第25話 診察室の女医は、俺の恋愛相談には乗ってくれない
七月最後の土曜日。
朝から蒸し暑かった。
俺、大野健太、三十五歳。
恋人なし。交際経験なし。もちろん、キスも経験なし。
そして今日も、恋愛経験値を上げるための特別な予定はない。
……いや、正確に言えば、予定はあった。
父親の通院である。
「健太、今日はお前も来るんやろ?」
朝食を食べていると、父の正一が尋ねてきた。
「うん。薬のこともあるしな」
「もう一人で行ける言うてるやろ」
「でも、最近ふらつくことがあるんやから、念のためや」
「念のため、念のためって。お前は俺を年寄り扱いしすぎや」
「六十七歳は、もう年寄りやろ」
「お前も三十五やないか」
反論できなかった。
父親は新聞を畳み、食卓から立ち上がった。
「自分のことを心配する前に、自分の心配をしたらどうや」
「どういう意味やねん」
「嫁さんの一人も連れてこられへん男が、偉そうに親の心配ばっかりするな、いうことや」
「それは今、関係ないやろ!」
母の美代子が台所から顔を出した。
「お父さん、言いすぎやで。健太にも健太の事情があるんやから」
「事情って、三十五年間彼女がおらん事情か?」
「お父さん!」
朝から、ひどい家族会議である。
俺は黙って味噌汁を飲み干した。
恋愛の話になると、なぜ家族はこうも容赦がないのだろう。
職場では仕事の遅さを指摘され、野球チームでは運動不足を笑われ、家では結婚を心配される。
俺の人生は、どこへ行っても反省会ばかりだった。
*
病院に着いたのは、午前九時半だった。
受付を済ませ、父と並んで待合室に座る。
俺はスマートフォンを取り出し、ドリーム・エース・ナインのグループチャットを開いた。
藤井直樹からメッセージが届いていた。
『恋愛作戦会議の次回テーマ、考えといてくれ』
続けて、森川信也からも届く。
『女の気持ちを理解する方法。経験者の俺が教えてやる』
お前は自分のストライクゾーンすら理解できていないだろう。
俺は心の中で突っ込んだ。
さらに中村拓郎が続ける。
『結局、男は押しや。押して押して押しまくれ』
先日の会議で何を聞いていたのか。
俺は返信しかけて、やめた。
相手の気持ちを確認する。
自分の考えだけで決めつけない。
最近、少しずつ分かってきたことだ。
もっとも、分かったことと、実際にできることは別だった。
「大野正一さん」
看護師に呼ばれ、父が立ち上がる。
俺も続こうとした。
「健太、お前は座っとけ」
「いや、俺も――」
「俺が診察を受けるんや。お前が受けるんとちゃう」
父はそう言って、診察室へ入っていった。
俺は一人、待合室に残された。
少し前の俺なら、父親の体調が心配だからという理由で、当然のように一緒に診察室へ入っていただろう。
けれど、父が自分で話したいのなら、それを尊重するべきなのかもしれない。
俺はスマートフォンをしまった。
数分後、診察室から父が出てきた。
「どうやった?」
「薬を飲んだ時間と、ふらつきが出た時間を記録しとけ言われた」
「それ、俺が書いとこうか?」
「自分で書くわ」
「でも、忘れたらあかんやろ」
「忘れんように書くんや」
父は少し呆れた顔をした。
「お前は、俺が何もできん人間やと思ってるんか?」
「そんなつもりはないけど……」
「心配してくれるんはありがたい。せやけどな、心配することと、何でも代わりにすることは違うんや」
俺は返す言葉を失った。
それは、前回の診察で女医から言われたことと、よく似ていた。
父は会計のために受付へ向かった。
その背中を見送りながら、俺は考えた。
俺は人の役に立ちたいのだろう。
誰かに必要とされたい。
頼られたい。
ありがとうと言われたい。
そして、できれば女性から好かれたい。
その気持ち自体は、悪いものではないはずだ。
問題は、その気持ちを満たすために、相手の望みを勝手に決めてしまうことなのだ。
*
会計を終えた父が、薬局へ行ってくると言った。
「俺も行こうか?」
「ええわ。一人で行ける」
「……分かった」
俺は初めて、すぐに食い下がらずに返事をした。
父は少し意外そうな顔をしたが、何も言わなかった。
そのときだった。
「大野さん?」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、白衣を着た女性が立っていた。
