第29話 連絡先を聞く。それだけのことが、俺には難しい
八月十日、月曜日。
朝、目が覚めた瞬間、俺はスマートフォンを手に取った。
もちろん、誰からも連絡は来ていない。
昨日のボランティア活動で知り合った佐藤真紀さん。
彼女の連絡先を、俺は知らない。
電話番号も、メールアドレスも、LINEも。
知っているのは名前と、彼女がボランティア活動に参加していること。それから、話していると自然に会話が続くということくらいだった。
たったそれだけ。
なのに、俺の頭の中では、彼女との会話が何度も再生されていた。
『大野さんって、落ち着いてますよね』
『また一緒に活動できたらいいですね』
昨日、彼女が言った言葉だ。
何度思い返しても、悪い気はしない。
むしろ、かなりうれしい。
しかし、問題はここからだった。
彼女は俺に好意を持っているのだろうか。
それとも、単に話しやすい人間だと思っているだけなのだろうか。
いや、そもそも、俺はどうしたいのだろう。
彼女と友達になりたいのか。
もっと仲良くなりたいのか。
それとも、恋人になりたいのか。
「……分からん」
俺は天井を見上げた。
三十五年間、女性と付き合った経験がない。
女性と二人きりで食事に行った経験もない。
手をつないだことも、キスをしたこともない。
そんな俺が、いきなり恋愛の答えを出そうとすること自体、無謀なのかもしれなかった。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
もう一度、彼女と話したい。
それは間違いなかった。
*
昼休み。
俺は工場の休憩室で、弁当を食べながらスマートフォンを操作していた。
開いているのは、ドリーム・エース・ナインのグループLINEだ。
昨夜、藤井から届いたメッセージを読み返す。
『相手の言葉を、都合よく解釈するなよ。自分がどうしたいかも、ちゃんと考えろ』
分かっている。
分かっているのだが、実際に行動するとなると難しい。
俺は入力欄に文章を打ち込んだ。
『女性に連絡先を聞くタイミングって、どういうときが正解なんや?』
送信。
数秒後、既読がついた。
最初に反応したのは森川だった。
『そんなん、会話が盛り上がったときに決まってるやろ! 勢いが大事や!』
続いて中村。
『俺なら、とりあえず聞く。断られたら次に行けばええだけや』
岡本も参加した。
『断られるのを怖がってたら何も始まらん。男なら攻めろ』
相変わらず、全員が自信満々だった。
その自信が、どこから湧いてくるのかは分からない。
森川は、女性と親しくなると相手が自分に気があると思い込む癖がある。
中村は、パチンコで負けた翌日に新しい攻略法を見つけたと言い張る男だ。
岡本は、一度振られた相手のことを何年も悪く言い続けている。
そんな連中の意見を、そのまま信じていいのだろうか。
すると、藤井から個別メッセージが届いた。
『相手とは、どれくらい話したん?』
俺は昨日の出来事を簡単に説明した。
ボランティア活動で一緒になったこと。
作業の合間に話したこと。
また参加するのかと聞かれたこと。
そして、自分が彼女に好意を持ち始めているかもしれないこと。
送信すると、しばらく返信がなかった。
俺は弁当の残りを食べながら待った。
やがて、藤井から返事が来た。
『次に会ったとき、普通に話せばええやん』
『それで、また話したいと思ったら聞いたらええ』
『ただし、相手が困ってそうなら引くこと。聞いたからって、教える義務があるわけじゃないからな』
俺は画面を見つめた。
普通に話す。
そんなことは、誰でもできるはずだ。
しかし、俺には難しい。
女性と話していると、どうしても頭の中で余計な計算が始まる。
今の言葉は脈ありなのか。
笑ってくれたのは、俺に興味があるからなのか。
この質問をしたら嫌われるのではないか。
逆に、ここで踏み込まなければ何も変わらないのではないか。
気づけば、目の前の女性ではなく、自分の頭の中にいる女性と会話している。
そして、頭の中の女性は、いつも俺に都合のいい反応をしてくれる。
現実の女性は、そんなに簡単ではない。
『分かった。次に会ったとき、自然に聞いてみる』
そう返信した。
藤井から、すぐに返事が来た。
『自然に聞くことが目的にならんようにな』
俺は思わず苦笑した。
どうやら、俺の恋愛は、試合が始まる前から反省会ばかりらしい。
*
その日の仕事は、いつも以上に長く感じられた。
