第26話 四十二歳の女医が、恋愛経験ゼロの男に尋ねたこと
八月に入った。
世間では、新型コロナウイルスの感染拡大が続いていた。
マスクを着けるのが当たり前になり、職場では体温測定や手指消毒が徹底されている。休日に気軽に出かけることにも、どこか気を使うようになった。
そんな夏でも、俺たちの草野球チーム、ドリーム・エース・ナインは活動を続けていた。
もちろん、感染対策には気をつけている。
ただし、野球の実力まで向上しているかといえば、話は別だった。
「健太! 今の打球、捕れたやろ!」
「いや、逆に聞くけど、あれを捕れると思って打ったんか?」
「俺の打球は伸びるからな!」
「ただの大ファウルや!」
練習場に、田村剛の怒鳴り声と森川信也の言い訳が響いた。
俺は苦笑しながら、グラブをはめ直した。
三十五歳になっても、俺たちは相変わらずだった。
高価なグラブを買い、昔の高校野球を懐かしみ、練習後にはうまい飯を食う。
それが楽しいのは間違いない。
ただ、最近は仲間たちとの会話にも、少しずつ変化が生まれていた。
恋愛作戦会議を始めてから、俺たちは以前よりも自分自身の欠点について話すようになったのだ。
「次の会議、テーマは何や?」
練習の休憩中、藤井直樹が尋ねた。
「相手の気持ちを勝手に決めつけないことや」
「ええやん。森川、お前にぴったりやな」
「何で俺やねん!」
「女性に断られたら、すぐ『見る目がない』って言うやろ」
「それとこれとは別や!」
森川が胸を張った。
「俺は女性に見る目があるからな」
「その自信はどこから来るねん」
石田雄二が笑った。
俺も笑った。
しかし、笑いながら思った。
俺だって、他人のことを笑える立場ではない。
女性が優しくしてくれれば、自分に気があるのではないかと思う。
少し会話が続けば、もっと親しくなれるのではないかと期待する。
そして、思いどおりにならなければ、相手の気持ちを考えるより先に、自分の落胆をどうにかしようとする。
森川と俺は、表面上は違っていても、根本的な部分では似ているのかもしれなかった。
「健太、最近は何か進展あったんか?」
藤井が聞いた。
「何の進展や?」
「恋愛に決まってるやろ」
「別に何もないわ」
「佐藤さんとは?」
「会ってへん」
「連絡先は?」
「知らん」
「ほな、何も進んでへんやないか!」
藤井が笑い、周囲も笑った。
俺は反論しなかった。
会いたい女性がいる。
だが、会いたいと思うことと、相手も会いたいと思っていることは違う。
その区別を忘れないようにしようと決めたばかりだった。
焦る必要はない。
ただし、何もしないまま時間だけが過ぎていくのも、少し違う気がしていた。
*
その日の午後、母から連絡があった。
父の薬について、もう一度医師に相談したいという。
前回の診察から数日が経ち、父は薬を飲んだ時間と体調を記録していた。ふらつきは以前より少なくなったものの、完全になくなったわけではないらしい。
母は心配していた。
父は心配されすぎることを嫌がっていた。
その間に挟まれた俺は、どちらの気持ちも分かるような気がしていた。
「健太、お前も来るか?」
父が尋ねた。
「俺が行ってもええん?」
「何や、その言い方は」
「いや、前に一人で話したいって言うてたから」
父は少し考えた。
「今回は薬の記録を見てもらいたいから、一緒に来てくれたらええ」
「分かった」
以前なら、俺は当然のように同行していただろう。
今回は、父から頼まれた。
それだけの違いなのに、俺は少しうれしかった。
自分が必要とされることは、やはり悪い気分ではない。
ただ、そのうれしさを理由に、父が望んでいないことまで引き受けないようにしなければならない。
それが今の俺の課題だった。
*
病院に到着すると、待合室には多くの患者がいた。
マスクを着けた人々が、互いに距離を取りながら座っている。
俺たちも受付を済ませ、順番を待った。
やがて名前を呼ばれ、診察室に入る。
