第24話 親切な同僚と、俺だけが知らない現実
月曜日の朝。
大野健太は、いつもより少し早く自動車部品工場に到着した。
七月下旬の大阪は、朝から蒸し暑い。
工場の敷地に入ると、駐車場の照り返しが顔に当たった。空調の効いた事務所へ逃げ込みたい気持ちを抑え、健太は作業着の襟元を整えた。
「おはようございます!」
事務所に入ると、先輩社員の佐伯誠が書類を確認していた。
「おう、大野。早いな」
「今日は、ちょっと余裕を持って来ました」
「ええことや。始業前に慌てると、ろくなことがないからな」
「はい」
健太は自分の席に荷物を置いた。
最近、少しずつ生活を変えようとしている。
朝の散歩を始めた。
身だしなみに気をつけるようになった。
女性と話すときには、相手の反応を勝手に決めつけないように意識している。
どれも、小さなことだった。
だが、何も変えなければ、何も変わらない。
少なくとも、今の健太はそう考えていた。
「大野さん、おはようございます」
声をかけられ、顔を上げた。
三浦美咲だった。
二十九歳の品質管理担当で、仕事に対して真面目な女性だ。必要なことははっきり言うが、困っている人を見かければ、さりげなく手を貸すこともある。
「おはようございます、三浦さん」
「昨日の検査記録、確認しました。修正してもらったところ、問題ありませんでした」
「ああ、よかったです」
「ありがとうございます。これで次の工程に進められます」
美咲は、手元の書類を確認しながら言った。
健太は、少しうれしくなった。
仕事を評価してもらえるのは、やはり気分がいい。
以前なら、その笑顔を見ただけで、余計なことを考えていたかもしれない。
自分に好意があるのではないか。
自分を特別に見ているのではないか。
しかし、今はそう考えなかった。
彼女は仕事の話をしている。
自分の仕事が、きちんと評価された。
まずは、それだけでいい。
「こちらこそ、確認ありがとうございます」
健太はそう答えた。
美咲は軽く会釈し、自分の席へ戻っていった。
その後ろ姿を見ながら、健太は心の中で小さくうなずいた。
今の会話には、無理がなかった。
相手が何を伝えたいのかを聞き、それに答えた。
自分をよく見せようと余計な話を付け加えることもなかった。
これなら、普通の会話として成立している。
そう思った。
だが、健太はまだ知らなかった。
この日の午後、自分の「親切」が、思いがけない問題を引き起こすことを。
*
午前十時。
製造ラインで、小さなトラブルが発生した。
部品の検査記録と、実際の数量に食い違いが見つかったのだ。
「誰や、ここの記録を間違えたんは!」
現場責任者の黒田隆が、厳しい声を上げた。
四十四歳の黒田は、現場での経験が長く、品質や安全に関しては妥協しない。
「すみません。もう一度、確認します」
若手社員の小野寺翔が、慌てて記録を見直した。
「確認しますやない。どこで食い違ったのか、原因を調べるんや」
「はい!」
健太も近くへ行き、記録を確認した。
数量の入力に誤りがあるようだった。
しかし、どの時点で間違いが発生したのかは、まだ分からない。
「小野寺、昨日の作業記録は残ってるか?」
「はい。端末に入力してあります」
「ほな、そこから確認しよう」
健太は、翔と一緒に記録を追った。
作業者の記録。
検査担当者の記録。
部品の移動履歴。
一つずつ確認していくと、入力の段階で数字が一つずれていたことが分かった。
「ここやな」
健太が画面を指した。
「入力時に、数量を間違えたみたいや」
「すみません。僕が入力したところです」
翔が肩を落とした。
「いや、原因が分かったんやから、次は間違えんように確認方法を考えよう」
「はい……」
健太は、翔の肩を軽く叩いた。
「誰でも間違いはある。ただ、同じ間違いを繰り返さんことが大事や」
その言葉は、以前、先輩たちから自分が言われたことでもあった。
仕事で失敗したとき、健太は落ち込む。