機械の稼働音。
部品を運ぶフォークリフト。
作業員同士の掛け声。
普段なら、仕事に集中していれば時間は過ぎていく。
ところが今日は、作業の合間に何度も真紀さんの顔が浮かんだ。
「大野、そこ、確認したか?」
班長の黒田さんに声をかけられ、俺は慌てて作業記録を見直した。
「すみません。今、確認します」
「今からか。先に確認してから次へ進め。思い込みで仕事をするな」
「はい」
俺は記録を確認し、必要な箇所を修正した。
仕事で思い込みをすれば、品質に影響する。
小さな確認漏れが、後になって大きな問題になることもある。
それなのに、恋愛になると俺は、相手が何を考えているのかを確認する前に、自分の都合で結論を出そうとする。
女性が笑えば、自分に気がある。
親切にされれば、自分は特別な存在だ。
少し冷たくされれば、嫌われた。
どれも、確かな根拠があるわけではない。
「……恋愛も、品質管理みたいに確認できたらええのにな」
思わずつぶやいた。
「何や、大野。品質管理に異動したいんか?」
近くにいた木村が笑った。
「いや、そういう意味ちゃう」
「ほな、何やねん」
「何でもない」
説明するわけにはいかなかった。
三十五歳の男が、女性に連絡先を聞く方法について真剣に悩んでいる。
そんなことを職場で知られたら、しばらくの間、笑い話にされるだろう。
もっとも、ドリーム・エース・ナインの連中には、すでに相談しているのだが。
俺は苦笑しながら作業に戻った。
恋愛に正解はない。
けれど、確認を怠らないことくらいは、できるはずだった。
*
八月十六日、日曜日。
俺は再び、地域のボランティア活動に参加した。
玄関で靴を履いていると、母親が声をかけてきた。
「健太、今日も行くん?」
「うん」
「先週も行ってたやん」
「せやから、今日も行くんや」
母親は、何かを察したように目を細めた。
「……女の人でもおるん?」
「おらん!」
反射的に否定した。
母親は、にやにやしながら言った。
「そんなに早く否定せんでもええやん」
「ほんまに、ボランティアやって!」
「はいはい」
その返事が、かえって腹立たしかった。
俺は逃げるように家を出た。
車を運転しながら、考える。
真紀さんに会えるかどうかは分からない。
先週参加していたからといって、今週も来るとは限らない。
仕事や家庭の都合があるかもしれないし、単純に休みたい日もあるだろう。
俺だって、誰かに会いたいという理由だけで、相手の予定を決めつけることはできない。
会えたら、話そう。
会えなかったら、作業を手伝って帰ろう。
それだけだ。
そう自分に言い聞かせ、会場に到着した。
*
真紀さんは、いた。
入口近くで、スタッフと一緒に配布物を整理していた。
淡い色のシャツに、動きやすそうなパンツ。
先週と同じように、周囲の人に声をかけながら作業を進めている。
俺は一瞬、足を止めた。
会えた。
ただそれだけなのに、胸の奥が少し軽くなった。
しかし、すぐには声をかけられなかった。
彼女はスタッフと話している。
今、割り込んだら迷惑かもしれない。
俺は近くにあった段ボールを持ち上げ、運搬作業を始めた。
恋愛のために来たわけではない。
少なくとも、そういうことにしておきたかった。
しばらくして、配布用の食料品を仕分ける作業になった。
「大野さん、おはようございます」
背後から声がした。
振り向くと、真紀さんが立っていた。
「おはようございます。今日も来てたんですね」
「はい。大野さんも」
「先週、また来るって言うてたんで」
口にしてから、俺は少し恥ずかしくなった。
まるで、彼女の言葉をずっと覚えていたと告白しているようだった。
いや、実際に覚えていたのだが。
真紀さんは、自然に笑った。
「覚えててくれたんですね」
「そら、覚えてますよ」
「ありがとうございます。私、たまに自分で言ったことを忘れるんです」
「えっ、そうなんですか?」
「冗談です」
俺は思わず笑った。
彼女も笑った。
その瞬間、頭の中で余計な考えが動き始めた。
今の笑顔は何だ。
冗談が通じたからか。
俺と話すのが楽しいからか。
それとも、誰にでもこんなふうに笑うのか。
考えかけて、俺は自分を止めた。
今は、ただ会話を楽しめばいい。
「今日は何をするんですか?」
「午前中は食料品の仕分けと配布です。午後は、余った物資の整理ですね」
「先週も似たような感じでしたね」
「そうですね。でも、来る人も違うし、毎回ちょっとずつ違いますよ」
