第30話 優しい女医の言葉は、俺の逃げ道を塞いでいく
八月十八日、火曜日。
俺は、仕事帰りの車の中で、助手席に置いた診察券を眺めていた。
父親の次回の通院日が近づいている。
七月から、俺は父親の通院に付き添うようになった。
最初は、父親が一人で病院に行くのを心配した母親に頼まれたからだった。
しかし、最近は少し違う。
父親の体調が気になるのはもちろんだ。
それに加えて、担当医の井川さちこ先生と話す機会があることを、俺は意識していた。
四十二歳。
俺より七歳年上。
医師としての知識があり、言うべきことを遠慮なく言う。
患者に対しても、必要以上に愛想を振りまかない。
それなのに、相手を突き放している感じはしなかった。
俺は、そういうところに惹かれていた。
もっとも、それが恋愛感情なのかどうかは分からない。
尊敬しているだけなのかもしれない。
自分にないものを持っている人間に、憧れているだけなのかもしれない。
それとも、年上の女性に優しく接してもらった経験が少ないから、少し話しただけで特別な感情を抱いてしまうのだろうか。
「……また考えすぎや」
俺はエンジンをかけた。
病院は、恋愛相談をする場所ではない。
先生は父親の主治医だ。
俺が勝手に親しみを感じているからといって、先生まで同じ気持ちでいるわけではない。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが、人間の気持ちは、頭で整理しただけでは簡単に片づかないらしい。
*
翌日、八月十九日。
俺は父親と一緒に病院を訪れた。
受付を済ませ、待合室の椅子に座る。
父親は新聞を読み、俺はスマートフォンを眺めていた。
「健太」
「何?」
「お前、最近、休みの日によう出かけるな」
「そうか?」
「この前も日曜日に出かけとったやろ」
「ボランティアや」
「ほう」
父親は新聞から顔を上げた。
「ボランティアねえ」
「何やねん、その言い方」
「いや、ええことやと思うで」
父親は再び新聞に目を落とした。
「ただ、無理して人にええ顔せんでもええからな」
俺は、返事に詰まった。
父親は、こちらを見ていない。
何気なく口にした言葉なのだろう。
それでも、俺には妙に引っかかった。
人にええ顔をする。
俺は、そんなつもりでボランティアに参加しているのだろうか。
誰かに褒められたい。
誰かに認められたい。
女性に優しい男だと思われたい。
そういう気持ちが、まったくないとは言えなかった。
「……別に、ええ顔しようと思ってへんよ」
「なら、ええやん」
父親は、それだけ言って新聞を読み続けた。
俺は、何も言えなかった。
*
診察室に呼ばれたのは、午前十時過ぎだった。
「大野さん、どうぞ」
看護師の案内で診察室に入る。
さちこ先生は、机の上の書類を確認していた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日はお父さんの付き添いですね」
「はい」
「では、まずご本人からお話を聞きますね」
先生は父親に向き直った。
俺は、いつものように口を開きかけた。
父親の体調について、先に説明しようと思ったのだ。
しかし、七月の診察を思い出した。
父親は、自分のことを自分で話したい。
俺が心配するあまり、先回りしてしまうことがある。
それを先生に指摘されたわけではないが、俺自身が気づいたことだった。
だから、今日は黙っていることにした。
「最近、体調はいかがですか?」
「まあ、変わりませんな」
「食事は取れていますか?」
「取れてます」
「夜は眠れていますか?」
「まあ、ぼちぼちです」
父親は、いつもどおり短く答えた。
先生は、必要なことを一つずつ確認していく。
途中、父親が少し考え込む場面があった。
俺は口を挟みそうになったが、我慢した。
父親は、自分の言葉で説明した。
先生は最後まで聞き、確認すべきことを確認した。
診察は、思っていたよりもスムーズに進んだ。
「では、今回もこの方針で様子を見ましょう。何か変わったことがあれば、早めに相談してください」
「分かりました」
父親がうなずく。
先生は、次の説明に移る前に、俺のほうを見た。
「健太さんも、何か気になることはありますか?」
俺は少し驚いた。
「いや、今のところは大丈夫です」
「そうですか」
先生はうなずいた。
「何か気づいたことがあれば、遠慮なく教えてください。ただ、ご本人がどう感じているかも大切なので、まずはお父さんの話を聞いてあげてくださいね」
「はい」
俺は素直に答えた。
父親は、隣で小さく笑った。
「今日は、健太が大人しいな」
「いつも大人しいやろ」
