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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第2章 2020年夏――恋愛作戦会議、開幕

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第31話 仲間の恋は進み、俺だけが立ち止まる

 2020年8月下旬。


 佐藤真紀さんに連絡先の交換を断られてから、数日が過ぎた。


 俺は、彼女のことを考えないようにしていた。


 いや、正確には違う。


 考えないようにすればするほど、思い出してしまうのだ。


 あのときの笑顔。


 「また一緒に作業できたら嬉しいです」という言葉。


 そして、個人的な連絡先は交換しないという、はっきりとした返事。


 彼女は何も悪くない。


 それは分かっている。


 分かっているのに、俺の心は勝手に理由を探していた。


 俺のことを男性として見ていないのだろうか。


 年齢が問題なのだろうか。


 それとも、俺の何かが気に入らなかったのだろうか。


 考えても答えは出ない。


 そもそも、彼女が俺を恋愛対象として考えたことがあるのかどうかさえ分からないのだ。


「……やめよう」


 俺はスマートフォンを机に置いた。


 相手の気持ちを尊重すると決めたのに、頭の中では相手の気持ちを勝手に想像している。


 これでは、以前と何も変わっていない。


 俺はため息をつき、着替えを始めた。


 今日は、ドリーム・エース・ナインの練習日だった。


     *


 グラウンドに着くと、森川が大きな声を上げていた。


「おい、聞いてくれ! 俺、今度の日曜日に女性と食事に行くことになった!」


「は?」


 俺は思わず聞き返した。


 森川信也。


 三十五歳。


 高校時代はエースを自称していたが、実際には制球難で、試合のたびに四球を連発していた男だ。


 恋愛に関しても、女性から少し優しくされただけで脈ありだと判断する癖がある。


 その森川が、女性と食事に行くという。


「誰とだよ?」


 田村が尋ねた。


「先月、知り合った人だよ。友達の紹介でな」


「その人、お前のこと好きなの?」


 中村が面白がるように聞いた。


「そこまでは分からん。でも、食事に誘ったらオーケーしてくれたんだ」


「おお!」


 森川は得意げに胸を張った。


「今回は違うぞ。俺は焦らない。相手の話を聞く。藤井から教わったからな」


 藤井が苦笑した。


「俺は、そこまで大層なことは言ってないけどな」


「いや、重要なことだ。今までは俺、自分の話ばかりしてたからな」


 俺は少し驚いた。


 森川が、自分の欠点を認めている。


 それだけでも、珍しいことだった。


「じゃあ、今回はうまくいくかもしれないな」


 俺がそう言うと、森川は笑った。


「だろ? まあ、付き合えるかどうかは分からんけどな。まずは楽しく食事してくるよ」


 その言葉を聞いて、俺は自分の胸がちくりと痛むのを感じた。


 森川には、次の約束がある。


 俺には、連絡先すら交換してもらえなかった女性がいる。


 いや、比べる必要はない。


 森川の恋愛が進んだからといって、俺の価値が下がるわけではない。


 そう考えようとした。


 しかし、心のどこかでは、羨ましいと思っていた。


 俺だって、女性と食事に行きたい。


 誰かと待ち合わせをして、くだらない話をして、帰り道に「今日は楽しかった」と思いたい。


 そんな普通の経験を、俺はまだほとんどしたことがない。


「健太、お前はどうなんだ?」


 突然、森川に話を振られた。


「どうって?」


「例のボランティアの女性だよ。進展したのか?」


 周囲の視線が集まった。


 俺は少し迷ったあと、正直に答えた。


「連絡先を聞いたけど、断られた」


 一瞬、空気が止まった。


「そうか……」


 森川は、意外にも茶化さなかった。


「まあ、そういうこともあるよな」


「そうだな」


「次に行けばいいんじゃないか?」


 その言葉に、俺は顔を上げた。


 森川は悪気なく言ったのだろう。


 しかし、俺はすぐに返事ができなかった。


 次に行けばいい。


 簡単に言えば、そうなのかもしれない。


 だが、俺は真紀さんのことを、まだ好きなのかもしれない。


 連絡先を断られただけで、彼女の人柄まで否定されたわけではない。


 それなのに、すぐに別の女性を探すのは、何か違う気がした。


「……今は、まだいいよ」


 俺は答えた。


「そっか。まあ、無理すんな」


 森川は、それ以上何も言わなかった。


 俺は、その気遣いが少しありがたかった。


     *


 練習が始まった。


 俺は三塁の守備位置につき、ノックを受けた。


 打球が飛んでくる。


 正面のゴロ。


 俺は一歩前に出て、腰を落とした。


 しかし、グラブの先でボールが跳ねた。


「おい、健太! 集中しろ!」


 田村の声が飛ぶ。


「悪い!」


 俺はボールを拾い、返球した。


 次の打球。


 今度は正面だった。


 それなのに、俺は一瞬、動き出しが遅れた。


 ボールがグラブの横を抜けていった。


「何やってんだよ!」


 森川が叫んだ。


「頭の中で恋愛してる場合か!」


「うるさい!」


 俺は思わず言い返した。


 みんなが笑った。


 俺も苦笑した。


 けれど、内心では焦っていた。


 仕事でも、野球でも、恋愛でも。


 俺は何かに気を取られると、目の前のことに集中できなくなる。


 頭の中で何度も同じことを考え、勝手に疲れてしまう。


 恋愛経験が少ないから、というだけではない。


 自分の気持ちを整理するのが、昔から苦手なのだ。


 練習の休憩中、石田が俺の隣に座った。