真紀さんは、箱の中身を確認しながら話した。
「私、ここに来ると、自分が知らないことって本当に多いんだなって思うんです」
「知らないこと?」
「はい。普段、会社と家の往復だけだと、似たような人とばかり話すじゃないですか。でも、ここに来ると、年齢も仕事も生活も違う人と話せるでしょう?」
「確かに」
「もちろん、誰とでも仲良くなれるわけじゃないですけど。でも、自分の知らない生活があるんだって分かるだけでも、ちょっと世界が広がる気がして」
俺は、その言葉を聞きながらうなずいた。
彼女は、誰かに褒められるためだけに来ているわけではないのだろう。
自分の生活を少し広げるため。
知らなかったことを知るため。
そういう理由もあるのだ。
「大野さんは、どうして参加しようと思ったんですか?」
不意に尋ねられた。
俺は、答えに詰まった。
最初は、休日に何かしてみようと思ったから。
誰かの役に立てればいいと思ったから。
それも嘘ではない。
だが、今は違う理由も混ざっている。
真紀さんに会いたい。
もっと話したい。
彼女が自分をどう思っているのか知りたい。
そんな気持ちを、どこまで話していいのだろう。
「最初は、何か役に立てることがあればええなと思って」
「はい」
「でも、実際に来てみたら、自分が知らんことが多いなって思いました。仕事して、野球して、家に帰って。それの繰り返しやったんで」
「野球、されてるんですか?」
「草野球です。高校のときも野球部でしたけど、ずっと補欠みたいなもんでした」
「そうなんですね」
「今も、たいして上手くないですけど」
「でも、続けてるんですね」
その言葉に、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
野球が上手いわけではない。
試合で活躍することも少ない。
それでも、続けている。
誰かに認められなくても、続けているものがある。
それは、自分の中では少しくらい誇ってもいいことなのかもしれない。
「まあ、下手でも楽しいんで」
「いいですね。そういうの」
真紀さんは、箱を閉じて、次の作業に移った。
俺もその隣で、食料品を仕分けた。
連絡先は、まだ聞けていない。
それでも、今日は少しだけ自然に話せている気がした。
*
昼前、作業の区切りがついた。
参加者たちが休憩を取る中、俺は自動販売機で飲み物を買った。
真紀さんは、少し離れたベンチに座っていた。
周囲には、ほかの参加者もいる。
話しかけるなら、今だろうか。
いや、休憩中なのだから、そっとしておくべきだろうか。
俺はペットボトルを握りしめた。
聞きたい。
連絡先を交換してもらえませんか。
ただ、それだけだ。
しかし、その一言が出てこない。
断られたら、どうしよう。
困った顔をされたら。
今後、ここで会うたびに気まずくなったら。
そもそも、俺が聞くこと自体、迷惑なのではないか。
考えれば考えるほど、何も言えなくなる。
そのとき、真紀さんの隣にいた女性が立ち上がった。
真紀さんが一人になった。
今しかない。
俺は、ゆっくりと歩き出した。
「あの、佐藤さん」
「はい?」
「ちょっと、聞きたいことがあるんですけど」
「何ですか?」
真紀さんは、こちらを見た。
俺の心臓が、急にうるさくなった。
今だ。
言え。
連絡先を交換してほしい、と。
「ええと……」
口が動かない。
「どうしました?」
「その……」
俺は、結局、別の言葉を口にした。
「次の活動って、いつあるんですか?」
言った瞬間、自分の頭を抱えたくなった。
何を聞いているのだ。
掲示板に書いてある。
案内の紙にも載っている。
少し確認すれば分かることだ。
真紀さんは、壁に貼られた予定表を指さした。
「次は、来週の日曜日ですね。参加できそうなんですか?」
「はい。仕事が入らなければ」
「また会えたらいいですね」
彼女は、そう言って笑った。
俺も笑い返した。
それから、何事もなかったように、飲み物を持って自分の席に戻った。
連絡先は聞けなかった。
また、聞けなかった。
*
帰宅後、俺は自室でベッドに横になっていた。
スマートフォンには、藤井からメッセージが届いている。
『今日、どうやった?』
俺は短く返信した。
『会えた』
『話せた?』
『話せた』
『連絡先は?』
俺は画面を見つめた。
そして、正直に打ち込んだ。
『聞けんかった』
すぐに、藤井から電話がかかってきた。
「もしもし」
