージが届いた。


『藤井:健太も森川も、焦らずにな』


 俺は短く返信した。


『健太:ああ』


 スマートフォンを置いたあと、俺は天井を見上げた。


 森川の恋は、少しずつ前に進んでいる。


 俺の恋は、まだどこにも進んでいない。


 それでも、他人の幸せを喜べる人間でありたいと思った。


 自分が寂しいからといって、仲間の幸せを妬むだけの人間にはなりたくない。


 もっとも、心の底からそう思えるほど、俺はまだ立派ではなかった。


 羨ましい。


 悔しい。


 自分も、あんなふうに誰かから次の約束をもらいたい。


 そんな気持ちは、確かに残っていた。


 それでも、今夜は森川に「おめでとう」と言えた。


 その小さな変化を、俺は自分なりに認めることにした。


 恋愛の正解は、まだ分からない。


 だが、誰かの恋が実ることと、自分の恋が実らないことは、同じ意味ではない。


 そのことだけは、忘れずにいようと思った。


 ――そして俺は、まだ知らなかった。


 仲間の恋が少しずつ進展するほど、自分の焦りが強くなっていくことを。


 焦りが強くなればなるほど、俺は「正しい恋愛の方法」を探し始める。


 そして、正解を急ぐあまり、相手の気持ちよりも、自分の望む結果を優先してしまう日が来ることを。

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