第27話 童貞男たちの恋愛講義、正解を知る者は誰もいない
日曜日の午後二時。
大阪市内のファミリーレストランに、俺たちドリーム・エース・ナインのメンバーが集まっていた。
十二人の男たち。
年齢は三十四歳から三十七歳。
全員が高校時代に野球をしていた。
そして、現在の共通点はもう一つある。
人生が思いどおりに進んでいるとは、あまり言えないことだ。
仕事、金、健康、家族。
それぞれ悩みはある。
恋愛についても同じだった。
結婚している者はほとんどいない。恋人がいる者も少ない。過去に交際経験がある者も、恋愛がうまくいっているとは限らない。
それでも、男たちは恋愛を語りたがる。
なぜなら、自分が経験していないことについて語るのは、実際に経験するより簡単だからだ。
「ほな、今回のテーマを発表します」
チーム代表の田村剛が、メニューを机に置いた。
「人の気持ちを理解するとは、どういうことか」
「何や、急に哲学みたいになったな」
森川信也が笑った。
「もっと簡単でええやろ。女が好きなら、好きって言う。それで終わりや」
「それで終わるなら、世の中に失恋する男はおらんやろ」
藤井直樹が即座に返した。
「いや、断られても押すんや!」
「お前、前に連絡先を聞いて断られた女性に、三回も聞き直した話を自慢してたよな」
「結果的に嫌われたけどな」
「自分で答え言うてるやないか!」
石田雄二の突っ込みに、テーブルが笑いに包まれた。
俺も笑った。
だが、今日の俺は、いつものように笑って終わるつもりはなかった。
さちこ先生と話して、考えたことがある。
人の気持ちを理解するとは、相手の考えを完璧に当てることではない。
相手が何を考えているのか分からないときに、勝手な答えを作らず、本人の話を聞くことなのかもしれない。
「なあ、みんな」
俺は口を開いた。
「今まで、女性に親切にされたとき、どう思ってた?」
「そら、脈ありやろ」
森川が即答した。
「早いな!」
「だって、興味のない男に親切にする必要ないやん」
「職場の人にも、店員にも、親切にする人はおるやろ」
「それは仕事や」
「ほな、仕事以外で親切にされたら、全部恋愛感情なんか?」
森川は黙った。
数秒後、腕を組んで言った。
「……全部とは言わん」
「やろ?」
「でも、可能性はある!」
「可能性の話をしてるんちゃうねん!」
また笑いが起こった。
ただ、森川の考えは、決して特別なものではないと思った。
俺も同じように考えていた時期がある。
いや、今だって完全に抜け出せたわけではない。
女性が笑ってくれると、うれしい。
名前を覚えてくれていると、特別な存在になれた気がする。
自分の話を聞いてくれると、もっと話したいと思う。
そうした感情が生まれること自体は、自然なのだろう。
問題は、その感情を相手の気持ちだと勘違いすることだ。
「俺も、前はそう思ってた」
俺は正直に言った。
「女性が優しくしてくれたら、自分に気があるんちゃうかって。けど、今考えたら、ただ親切にしてくれただけかもしれん」
「何や、健太。急に成長したみたいなこと言うやん」
中村拓郎がからかう。
「成長したかどうかは分からん。でも、自分がそう思いたかっただけかもしれんって、考えるようになったんや」
藤井が頷いた。
「それは大事やな。相手が何を考えてるか分からんとき、自分の願望を答えにしたらあかん」
「でも、何もせんかったら恋愛なんて始まらんやろ?」
西村徹が口を挟んだ。
「そこが難しいねん」
俺は答えた。
「好意があるかどうか分からんから、何もできん。でも、何もしなかったら、何も分からんままや」
「じゃあ、聞いたらええんちゃう?」
それまで黙っていた山本和也が言った。
「何を?」
「相手がどう思ってるか」
「いきなり『俺のこと好きですか』って聞くんか?」
「……それは、状況によるやろ」
「山本、お前、データ分析の前に人間の勉強せえ!」
田村が突っ込んだ。
山本は眼鏡を直した。
「いや、でも、相手の気持ちを推測するより、直接確認した方が情報の精度は高いやろ」
「情報の精度って言い方が、もう恋愛に向いてへんねん」
藤井が笑った。
俺たちはまた笑った。
しかし、山本の言葉にも一理あった。
もちろん、どんな場面でも直接尋ねればいいわけではない。
相手が答えにくい状況もある。
関係性やタイミングもある。
ただ、想像だけで結論を出すより、相手の言葉を聞く方が確かなことは多いだろう。
「俺はな」
藤井がコーヒーを飲んでから話し始めた。
「昔、付き合ってた女性に言われたことがあるんや。『直樹は優しいけど、私の話を聞いてない』って」
「お前、話を聞いてへんかったんか?」
石田が尋ねた。