「いや、いつもは余計なことまで言う」
「余計なことって何やねん」
「今みたいなことや」
父親が笑う。
先生も、口元を少し緩めた。
俺は、恥ずかしくなって視線をそらした。
しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。
父親が自分の言葉で話し、俺がそれを聞く。
たったそれだけのことなのに、以前よりも診察室の空気が穏やかに感じられた。
*
診察が終わり、父親が会計に向かったあと、俺は受付付近で次回の予約について確認していた。
そのとき、廊下の向こうからさちこ先生が歩いてきた。
「健太さん」
「あ、先生」
「今日は、ありがとうございました」
「いや、俺は何もしてませんよ」
「そうですか?」
先生は、少し首をかしげた。
「以前は、お父さんが答える前に、健太さんが説明してくれることがありましたよね」
「……ありましたね」
「今日は、ちゃんと待っていらっしゃいました」
褒められたのだろうか。
俺は、思わず背筋を伸ばした。
「いや、まあ……ちょっと気をつけようと思って」
「いいことだと思います」
先生は、淡々と言った。
「心配だからこそ、代わりに何とかしてあげたくなるんでしょうね。でも、相手が自分でできることまで奪ってしまうと、その人の力を信じていないことにもなりますから」
俺は黙って聞いていた。
先生の言葉は、父親との関係だけに向けられたものではないような気がした。
俺は、女性との関係でも同じことをしているのではないだろうか。
相手の気持ちを確認する前に、自分の考えで答えを決める。
相手が何を望んでいるかを聞く前に、自分がしてあげたいことを考える。
優しくしているつもりで、実際には自分の思いどおりにしたいだけなのかもしれない。
「先生は……」
俺は、口を開いた。
「人との距離感って、どうやって考えてるんですか?」
さちこ先生は、少し意外そうな顔をした。
「急に難しい質問ですね」
「すみません。変なこと聞いて」
「いえ、いいですよ」
先生は、少し考えてから答えた。
「相手との関係によって違いますね。家族と患者さんでは違いますし、仕事仲間と友人でも違います。だから、これが正解という決まりはありません」
「やっぱり、そうですよね」
「ただ、一つ気をつけていることはあります」
「何ですか?」
「自分が相手のためにしていると思っていることが、本当に相手のためなのか。ときどき考え直すことです」
俺は、息を止めた。
それは、今の俺に必要な言葉だった。
「医師としても、家族としても、良かれと思ってしたことが、相手の望みと違うことはあります。だから、必要なときには本人に確認します」
「……確認する」
「はい。もちろん、何でも聞けばいいというわけではありませんけどね。相手が答えたくないこともありますから」
先生は、そこで少し笑った。
「人間関係は、診察のように問診票だけで済むものではありませんから」
「それは、そうですね」
俺も笑った。
しかし、胸の中では、別のことを考えていた。
佐藤真紀さんに、連絡先を聞きたい。
それは俺の希望だ。
けれど、彼女が連絡先を交換したいかどうかは、彼女にしか分からない。
聞かなければ分からないこともある。
聞いても、答えをもらえないこともある。
それでも、相手の気持ちを勝手に決めつけるよりは、ずっとましなのかもしれない。
「先生、ありがとうございます」
「いえ。何か参考になりましたか?」
「はい。かなり」
「それなら、よかったです」
先生は、そう言って廊下の奥へ歩いていった。
俺は、その後ろ姿を見送りながら考えた。
さちこ先生は、俺の恋愛相談に乗ってくれたわけではない。
俺が勝手に質問して、先生が仕事の経験から答えてくれただけだ。
それでも、俺には十分だった。
そして同時に、少しだけ寂しくもあった。
先生は、俺に特別なことをしてくれたわけではない。
患者の家族に、必要な言葉をかけてくれただけだ。
それなのに俺は、その言葉を特別なものとして受け取っている。
なぜだろう。
俺が、誰かに認めてもらいたいからだろうか。
それとも、先生自身に興味があるからだろうか。
答えは、まだ出なかった。
*
帰りの車の中で、父親が口を開いた。
「さちこ先生と、何を話しとったんや?」
「何でもないよ」
「そうか?」
「人との距離感について、ちょっと聞いただけや」
「人との距離感?」
父親は、不思議そうな顔をした。
「お前、そんなことを気にするようになったんか」
「悪いか」
「いや、悪くない」
父親は、窓の外を見ながら言った。
「昔から、お前は人に嫌われるのを気にしすぎるところがあったからな」
