第28話 会いたい理由は、下心だけではないと思いたい
八月九日、日曜日。
午前七時。
俺は、いつもより一時間も早く目を覚ました。
理由は簡単だ。
今日は地域のボランティア活動がある。
そして、そこには佐藤真紀さんが参加する予定だった。
「……早すぎるやろ」
目覚まし時計を見ながら、俺はつぶやいた。
集合時間は午前九時。
家を出るまで、まだ一時間半もある。
なのに、もう目が覚めてしまった。
前日の夜、俺は何度も天気予報を確認した。
着ていく服も、いつもより念入りに選んだ。
髪型を整え、鏡の前で顔を確認する。
身長は百六十六センチ。
体重は六十キロ前後。
太っているわけではないが、特別に格好いいわけでもない。
顔立ちも、どこにでもいる三十五歳の男だ。
若いころは高校野球をしていたが、強豪校では補欠だった。
今は自動車部品工場で働き、休日には草野球をしている。
恋人はいない。
交際経験もない。
女性と手をつないだことすらない。
そんな俺が、女性に会うために朝から身だしなみを気にしている。
冷静に考えれば、少し滑稽だった。
しかし、会いたいと思う気持ちは止められなかった。
問題は、その気持ちをどう扱うかだ。
俺はベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。
*
「健太、今日どこ行くん?」
朝食を食べていると、母の美代子が尋ねてきた。
「ボランティアや」
「また行くん?」
「うん」
「へえ。あんた、昔は休みの日なんか昼まで寝てたのに」
「人間、変わるもんや」
「女の人でもおるん?」
味噌汁を飲んでいた俺は、危うくむせそうになった。
「何でそうなるねん!」
「だって、最近は休日の朝から出かけるやん」
「地域の活動やって言うてるやろ」
「はいはい」
母は、まったく信じていない顔をしていた。
「その人、どんな人なん?」
「……普通の人や」
「普通って何よ」
「いや、普通に話せる人や」
言ってから、俺は少し考えた。
普通に話せる。
それは、俺にとって案外大切なことなのかもしれない。
これまで俺は、女性と話すとき、どうすれば好かれるかばかり考えていた。
面白いことを言おう。
頼りがいのある男に見せよう。
優しい人間だと思ってもらおう。
そんなことばかり考えていた。
だから、相手の話を聞いているつもりでも、頭の中では次に何を言うか考えていたのだ。
佐藤さんと話したときは、少し違った。
もちろん、彼女に好印象を持ってほしい気持ちはあった。
けれど、会話そのものを楽しめた気がした。
それが恋愛感情なのか、単に相性がいいと感じただけなのかは、まだ分からない。
「健太」
母の声で、我に返った。
「何や、ぼーっとして」
「いや、何でもない」
「その人と、仲良くなれるとええな」
母は、それ以上追及しなかった。
俺は少しだけ、ありがたいと思った。
母は俺の結婚を心配している。
孫の顔を見たいとも思っているだろう。
しかし、俺の人生を母の希望どおりに進める必要はない。
それは、最近になってようやく考えられるようになったことだった。
*
集合場所に着いたのは、午前八時四十分だった。
まだ、参加者は少ない。
俺は受付で名前を伝え、配布資料を受け取った。
「大野さん、おはようございます」
声をかけられ、振り返る。
佐藤真紀さんだった。
淡い色のシャツに、動きやすそうなパンツ。
髪は後ろでまとめている。
特別に華やかな格好ではない。
けれど、俺にはいつもより明るく見えた。
「おはようございます」
声が少し裏返った。
情けない。
「今日も参加されるんですね」
「はい。前回、結構楽しかったので」
「そうなんですね。私も、こういう活動は好きなんです」
「人の役に立てるからですか?」
そう尋ねてから、俺は少し反省した。
相手が何を考えているかを聞くのはいい。
しかし、質問の仕方によっては、相手に決まった答えを求めてしまうこともある。
佐藤さんは少し考えてから答えた。
「それもあります。でも、それだけじゃないですよ」
「ほかにも?」
「普段なら話す機会がない人と話せるでしょう。年齢も仕事も違う人たちと、一緒に何かをする。それが面白いんです」
「なるほど」
「大野さんは?」
「俺ですか?」
「はい。どうして参加してるんですか?」
俺は答えに詰まった。
人の役に立ちたい。
それは嘘ではない。
けれど、今日ここに来た理由には、彼女に会いたいという気持ちもある。