しかし、落ち込むだけでは何も解決しない。
原因を調べ、次に同じことが起きないようにする。
それが仕事だった。
「大野さん、ありがとうございます」
翔は、少し安心したように笑った。
「おう。次から気をつけような」
健太も笑い返した。
誰かの役に立てることは、うれしい。
それは、恋愛とは関係なく、仕事の中でも感じられることだった。
*
昼休み。
健太は食堂で、同僚の木村亮と向かい合っていた。
「今日、何かあったんか?」
木村が尋ねた。
「何が?」
「いや、朝から妙に機嫌ええやん」
「別に普通やろ」
「そうか? 何かええことでもあったんちゃうか」
「……仕事がうまくいっただけや」
「ほう。仕事がうまくいったら、そんな顔になるんか」
「どんな顔やねん!」
木村は笑った。
結婚して子どももいる木村は、職場では気さくな男として知られている。
ただし、本人も家庭や仕事の悩みを抱えている。
健太は、木村が何もかも順調な人間ではないことを、最近少しずつ知るようになっていた。
「そういや大野、お前、最近ボランティアに行ってるんやろ?」
「うん」
「どうなんや?」
「どうって、普通に買い物を届けてるだけやで」
「それがええんちゃうか。誰かの役に立つことを、普通に続ける。簡単そうで、なかなかできへんことやと思うで」
木村は、弁当の蓋を閉じた。
「ただな、大野」
「何や?」
「親切にするんはええけど、見返りを期待しすぎたら、しんどくなるで」
健太は、箸を止めた。
「……見返り?」
「例えば、誰かに親切にしたとするやろ。相手が喜んでくれたら、うれしいわな」
「そら、そうやろ」
「でも、相手が自分の期待どおりに反応してくれへんかったら、腹が立つこともある」
木村は、少し苦笑した。
「俺も、家でそういうことがあるねん」
「奥さんと?」
「まあな。仕事で疲れて帰ってきて、子どもの面倒を見たり、家事を手伝ったりする。もちろん、家族のためやと思ってやってる。でも、心のどこかで『俺も頑張ってるんやから、もうちょっと認めてくれてもええやろ』って思ってしまうことがある」
「……それは、あるかもしれんな」
「せやろ。ほんで、嫁が何も言わへんかったら、勝手に不満をためてしまう。でも、嫁には嫁の事情がある。俺が頑張ってることと、嫁が俺の期待どおりに感謝してくれることは、別の話やねん」
健太は黙って聞いていた。
木村の話は、恋愛にも通じるものがあった。
親切にした。
喜んでもらえた。
だから、自分は相手にとって特別な存在なのではないか。
そう考えたくなる。
しかし、相手が感謝してくれたことと、自分を好きになってくれたことは、同じではない。
仕事でも、家庭でも、ボランティアでも。
人は、自分がしたことに対して、何らかの反応を期待してしまう。
その期待が大きくなりすぎると、相手を責めたくなる。
「木村さんも、いろいろあるんですね」
「そらあるわ。結婚したら、全部分かり合えるなんてことはないで」
木村は笑った。
「むしろ、分からんことが増えることもある。相手は自分とは違う人間やからな」
健太は、その言葉を心の中で繰り返した。
相手は、自分とは違う人間。
当たり前のことなのに、どうして忘れてしまうのだろう。
*
午後三時。
健太が検査記録の整理をしていると、美咲が書類を持ってやってきた。
「大野さん、少しよろしいですか?」
「はい。何でしょう?」
「午前中の数量の件ですが、原因が確認できました。入力時の誤りで間違いありません」
「そうですか」
「再発防止のため、入力後に別の担当者が数量を確認する手順を追加しようと思います」
「ええと思います。現場でも、確認する人を決めたほうが確実ですね」
「ありがとうございます。では、その方向で進めます」
美咲は、書類をまとめた。
そのとき、健太は、ふと気になったことを尋ねた。
「三浦さん、最近、忙しそうですね」
「そうですね。品質関係の仕事が重なっているので」