「こんにちは。大野さん、その後はいかがですか?」
井川さちこ先生が、父に尋ねた。
「記録をつけてきました」
父は持参したノートを差し出した。
さちこ先生はページをめくり、記録を確認する。
「きちんと書いてありますね。ありがとうございます。ふらつきが出る時間帯も分かりました」
「薬のせいですか?」
父が尋ねた。
「原因はこれだけでは判断できません。血圧の変化や、ほかの要因も考える必要があります。今日は記録をもとに、薬の内容も含めて確認しましょう」
さちこ先生は、父の話を聞きながら必要なことを一つずつ確認していった。
俺は隣で黙っていた。
父が説明に詰まったときだけ、記録のページを開いて見せた。
それ以上は口を挟まなかった。
診察が終わるころ、さちこ先生が俺を見た。
「大野さんも、何か気になることはありますか?」
「いえ。父が説明してくれたので、大丈夫です」
「そうですか」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「前回より、ずいぶん見守れるようになりましたね」
「……見てたんですか?」
「医師ですから。患者さんだけでなく、ご家族の様子も見ていますよ」
俺は思わず苦笑した。
この先生の前では、下手なごまかしが通用しない気がする。
「俺、前はそんなに余計なことをしてましたか?」
「余計かどうかは、状況によります。ただ、相手が話している途中で代わりに答えると、その人が本当に伝えたいことが分からなくなる場合があります」
「はい」
「ご家族を心配する気持ちは大切です。でも、心配している自分の気持ちと、相手の状態は別のものですからね」
俺は頷いた。
心配しているからこそ、何かしてあげたくなる。
何かしてあげることで、自分も安心できる。
だが、それは相手のためだけではない。
自分の不安を減らすためでもある。
そう考えると、今までの自分の親切が、少し違ったものに見えてきた。
「先生は、誰かを心配したとき、どうするんですか?」
気づけば、俺は質問していた。
さちこ先生は一瞬、意外そうな顔をした。
「私ですか?」
「はい。医師としてじゃなくて、一人の人間として」
言ってから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
相手のことを知りたい。
その気持ちは自然なものだ。
しかし、相手が答えたくないことまで尋ねていいわけではない。
「答えにくかったら、別にいいです」
俺が付け加えると、彼女は小さく息を吐いた。
「そうですね。私も、つい先回りしてしまうことはありますよ」
「先生も?」
「ええ。医師だからといって、私生活で何もかも正しくできるわけではありません」
意外だった。
いつも迷いなく話す人だから、私生活でも同じように振る舞えるのだと思っていた。
「息子がいるんです」
さちこ先生は、机の上の書類を整えながら言った。
「大学生なんですが、こちらが心配して何か言うと、うるさがられることもあります」
「大学生ですか」
「十九歳です。もう自分で考えられる年齢なのに、親としては、つい口を出したくなるんですよね」
彼女は苦笑した。
「転ばないように先回りしても、本人が転んで初めて分かることもあります。頭では分かっているんですけどね」
俺は、その言葉を聞いていた。
さちこ先生にも、思いどおりにできないことがある。
自分の知識や経験だけでは、解決できないことがある。
彼女は完璧な人間ではない。
そのことに、俺は少し安心した。
いや、安心したというより、ようやく一人の人間として彼女を見られたのかもしれない。
これまでは、彼女のはっきりした言葉を聞くたびに、正しい答えを持っている人だと思っていた。
だが、彼女も悩みながら生きている。
自分と同じように、誰かを心配し、失敗し、考え直すことがあるのだ。
「……先生でも、難しいんですね」
「難しいですよ」