それを隠して、立派なことだけを言うのは違う気がした。
「最初は、何か役に立てたらええなと思って参加しました」
「はい」
「でも、今は……ここで知り合った人と話すのも、楽しみになってます」
佐藤さんは微笑んだ。
「いいことだと思いますよ」
その言葉を聞いて、胸が少し軽くなった。
彼女は俺の答えを否定しなかった。
しかし、それだけで自分に好意があると考えるつもりもなかった。
人として自然な反応かもしれない。
俺は、その事実をそのまま受け止めようとした。
*
その日の活動は、高齢者世帯への食料品の配達だった。
参加者は数人ずつに分かれ、担当する地域へ向かった。
俺と佐藤さんは、別の参加者と三人で組むことになった。
少し残念だった。
できれば、二人で話せる時間が欲しかった。
だが、ボランティアは俺の恋愛のために用意された場ではない。
そこを勘違いしてはいけない。
配達先の一軒目では、八十歳を超えた男性が玄関で俺たちを迎えてくれた。
「いつもすまんなあ」
「いえ、お変わりありませんか?」
佐藤さんが尋ねる。
「まあ、ぼちぼちやな。最近は暑いから、外に出るのも大変や」
男性は笑った。
俺たちは食料品を渡し、体調に問題がないか確認した。
帰り際、男性が俺に言った。
「兄ちゃん、若いんやから、もっと遊ばなあかんで」
「いや、もう三十五ですけど」
「三十五なんか、まだ若いわ!」
大きな声で笑われた。
俺も笑った。
若いと言われてうれしい自分がいた。
しかし、同時に思った。
俺は、他人の言葉で自分の価値を確かめようとしすぎているのかもしれない。
若いと言われれば、まだ可能性があると思う。
優しいと言われれば、自分には価値があると思う。
女性に褒められれば、恋愛対象として見てもらえたのではないかと期待する。
それらは、すべて同じところから生まれているのではないだろうか。
誰かに認められたい。
自分が価値のある人間だと、確かめたい。
その気持ちが強すぎると、相手の言葉をそのまま受け取れなくなる。
褒め言葉の裏に、特別な意味を探してしまう。
親切の中に、恋愛感情を探してしまう。
俺は、もう少し自分自身を信じられるようにならなければならないのかもしれなかった。
*
配達を終えたあと、俺たちは集合場所へ戻った。
片づけを手伝っていると、佐藤さんが声をかけてきた。
「大野さん、ちょっといいですか?」
「はい」
「この荷物、倉庫まで運ぶのを手伝ってもらえますか?」
「もちろんです」
俺は荷物を持ち上げた。
思っていたより重かったが、何とか運べる程度だった。
倉庫までの短い道を、二人で歩く。
「今日も暑かったですね」
佐藤さんが言った。
「ほんまですね。帰ったら、冷たいものでも飲みたいです」
「私もです。アイスが食べたいな」
「ええですね。俺も好きです」
会話は、それだけだった。
特別な話題があったわけではない。
彼女が俺の過去を尋ねたわけでも、俺が彼女の私生活を聞き出したわけでもない。
それでも、俺は楽しかった。
無理に話を盛り上げなくてもいい。
自分を大きく見せようとしなくてもいい。
相手の反応を気にしすぎず、普通に会話ができる。
それだけでも、俺にとっては大きな変化だった。
「大野さんって、話していると落ち着きますね」
佐藤さんが言った。
俺の心臓が跳ねた。
落ち着く。
それは、どういう意味だろう。
話しやすいということか。
気を使わなくていいということか。
それとも、男性として魅力を感じているということか。
頭の中で、いくつもの可能性が浮かんだ。
しかし、俺はすぐに結論を出さなかった。
「そうですか?」
「はい。変に気取った感じがしないので」
「それ、褒められてるんですかね?」
「褒めてますよ」
彼女は笑った。
俺も笑った。
その瞬間、うれしいと思った。
けれど、彼女が俺に恋愛感情を抱いているかどうかは、まだ分からない。
少なくとも、今の言葉だけでは判断できない。
俺は、そのことを自分に言い聞かせた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるとうれしいです」
それだけを伝えた。
以前なら、ここで余計なことを言っていたかもしれない。
自分を褒めてくれた理由を探ろうとしたり、彼女の気持ちを確かめようとしたりしただろう。
今は、素直にうれしいと伝えるだけでよかった。
*
活動が終わり、参加者たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