「無理せんといてくださいね」
健太は、何気なく言った。
美咲は、一瞬だけ目を上げた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「そうですか」
「はい。仕事ですから」
美咲は、そう答えて席に戻った。
会話は、それだけだった。
健太は、少し考えた。
自分は、彼女を気遣ったつもりだった。
しかし、彼女は「大丈夫」と答えた。
それなら、必要以上に心配することはない。
もちろん、仕事の負担が大きい可能性はある。
だが、本人が大丈夫だと言っている以上、勝手に「本当はつらいはずだ」と決めつけることもできない。
以前の自分なら、もっと話を続けようとしたかもしれない。
何かあったんですか。
相談に乗りますよ。
いつでも話してください。
そんな言葉を並べ、相手の懐に入ろうとした可能性もある。
しかし、それが本当に彼女の望んでいることなのかは分からない。
健太は、仕事に戻った。
自分の親切を、相手に押しつけない。
それも、人との距離を考えるうえで必要なことなのだろう。
*
ところが、終業間際。
思いがけないことが起きた。
「大野さん、ちょっとええか」
黒田に呼び止められた。
「はい」
「今日、小野寺の件で、お前が手伝ってたやろ」
「はい。入力ミスの原因を一緒に確認しました」
「そのあと、何か話したか?」
「いや、再発防止の方法を考えるように言いましたけど」
黒田は、腕を組んだ。
「小野寺がな、お前に助けてもらったのはありがたかったと言うてた」
「そうですか」
「ただ、ちょっと気になることがある」
健太は、姿勢を正した。
「何でしょう?」
「お前、最近、人の仕事に口を出しすぎてへんか?」
「……え?」
「小野寺の件だけやない。困ってそうな人がおったら、すぐに手を出すことが増えたように見える」
健太は、言葉を失った。
人の仕事に口を出しすぎている。
そんなつもりはなかった。
困っている人がいたから、手伝っただけだ。
失敗した若手がいたから、原因を一緒に調べただけだ。
それなのに、なぜ注意されなければならないのか。
「いや、でも……困ってたんで、手伝っただけです」
「手伝うこと自体が悪いとは言うてへん」
黒田は、落ち着いた声で言った。
「ただな、本人が自分で考えて解決する機会まで奪ったら、成長せえへんこともある。お前が全部先回りしたら、いつまでもお前に頼らなあかんようになるかもしれん」
健太は、先日の病院を思い出した。
支えることと、代わりに全部やることは違う。
また同じことを言われている気がした。
「……分かりました」
「それと、もう一つ」
黒田は、少しだけ表情を緩めた。
「お前が親切にしてることは、みんな分かってる。そこは悪いことやない。ただ、相手が何を必要としてるかを考えて動け。自分が何かしてやりたいという気持ちだけで動いたら、うまくいかんこともある」
健太は、深く頭を下げた。
「はい。気をつけます」
「よし。明日からも頼むで」
「はい!」
黒田は、そのまま現場へ戻っていった。
健太は、その場に立ち尽くした。
親切にしたつもりだった。
誰かの役に立ちたかった。
しかし、相手にとって本当に必要なことだったのか。
自分は、相手のために動いていたのか。
それとも、自分が役に立っていると感じたかっただけなのか。
考え始めると、分からなくなった。
*
帰宅途中。
健太は、駅前のベンチに腰を下ろした。
スマートフォンを取り出し、藤井にメッセージを送った。
『今日、仕事でちょっと注意されたわ』
すぐに返信が来た。
『何したん?』
『困ってる後輩を手伝ったら、口を出しすぎるなって』
『なるほどな』
『俺は、助けようと思っただけなんやけどな』
藤井からの返事は、少し遅かった。
『健太。お前、助けようと思ったこと自体は悪くないと思うで』
『ほな、何があかんねん?』
『相手が何を望んでるかを確認せずに、助けることがあるんちゃうか』