「聞いてるつもりやった。仕事で疲れたって言われたら、元気づけようとした。悩んでるって言われたら、解決方法を考えた。会いたいって言われたら、会う時間を作った」
「それ、ええことやん」
森川が言った。
「でも、彼女が欲しかったのは、いつも解決策やったわけちゃうねん。ただ話を聞いてほしいときもあったし、一人で休みたいときもあった」
藤井は少し笑った。
「俺は、彼女のために頑張ってるつもりやった。でも、いつの間にか、自分が頑張ってることを分かってほしくなってたんやと思う」
テーブルが静かになった。
「俺はこんだけしてるのに、何で分かってくれへんねん、ってな」
藤井は続けた。
「けど、相手からしたら、頼んでもないことまで頑張られても困ることがある。もちろん、全部がそうやったわけやないけどな」
俺は、先日の父とのやり取りを思い出した。
心配している。
役に立ちたい。
必要とされたい。
そういう気持ちの中に、自分のための感情が混じっていた。
それを認めるのは、少し苦しかった。
自分の親切を、純粋なものだと思っていたからだ。
「じゃあ、優しくせん方がええんか?」
森川が尋ねた。
「極端やな」
藤井は苦笑した。
「優しくするのはええことやと思うで。ただ、優しくしたからって、相手に何かを返してもらえると思ったらあかんのや」
「何も返してもらえへんかったら、損やん」
中村が言った。
「恋愛を損得勘定で考えてる時点で、しんどいやろ」
「でも、男ばっかり金を出したり、時間を使ったりするのは不公平ちゃうんか?」
中村の声には、いつもの冗談とは違う響きがあった。
藤井はすぐには答えなかった。
「それは、別の話やと思う。どっちか一方だけが我慢する関係なら、続けるのは難しいやろ。自分が何を望んでるかも、相手に伝えなあかん」
「……なるほどな」
中村はコーヒーを飲んだ。
俺は、恋愛というものが少しずつ複雑に見えてきた。
優しくするだけでは足りない。
相手のことを考えるだけでも足りない。
自分の気持ちを押し殺すのも違う。
では、どうすればいいのか。
答えは一つではないのだろう。
*
「ところで、健太」
石田が俺に話を振った。
「お前、最近よく話に出てくる女医さん、どんな人なん?」
「何でその話になるねん!」
「四十二歳で、はっきりものを言う人なんやろ?」
「そうやけど」
「お前、そういう女性が好みなんか?」
俺は少し考えた。
「……分からん」
「分からんのかい!」
「いや、ほんまに分からんねん。尊敬してるとは思う。でも、それが恋愛感情かどうかは分からん」
以前なら、そんな答えは情けないと思っていた。
女性に興味を持ったら、好きなのかどうか、すぐに結論を出そうとしていた。
だが、今は無理に決める必要はないと思えた。
相手をもっと知ってから、自分の気持ちがどう変わるかを考えればいい。
そもそも、さちこ先生は医師だ。
俺が勝手に好意を抱いたからといって、彼女がそれに応える義務などない。
患者の家族に親切にすることと、個人的に親しくなりたいと思うことは別だ。
「健太、お前、えらい慎重になったな」
田村が言った。
「前は女性と少し話しただけで、何かあったんちゃうかって騒いでたのに」
「自分でも、そう思うわ」
「ほな、今はどうしたいんや?」
俺は考えた。
「まずは、自分が相手のことをどう思ってるのか、ちゃんと考えたい。それから、相手が嫌がらん範囲で普通に話せたらええと思う」
「普通に話す、か」
藤井が頷いた。
「それが意外と難しいんやけどな」
「お前、経験者やろ!」
「経験者でも失敗するって、何回言わせんねん!」
笑いが起こった。
だが、そのとき俺は、ふと別の女性のことを思い出した。
地域のボランティアで出会った佐藤真紀さん。
彼女と話したとき、俺は無理に自分をよく見せようとはしなかった。
もっとも、内心では、少しでも好印象を持ってもらいたいと思っていた。
その気持ちまで消えたわけではない。
ただ、彼女が俺に好意を持っているかどうかを、勝手に決めつけることはしたくなかった。
また会える機会があれば、話をしてみたい。
それで十分なのかもしれない。
「なあ、みんな」
俺は口を開いた。
「もし、女性に好意を伝えて断られたら、どうする?」
「諦める!」
井上雅人が答えた。
「俺は、相手に迷惑をかけたくないからな」
「いや、でも、一回断られただけで諦めるんか?」
森川が口を挟んだ。
「状況によるやろ」
藤井が言った。
「相手がはっきり断ったなら、基本的にはその答えを尊重する。曖昧な返事なら、無理に迫らず、相手が考える時間を持てるようにする。どっちにしても、相手の意思を無視して押し続けるのは違う」
「でも、それやったらチャンスを逃すこともあるやろ?」
「あるかもしれんな」
藤井は認めた。
「ただ、チャンスを逃したくないからって、相手の嫌がることをしてええ理由にはならんやろ」