俺は、ハンドルを握り直した。
「そうかな」
「そうや。人に嫌われたくないから、頼まれたことを断れんかったり、余計なことをしたりする」
「……」
「まあ、わしも偉そうなことは言えんけどな」
父親は苦笑した。
「人間、誰でも自分のことが一番かわいいんや。せやから、相手のためやと思ってても、どこかに自分のための気持ちが混ざる」
「自分のための気持ち?」
「褒めてほしいとか、認めてほしいとか。自分が安心したいとか。そういうのや」
俺は、アクセルを踏みながら黙っていた。
父親の言葉は、さちこ先生の話とつながっていた。
誰かのために行動する。
その中に、自分のための気持ちが混ざる。
それ自体は、悪いことではないのかもしれない。
問題は、自分のための気持ちを、相手のためだと思い込んでしまうことなのだろう。
「健太」
「何?」
「お前、誰か好きな人でもできたんか?」
「……は?」
思わず、ブレーキを踏みそうになった。
「何でそうなるねん!」
「いや、最近、やたら人との距離感とか言うてるから」
「違うわ!」
「そうか」
父親は、あっさり引き下がった。
その態度が、かえって怪しかった。
「……何やねん」
「別に」
「絶対、何か思ってるやろ」
「思ってへんよ」
父親は笑った。
俺は、それ以上追及するのをやめた。
もし、好きな人ができたとしたら。
俺は、父親に話せるだろうか。
いや、今の段階では、まだ好きなのかどうかも分からない。
ただ、誰かと親しくなりたいと思うことが、以前よりも怖くなくなってきた気がする。
断られるのは怖い。
恥をかくのも怖い。
それでも、何もせずに諦めることだけが正解ではないのだろう。
*
その夜、俺はノートを開いた。
最近、気づいたことを記録するために使っているノートだ。
仕事の予定や草野球の試合結果を書くことはあっても、自分の感情について書いたことは、ほとんどなかった。
最初のページには、こんな言葉が書いてある。
『相手の気持ちを勝手に決めつけない』
その下に、新しく書き足した。
『相手のためにしていることが、本当に相手のためなのか考える』
さらに、もう一つ。
『相手の返事と、自分の価値を結びつけない』
書いてみると、簡単なことに見えた。
だが、実際にできるかどうかは別問題だ。
真紀さんに連絡先を聞く。
断られるかもしれない。
それでも、相手の返事を受け入れる。
俺は、それができるだろうか。
さちこ先生の言葉を思い出す。
相手の気持ちを確認すること。
そして、相手が答えたくないこともあると理解すること。
俺はノートを閉じた。
今までの俺は、恋愛の成功ばかりを考えていた。
彼女ができること。
女性に好かれること。
誰かに選ばれること。
しかし、本当に学ばなければならないのは、成功する方法だけではないのかもしれない。
断られたときに、相手を責めないこと。
思いどおりにならないときに、相手の自由を奪わないこと。
自分の寂しさを、誰かに埋めてもらうことだけを考えないこと。
そういうことを、俺は知らなかった。
いや、知っていたつもりで、分かっていなかったのだ。
スマートフォンが震えた。
ドリーム・エース・ナインのグループLINEだった。
森川からメッセージが届いている。
『今度の練習試合、絶対に勝つぞ! 俺が完封したる!』
続いて中村。
『その前にパチンコで軍資金を増やしてくるわ』
田村からは、短い一言。
『練習しろ』
俺は笑った。
こいつらは、相変わらずだ。
恋愛の話をすれば、偉そうなことを言う。
野球の話をすれば、昔の実績を持ち出す。
それでも、こうしてくだらないやり取りができる仲間がいる。
それは、悪くない。
俺は、グループLINEにメッセージを送った。
『次の練習、ちゃんと行くわ』
すぐに森川から返事が来た。
『お前は恋愛より先に野球を何とかせえ!』
「うるさいわ」
俺は一人で笑った。
恋愛も野球も、すぐに上手くなるわけではない。
練習したからといって、必ず結果が出るとも限らない。
それでも、何もしなければ、何も変わらない。
俺はノートを机の引き出しにしまい、部屋の明かりを消した。
三十五歳の夏。
俺はまだ、誰とも付き合ったことがない。
好きな女性に連絡先を聞くことさえ、まともにできない。
けれど、少しずつ分かってきたことがある。
優しさは、相手を思いどおりにするための道具ではない。
好意は、相手から必ず返してもらえるものでもない。
そして、誰かに大切にされたいと思うなら、まず自分も相手を一人の人間として大切にしなければならない。
その当たり前のことを、俺はまだ、練習している途中だった。