俺も荷物をまとめていたが、佐藤さんが受付付近で誰かと話しているのが目に入った。
相手は、俺たちと同じくらいの年齢の男性だった。
男性は佐藤さんに親しげに話しかけている。
彼女も笑顔で応じていた。
俺の胸に、妙な感情が生まれた。
嫉妬だった。
自分でも驚いた。
俺は、佐藤さんと交際しているわけではない。
連絡先すら交換していない。
彼女が誰と話そうと、俺には何も言う権利がない。
それなのに、男性と楽しそうに話している姿を見て、面白くないと思ってしまった。
俺は視線をそらした。
情けない。
これでは、何も変わっていないではないか。
彼女に会いたいと思うことと、彼女を自分のものにしたいと思うことは違う。
俺は、まだその境界線を完全には理解できていない。
しばらくして、佐藤さんがこちらへやってきた。
「大野さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また次回も参加されますか?」
俺は少し驚いた。
彼女から、次の機会について尋ねられたのだ。
もちろん、活動への参加を確認しているだけかもしれない。
それでも、俺はうれしかった。
「はい。都合が合えば参加したいと思ってます」
「よかった。また一緒に活動できるといいですね」
「そうですね」
会話は自然に終わった。
彼女は笑顔で会釈し、帰っていった。
俺は、その背中を見送りながら考えた。
もっと話したかった。
できれば、連絡先も交換したかった。
だが、今日は聞かなかった。
怖かったからではない。
いや、怖さがまったくなかったと言えば嘘になる。
断られたら傷つくだろう。
それでも、今の俺には、まだ彼女のことを知る時間が必要だと思えた。
次に会ったとき、また話せばいい。
そして、自分が本当に彼女と親しくなりたいと思っているのか、少しずつ確かめていけばいい。
焦る必要はない。
けれど、いつまでも何もせずにいるつもりもなかった。
*
帰りの電車の中で、俺は藤井にメッセージを送った。
『今日、佐藤さんと話せたで』
すぐに返信が来た。
『おお! 何か進展あったんか?』
『話してて落ち着くって言われた』
『それはええやん』
『でも、恋愛感情かどうかは分からん』
『そら、そうやろ』
藤井の返事は、あっさりしていた。
『褒められたからって、脈ありとは限らん。でも、うれしかったなら、それでええやん』
俺は、その文章を読み返した。
うれしかったなら、それでいい。
確かにそうだ。
彼女が俺をどう思っているかとは別に、俺は彼女と話せてうれしかった。
その気持ちまで否定する必要はない。
恋愛に発展するかどうかだけで、今日の出来事の価値が決まるわけではないのだ。
俺は返信した。
『そうやな。今日は楽しかったわ』
『ほな、次も頑張れ』
『何を頑張るねん』
『お前が自分の気持ちと向き合うことや』
俺は苦笑した。
藤井は、時々、妙にまともなことを言う。
経験者だからといって、いつも正しいわけではない。
けれど、失敗した経験から学べることもあるのだろう。
俺は窓の外を眺めた。
大阪の街が、ゆっくりと流れていく。
今日、俺は佐藤さんに会えた。
話もできた。
少し褒めてもらえて、うれしかった。
そして、彼女が別の男性と話している姿を見て、嫉妬した。
いいこともあれば、格好悪い感情もあった。
それらすべてが、今の俺の気持ちなのだろう。
自分の感情を認めること。
ただし、その感情を理由に相手を縛ろうとしないこと。
それができるようになれば、俺は少しずつ変われるのかもしれない。
家に帰ったら、今日のことをノートに書こう。
そう思ったとき、スマートフォンが震えた。
母からのメッセージだった。
『今日は楽しかった?』
俺は少し考えてから返信した。
『うん。楽しかったで』
それだけ送って、スマートフォンをしまった。
今の俺には、まだ恋人はいない。
女性と付き合ったこともない。
それでも、誰かと話すことが楽しいと思えた。
誰かの気持ちを考えることが、少しだけできるようになった。
そして、自分の中にある嫉妬や期待、認められたい気持ちにも、目を向けられるようになった。
それは、恋愛の試合に出るための準備なのかもしれない。
ただし、俺はまだ知らなかった。
自分の気持ちを理解することよりも、相手の気持ちを尊重することよりも、もっと難しい問題があることを。
それは、自分が本当に欲しいものが何なのか、正直に認めることだった。