森川は口を閉じた。
俺はその言葉を胸に刻んだ。
恋愛は、自分の望みをかなえるためだけのものではない。
相手にも、望みがある。
相手にも、選ぶ権利がある。
その当たり前のことを、俺たちはようやく真剣に考え始めていた。
*
会議が終わるころには、テーブルの上に空のコーヒーカップと、食べ終えた皿が並んでいた。
結局、誰も恋愛の正解を見つけることはできなかった。
森川は相変わらず自信満々だったし、中村は恋愛にも損得勘定を持ち込んでいた。
山本は相手の気持ちを分析しようとし、井上は相手に嫌われることを恐れていた。
俺も同じだ。
人に好かれたい。
拒絶されたくない。
できれば、傷つかずに恋愛をしたい。
そんな都合のいい願いを、まだ心のどこかに持っていた。
「ほな、次回までの課題を決めようや」
田村が言った。
「課題?」
「相手の話を最後まで聞く。自分の考えを押しつけない。できたら、実際にやってみる」
「何か、学校みたいやな」
石田が笑った。
「三十五歳にもなって、宿題か」
「お前ら、勉強せな何も変わらんやろ」
田村の言葉に、俺たちは黙った。
確かにそうだった。
今までと同じ考え方をして、今までと同じ行動をしていたら、結果も大きくは変わらない。
恋人が欲しいと願うだけでは、恋人はできない。
女性に好かれたいと願うだけでは、女性の気持ちは分からない。
だからこそ、まずは自分にできることを変えていく必要がある。
俺は立ち上がり、仲間たちに言った。
「俺、次のボランティアにも参加してみるわ」
「佐藤さんがおるからか?」
藤井がニヤリと笑った。
「……それもある」
正直に答えると、仲間たちが一斉に騒ぎ出した。
「おおっ、認めた!」
「ついに恋愛が動き出すんか!」
「健太、今度こそ連絡先を聞けよ!」
俺は苦笑した。
「いや、まだそういう段階ちゃうから」
「ほな、どんな段階やねん!」
「俺にも分からん!」
そう言うと、また笑いが起こった。
分からないことを、分からないと言う。
それも、俺にとっては小さな進歩だった。
*
帰り道、俺は一人で駅まで歩いた。
八月の空は、まだ明るかった。
スマートフォンを取り出すと、母からメッセージが届いていた。
『今日はお父さん、調子よかったみたい。ありがとう』
俺は返信を打ちかけた。
『俺が付き添ったおかげやな』
そんな言葉が頭に浮かんだ。
もちろん、冗談だ。
しかし、少し考えて、その文章を消した。
父の調子がよかったのは、俺が付き添ったからとは限らない。
父自身が薬の記録をつけ、医師に相談したからかもしれない。
母が毎日気を配っていたからかもしれない。
あるいは、いくつもの要因が重なった結果かもしれない。
俺は、短く返信した。
『よかったな。父さんにも、記録を続けるように伝えといて』
送信してから、少し笑った。
以前の俺なら、もっと自分の働きを強調していたかもしれない。
自分が役に立ったと思いたかったからだ。
だが、人のために何かをすることは、自分の価値を証明するためだけのものではない。
感謝されなくても、相手が望んでいることなら、手を貸せばいい。
反対に、感謝されることを期待している自分に気づいたら、その気持ちも認めればいい。
大切なのは、自分の気持ちをなかったことにするのではなく、それを相手に押しつけないことなのだろう。
俺は空を見上げた。
恋愛の正解は、まだ分からない。
いや、正解というものが、本当にあるのかどうかも分からない。
ただ一つ、分かったことがある。
俺は今まで、恋愛を始める前から、相手に自分の望む答えを求めていたのかもしれない。
自分を好きになってほしい。
自分を認めてほしい。
自分を必要としてほしい。
その願いばかりが先に立ち、相手がどんな人なのかを知ろうとしていなかった。
これからは、少しずつ変えていきたい。
相手を知ること。
自分を知ること。
そして、相手が自分と違う考えを持っていても、その違いを受け入れること。
簡単ではない。
きっと、これからも失敗する。
それでも、何も変えないまま年齢だけを重ねていくよりはいい。
俺はスマートフォンをポケットにしまい、歩き始めた。
そのとき、画面がもう一度光った。
藤井からだった。
『そういや健太。次のボランティア、いつや?』
『来週の日曜日やと思う』
『頑張れよ。ただし、佐藤さんの気持ちを勝手に決めつけるなよ』
『分かってる』
俺はそう返信した。
しかし、心の中では、まだ一つだけ答えが出ていなかった。
俺は佐藤真紀さんに会いたいのか。
それとも、彼女に好かれる自分になりたいのか。
その二つは、似ているようで違う。
そして、俺が本当に向き合わなければならないのは、彼女の気持ちだけではない。
自分の気持ちだった。