井川さちこ先生だった。
四十二歳。
前回、父の診察を担当してくれた女医である。
「こんにちは。今日はお父さんの付き添いですか?」
「はい。あ、こんにちは」
俺は慌てて頭を下げた。
さちこ先生は父の方へ視線を向けた。
「その後、ふらつきはどうですか?」
「まあ、たまにな。先生に言われたとおり、薬を飲んだ時間を書いとるわ」
「それはいいですね。記録があると、原因を考える手がかりになりますから」
父は得意げに頷いた。
俺は、その様子を見て少し驚いた。
父が医師と自分から話している。
俺が横から口を挟まなくても、何も問題はなかった。
「大野さん」
さちこ先生が俺を見た。
「はい?」
「今日は、何か聞きたいことがありますか?」
「あ、いえ。父のことは、本人に任せようと思って」
「そうですか」
彼女は短く頷いた。
「それはいいことだと思います。ただ、任せることと、放っておくことは違いますからね。必要なときには、ちゃんと声をかけてあげてください」
「はい」
「それと、お父さんが何を望んでいるのか、本人に聞くこと。そこを忘れないように」
また、それだった。
この女性は、どうしてこうも俺の弱点を的確に突いてくるのだろう。
俺は思わず笑ってしまった。
「先生、俺、そんなに人の気持ちを分かってないように見えますか?」
「今の会話だけで、あなたのすべてが分かるわけではありませんよ」
さちこ先生は、あっさりと答えた。
「ただ、自分では相手のためだと思っていることが、相手にとっても望んでいることなのか。それは確認した方がいいでしょうね」
「……はい」
「それは家族でも、友人でも、恋人でも同じです」
恋人。
その言葉が出た瞬間、俺の頭の中で何かが反応した。
もしかして、恋愛相談もできるのではないか。
いや、待て。
ここは病院だ。
彼女は医師で、俺は患者の家族だ。
仕事中の相手に、いきなり恋愛相談をするのはおかしい。
そもそも、俺はまだ彼女のことをほとんど知らない。
名前と年齢、それから率直な物言いをする人だということくらいだ。
それなのに、俺は彼女を、自分の悩みを解決してくれる女性として見始めていないだろうか。
俺は口を開きかけて、閉じた。
「何かありますか?」
さちこ先生が尋ねる。
「いえ。ありがとうございます」
「どういたしまして。では、失礼しますね」
彼女は軽く会釈し、診察室へ戻っていった。
俺は、その背中を見送った。
胸が高鳴ったわけではない。
少なくとも、そう思いたかった。
ただ、彼女の言葉が妙に頭に残った。
相手のために何かをすることと、相手が望んでいることをすることは違う。
俺は今まで、何度その違いを見落としてきたのだろう。
*
病院を出たあと、父と二人で近くの食堂に入った。
冷たい麦茶を飲みながら、俺は先ほどの会話を思い返していた。
「健太」
「ん?」
「さっきの先生、気になるんか?」
麦茶を吹き出しそうになった。
「はあ? 何でやねん!」
「いや、えらい真剣な顔して見とったからな」
「話を聞いてただけや!」
「そうか」
父はニヤリと笑った。
「四十二歳やったかな」
「知らんわ!」
「ええ先生やな。ああいう、はっきり言う人は信用できる」
「……そうやな」
そこは否定できなかった。
さちこ先生の言葉は厳しい。
けれど、相手を傷つけるために言っているわけではない。
必要なことを、必要な言葉で伝えている。
俺には、そう見えた。
「でもな、健太」
父が箸を置いた。
「先生は先生や。仕事をしてる相手に、変な期待をしたらあかんぞ」
「分かってるわ!」
「ほんまか?」
「分かってるって!」
父は満足そうに食事を再開した。
俺はため息をついた。
どうして家族は、俺が女性と少し話しただけで、すぐに恋愛の話に結びつけるのだろう。
……いや。
もしかすると、俺自身がそういう目で女性を見てきたから、周囲も心配しているのかもしれない。
女性が笑えば、自分に好意があるのではないかと思う。
親切にされれば、特別な存在になれたのではないかと期待する。
少し話が弾めば、次の展開を想像する。
そのくせ、相手が本当は何を考えているのか、まともに聞こうともしない。