『お前、何してんねん』
「分かってる。俺が一番分かってる」
『いや、まだ聞いてへんからな。何があったん?』
「聞こうとはしたんや」
『ほう』
「話しかけて、聞きたいことがあるって言うた」
『おお、ええやん』
「そしたら、次のボランティアの日程を聞いてしもうた」
電話の向こうが静かになった。
数秒後。
『……何でやねん!』
「俺に聞くな!」
藤井の笑い声が響いた。
俺も、つられて笑ってしまった。
情けない。
情けないが、笑うしかなかった。
『まあ、ええやん』
「何がええねん」
『話せたんやろ? 前より自然に話せたんやったら、それも進歩や』
「でも、連絡先は聞けてへん」
『それはそうやな』
「そこは慰めてくれよ」
『慰めてほしいんか、正直な意見がほしいんか、どっちやねん』
俺は黙った。
そのとおりだった。
自分に都合のいいことを言ってほしい。
でも、間違っているなら指摘してほしい。
できれば傷つけずに。
できれば、俺が悪いとは言わずに。
そんな都合のいい相談相手を求めていた。
「……正直に言うてくれ」
『ほな、言うで』
藤井の声が少し真面目になった。
『連絡先を聞けんかったこと自体は、別に失敗ちゃうと思う』
「そうなん?」
『うん。でも、お前が何を怖がってたのかは考えたほうがええ』
「何をって……断られることやろ」
『断られることだけか?』
俺は、返事ができなかった。
『連絡先を断られたら、自分に価値がないって思うんちゃうか?』
胸の奥を、何かで突かれた気がした。
『相手が断る理由なんて、いくらでもあるやろ。個人情報を教えたくないとか、まだ知り合ったばかりやからとか、今はそういう気分じゃないとか。でも、お前は断られたら、自分が男として駄目やからやって考えるんちゃうか』
「……」
『それやったら、聞くのが怖いのも分かるわ』
俺は、天井を見つめた。
そうなのかもしれない。
俺は、連絡先が欲しいだけではない。
連絡先を教えてもらうことで、自分が認められたと思いたいのだ。
女性から選ばれた。
自分にも可能性がある。
自分は、誰かにとって特別な存在になれる。
そんな証拠が欲しいのだ。
だから、聞くことが怖い。
断られたら、欲しかった証拠が手に入らないから。
「……俺、何やってんねやろな」
『三十五歳の男が、恋愛で悩んでる』
「説明になってへんわ」
『いや、そういうもんやろ。年齢で急に上手くなるわけちゃうし』
藤井は少し笑った。
『ただな、健太』
「何や」
『相手に連絡先を教えてもらえるかどうかと、お前に価値があるかどうかは、別の話やで』
俺は目を閉じた。
頭では分かる。
だが、心がそれを認めるには、時間がかかりそうだった。
『次に会ったとき、聞いてもええと思うで。無理に聞く必要はないけど、聞きたいなら、ちゃんと自分の言葉で聞いたらええ』
「断られたら?」
『残念やな、で終わりや』
「そんな簡単に終われるか?」
『簡単に終われへんかもしれん。でも、相手に責任を押しつけるなよ。自分が傷ついたことと、相手が悪いことは別やからな』
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった」
『ほんまに分かったか?』
「分かったつもりや」
『ほな、次は聞けるとええな』
「おう」
電話が切れた。
俺はスマートフォンを枕元に置き、もう一度、天井を見上げた。
連絡先を聞く。
ただ、それだけのこと。
けれど、俺にとっては、自分の価値を他人の返事に委ねないための練習でもあるのかもしれない。
断られても、自分が消えるわけではない。
教えてもらえなくても、今まで生きてきた三十五年間が否定されるわけではない。
そう思えるようになったら、俺は少しだけ前に進めるのだろうか。
その答えは、まだ分からない。
ただ、次に真紀さんに会えたら。
俺は、もう少しだけ勇気を出してみようと思った。
もちろん、彼女が困っていないことを確かめながら。
彼女が断っても、それを受け入れる覚悟を持ちながら。
そして、彼女の返事を、自分の人生の採点結果にしないように。
――三十五歳。
恋愛経験ゼロ。
連絡先ひとつ聞けない男。
それでも俺は、ようやく気づき始めていた。
恋愛は、相手に自分を合格させてもらう試験ではない。
相手を知り、自分を知り、二人の間に何が生まれるのかを確かめていくことなのだ。
そんな当たり前のことを、俺は三十五歳になって、初めて学ぼうとしていた。