「健太、気にしすぎるなよ」


「何を?」


「真紀さんのこと」


 俺は黙った。


「断られたのは残念だったと思う。でも、相手がどう思ってるかなんて、本人にしか分からないだろ」


「……そうだな」


「だったら、今はそのままでいいんじゃないか。次に会ったら普通に挨拶する。それで十分だと思うぞ」


 石田は、いつもの穏やかな口調で言った。


 彼は、チームの中でも人の話をよく聞く。


 誰かを励ますときも、無理に前向きな言葉を押しつけない。


「石田って、そういうところが自然にできるよな」


「そうか?」


「俺は、つい余計なことを考えるんだよ」


「俺だって考えるよ。ただ、考えても分からないことは、相手に任せるしかないだろ」


 その言葉に、俺はうなずいた。


 相手に任せる。


 俺にとっては、それが難しい。


 自分が不安になると、すぐに答えが欲しくなる。


 相手が自分をどう思っているのか。


 この先、付き合える可能性があるのか。


 何をすれば好かれるのか。


 答えが分からないまま待つことが苦手だった。


 だから、少し優しくされると期待する。


 期待した分だけ、思い通りにならないと落ち込む。


 そして、落ち込んだ自分をどう扱えばいいのか分からなくなる。


 俺は三十五歳になっても、そんなことを繰り返していた。


     *


 練習が終わったあと、俺たちはいつものファミリーレストランに集まった。


 テーブルには、ドリンクバーのグラスと、山盛りのフライドポテトが並んでいる。


「ところで、森川」


 田村が切り出した。


「食事に行く相手って、どんな人なんだ?」


「明るくて、よく笑う人だよ」


「それだけか?」


「仕事も頑張ってるし、話してて楽しい」


「お前、ちゃんと相手の話を聞いたのか?」


 藤井が尋ねた。


「聞いたよ。仕事のこととか、趣味のこととか」


「自分の話ばかりしてない?」


「……最初は、ちょっとしたかもしれん」


 森川が頭をかいた。


「でも、今回は質問するようにしてる。相手が答えてくれたら、その話をちゃんと聞く。それから、自分の話もする」


「それならいいんじゃないか」


 藤井はうなずいた。


「ただし、質問攻めにするなよ。面接じゃないんだから」


「分かってるって」


 森川は笑った。


 俺は、その会話を聞きながら、少し複雑な気持ちになった。


 森川は、恋愛経験が豊富なわけではない。


 むしろ、これまで何度も失敗している。


 それでも、失敗から何かを学ぼうとしている。


 そして今度は、女性と食事に行く約束を取りつけた。


 俺も、真紀さんとの関係から何かを学びたいと思っている。


 しかし、俺の手元には次の約束がない。


 この違いは何だろう。


 努力の差なのか。


 性格の差なのか。


 それとも、単に縁があるかないかということなのか。


 考えても分からなかった。


「健太」


 藤井が俺を見た。


「お前、また考え込んでるだろ」


「……分かるか?」


「顔に出てる」


 俺は苦笑した。


「森川がうまくいきそうだから、羨ましいんだろ?」


「まあな」


 正直に答えると、藤井は笑わなかった。


「羨ましいと思うのは普通だよ。でも、森川の恋愛とお前の恋愛は別だ。森川がうまくいったからって、お前が失敗したことになるわけじゃない」


「分かってる」


「本当に?」


「……頭ではな」


 藤井は、静かにうなずいた。


「それでいいんじゃないか。頭で分かったことを、少しずつ身につけていけばいい」


 俺はグラスの水を飲んだ。


 冷たい水が喉を通っていく。


 その感覚だけは、はっきりしていた。


     *


 帰宅した夜。


 俺はベッドに横になり、今日のことを振り返った。


 森川には、女性と食事に行く約束がある。


 石田には、人の気持ちを落ち着いて受け止める余裕がある。


 藤井には、過去の失敗を踏まえて助言できる経験がある。


 みんな、俺とは違う。


 そして、俺には俺の課題がある。


 真紀さんに連絡先を断られたことは、もう変えられない。


 けれど、次に会ったときの態度は、自分で選べる。


 普通に挨拶する。


 必要以上に距離を詰めない。


 彼女が話したいと思ってくれたら話す。


 そうでなければ、無理に話しかけない。


 それでいい。


 俺はスマートフォンを手に取り、ボランティア団体の案内ページを開いた。


 次回の活動予定が掲載されている。


 俺は参加できるかどうかを確認し、予定表に書き込んだ。


 真紀さんに会えるかどうかは、分からない。


 会えたとしても、何かが進展するとは限らない。


 それでも、活動そのものに参加したい気持ちは残っていた。


 それは、悪いことではないはずだ。


 スマートフォンを置き、電気を消す。


 暗い部屋の中で、俺は目を閉じた。


 仲間の恋は、少しずつ進んでいく。


 俺の恋は、まだ始まったとさえ言えないのかもしれない。


 それでも、今は焦らない。


 そう決めた。


 ただし、その決意がいつまで続くのか。


 俺自身にも、まだ分からなかった。第31話の位置づけ


- 健太: 真紀に連絡先を断られた経験を整理し、次に会ったときは自然に接しようと考える。ただし、仲間の進展を羨ましく思う気持ちは残る。

- 森川: 初めて、相手の話を聞くことを意識して女性との食事に臨む。今後、恋が実る可能性のあるメンバーの一人。

- 石田・藤井: 健太を慰めるだけでなく、それぞれの長所を見せる。

- 今後の展開: 仲間の恋が進展する一方、健太は少しずつ恋愛の現実を学ぶ。ただし、学んだからといって必ず報われるわけではない。今後は健太自身の思い込みが、もっと深刻な失敗につながっていきます。

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