さちこ先生は、あっさり答えた。
「人間関係に、いつでも使える正解なんてありませんから」
その言葉が、胸に残った。
*
診察室を出たあと、父は会計へ向かった。
俺は少し遅れて廊下を歩いていた。
すると、後ろから声をかけられた。
「大野さん」
振り返ると、さちこ先生が立っていた。
「はい?」
「先ほどの質問ですが」
「質問?」
「誰かを心配したとき、どうするか、でしたね」
俺は頷いた。
「私は、まず本人に聞くようにしています。何をしてほしいのか。話を聞いてほしいのか、具体的な手助けが必要なのか、それとも一人で考えたいのか」
「……なるほど」
「もちろん、毎回うまくできるわけではありません。でも、聞かずに決めつけるよりはいいと思っています」
彼女はそう言って、軽く頭を下げた。
「では、お父さんをお大事に」
「ありがとうございます」
さちこ先生は、今度こそ診察室へ戻っていった。
俺はその場に立ち尽くしていた。
もっと話したいと思った。
彼女のことを、もう少し知りたいとも思った。
しかし、それが恋愛感情なのかどうかは、まだ分からなかった。
尊敬しているのかもしれない。
自分にないものを持っている人だから、興味を抱いているのかもしれない。
あるいは、俺の話を真剣に聞いてくれる女性が珍しかっただけなのかもしれない。
今までの俺なら、こう考えていたはずだ。
自分のことを気にかけてくれた。
個人的な話をしてくれた。
だから、もしかしたら脈があるのではないか。
だが、今回は違った。
彼女は医師として、俺たちに接してくれた。
そして、自分の経験を話してくれた。
それ以上の意味があるかどうかは、分からない。
分からないなら、分からないままでいい。
少なくとも、今はそう思えた。
*
帰宅した俺は、自室のノートを開いた。
今日の出来事を忘れないうちに、書き留めておきたかった。
一つ目。
心配している自分の気持ちと、相手が本当に必要としていることを混同しない。
二つ目。
相手のことを知りたいなら、相手が話してくれる範囲を尊重する。
三つ目。
正しいことを知っている人でも、すべてを正しくできるわけではない。
書き終えたところで、スマートフォンが鳴った。
藤井からだった。
『今日の会議、明日やるで。お前、テーマ考えたんやろ?』
『考えた』
『何や?』
『人の気持ちを理解するって、どういうことか』
『えらい真面目やな』
『最近、そういうことばっかり考えてるわ』
『ええことやと思うで。ただ、考えるだけで終わらせるなよ』
俺は返信した。
『分かってる』
そう打ってから、少し考えた。
本当に分かっているのだろうか。
俺はまだ、女性と付き合ったことがない。
恋愛において、相手と意見が食い違った経験もない。
自分の気持ちを伝えて、相手から断られた経験すらない。
つまり、俺が今まで考えてきたことの多くは、実際に誰かと向き合った結果ではなく、頭の中で組み立てた理屈にすぎないのだ。
それでも、何も考えないよりはいい。
失敗することを恐れて、何もしないままでいるよりは。
俺はノートを閉じた。
明日は、ドリーム・エース・ナインの恋愛作戦会議だ。
今度こそ、自分の経験のなさを隠すのではなく、分からないことを分からないと言ってみよう。
そのうえで、仲間たちの話を聞いてみたい。
彼らが正しいかどうかは分からない。
俺だって、正しい答えを持っているわけではない。
それでも、十二人で考えれば、何か見えてくるかもしれない。
恋愛経験ゼロの男たちが集まって、恋愛を語る。
冷静に考えれば、ずいぶん滑稽な話だ。
けれど、俺たちにだって、変わる余地はあるはずだ。
少なくとも、俺はそう信じてみたかった。
ただし、ひとつだけ問題がある。
明日の会議で、森川がまた「女は押しや」と言い出したら、俺は本当に冷静でいられるだろうか。
……たぶん、無理だ。
恋愛の勉強より先に、仲間の扱い方を学ぶ必要があるのかもしれなかった。