自分に都合のいい答えだけを、頭の中で作り上げていたのだ。
「……難しいな」
「何がや?」
「人付き合い」
父は少し考えてから答えた。
「簡単やったら、誰も苦労せんわ」
そのとおりだった。
*
帰宅後、俺は藤井にメッセージを送った。
『今日、父親の病院で先生と話したんやけど、相手のために何かをすることと、相手が望んでることをするのは違うって、また言われたわ』
すぐに返信が来た。
『お前、最近その話ばっかりやな』
『大事なことやと思うねん』
『それはそうやな。で、先生って女性?』
俺は画面を見つめた。
『女医さんや』
『何歳?』
『四十二歳』
『お前、何でそこまで詳しいねん』
『診察で聞いたんや!』
『はいはい』
藤井から、笑っているスタンプが届いた。
続けてメッセージが来た。
『でもな、健太。相手の気持ちを考えるのは大事やけど、考えすぎて何もできんようになるのも違うで』
『どういうことや?』
『相手の気持ちは、本人にしか分からん部分がある。だから、想像だけで決めつけるな。でも、全部分かるまで動かへんっていうのも無理やろ』
俺は、その文章を何度か読み返した。
『じゃあ、どうしたらええねん』
『まずは普通に話す。相手の反応を見る。必要なら聞く。嫌がってるなら引く。自分の気持ちも、ちゃんと伝える。そんだけや』
そんだけ。
言葉にすれば簡単だった。
けれど、俺にとっては、その一つひとつが難しい。
『恋愛経験者の言葉は違うな』
『経験者やけど、失敗も多いからな。俺の言うことを全部正解やと思うなよ』
藤井らしい返事だった。
俺はスマートフォンを置き、机の引き出しからノートを取り出した。
最近、気づいたことを書くようにしているノートだ。
新しいページを開き、ペンを走らせた。
一つ目。
相手のために何かをする前に、相手が何を望んでいるのかを確認する。
二つ目。
相手の気持ちを勝手に決めつけない。ただし、分からないことを理由に何も行動しないのも違う。
三つ目。
自分に都合のいい答えを、相手の気持ちだと思い込まない。
書き終えてから、俺はペンを置いた。
ふと、佐藤真紀さんの顔が浮かんだ。
地域のボランティアで知り合った女性。
話していて、自然に笑うことができた。
また会えたらいいと思っている。
けれど、彼女が俺と同じように考えているかどうかは分からない。
それでも、また会いたいと思う気持ちまで、否定する必要はないのだろう。
会いたいなら、また会える機会を探せばいい。
話したいなら、話しかければいい。
ただし、相手が望んでいなければ、無理に近づかない。
それだけのことだ。
俺はノートの最後に、一行を書き加えた。
恋愛は、相手の気持ちを当てるゲームではない。二人で答えを探していくものなのかもしれない。
書いてから、少し恥ずかしくなった。
まるで恋愛の達人が書いた名言のようだ。
実際の俺は、まだ女性と手をつないだことすらない。
理屈を覚えたところで、実践できるかどうかは別問題だった。
「……まあ、ええか」
俺はノートを閉じた。
夕方、ドリーム・エース・ナインのメンバーから、次回の練習試合について連絡が入った。
森川がまた、自分の投球動画を送ってきている。
動画の中の森川は、力いっぱい腕を振り、ボールを投げていた。
ボールは大きく外れ、キャッチャーの田村が横へ飛びのいていた。
俺は思わず笑った。
恋愛も野球も、頭で考えるだけではうまくならない。
失敗して、修正して、また挑戦する。
ただし、野球と違って、恋愛には相手がいる。
自分の練習のために、相手を振り回していいわけではない。
そこだけは、絶対に忘れてはいけない。
俺はスマートフォンを手に取り、藤井に返信した。
『次の作戦会議、テーマを決めたで』
『何や?』
『相手の気持ちを勝手に決めつけないこと』
しばらくして、藤井から返事が来た。
『それ、今のお前に一番必要なテーマやな』
俺は苦笑した。
まったく、そのとおりだった。
そして俺は、まだ知らなかった。
人の気持ちを勝手に決めつけない。
その当たり前のことが、いつか自分の恋愛だけでなく、他人の人生を左右するほど難しい問題になることを。
今の俺は、まだ恋愛の試合に出場したことすらない。
けれど、試合開始のサイレンは、少しずつ近づいている気がした。