健太は、画面を見つめた。
『……あるかもしれん』
『相手が自分でやりたいことまで、代わりにやってしまったら、相手のためにならんこともある。逆に、手伝ってほしいのに、遠慮して何も言えん人もおる。結局、相手を見て、話を聞くしかないんやろな』
健太は、ため息をついた。
『簡単に言うなや』
『簡単やと思ってへんよ。俺も失敗してきたからな』
その言葉に、健太は少し笑った。
藤井も、何でも分かっているわけではない。
恋愛経験があるからといって、すべての人間関係をうまく扱えるわけではない。
経験のない健太が、すぐに答えを見つけられないのも、当たり前なのかもしれない。
問題は、分からないことを理由に、考えるのをやめてしまうことだ。
健太は、スマートフォンを閉じた。
そして、駅前の人の流れを眺めた。
通勤帰りの会社員。
買い物袋を持った女性。
子どもの手を引く父親。
誰もが、それぞれの事情を抱えている。
自分が見ているのは、その人の人生の、ほんの一部分にすぎない。
笑顔だから幸せとは限らない。
不機嫌だから、自分を嫌っているとも限らない。
親切だから、自分に好意があるとも限らない。
それなのに、自分は、見えたものだけで相手の気持ちを判断してしまう。
健太は、ゆっくりと立ち上がった。
「……まだまだやな、俺」
そうつぶやき、駅へ向かった。
*
その夜。
健太はノートを開き、今日の出来事を書き出した。
一つ目。
相手を助けたいと思ったとき、まず相手が何を必要としているかを確認する。
二つ目。
自分ができることと、相手が自分でやりたいことを区別する。
三つ目。
感謝されることを期待して、親切を押しつけない。
書き終えたところで、健太は手を止めた。
今日の自分は、間違っていたのだろうか。
小野寺を手伝ったこと自体は、悪いことではないはずだ。
だが、黒田の指摘にも一理ある。
自分が手を出せば、短時間で解決することもある。
しかし、相手が自分で考える機会を失うこともある。
では、どこまで手伝えばいいのか。
どこからが余計なお世話になるのか。
その答えは、相手によって違うのだろう。
だからこそ、話を聞く必要がある。
自分の考えだけで決めないために。
健太は、最後にもう一文を書いた。
親切は、相手を思いどおりにするための道具ではない。
ペンを置いたとき、母親が部屋の扉をノックした。
「健太、ちょっとええ?」
「何や?」
「お父さんが、薬のことで聞きたいことがあるんやって」
「分かった。今、行くわ」
健太は立ち上がった。
階段を下りる途中、ふと思った。
父親が何かを聞きたいと言ったとき、自分はまた先回りして答えてしまうのだろうか。
いや、今度は違う。
まず、父親が何を聞きたいのかを聞こう。
自分が知っていることでも、勝手に答えを出さない。
必要なら、一緒に確認すればいい。
それで十分なのだ。
*
翌朝。
健太が出勤すると、小野寺が近づいてきた。
「大野さん、昨日はありがとうございました」
「おう。原因、ちゃんと分かったか?」
「はい。入力後に確認する手順を、今日から試してみます」
「ええやん。何か問題があったら、また相談してくれ」
「はい!」
翔は笑顔で自分の持ち場へ戻っていった。
健太は、その姿を見送った。
昨日の注意を受けたからといって、誰も助けないようにする必要はない。
ただ、助け方を考えればいい。
相手の力を奪わず、必要なときに支える。
それができるようになれば、仕事でも、人間関係でも、少しは変わっていけるのかもしれない。
そのとき、事務所の入口から美咲が入ってきた。
「大野さん、おはようございます」
「おはようございます」
「昨日、黒田さんと話していましたよね。何かあったんですか?」
健太は少し驚いた。
「いや、ちょっと仕事のことで」
「そうですか。何か困っていることがあれば、相談してくださいね」
美咲は、いつもの落ち着いた笑顔を見せた。
健太は、自然に笑い返した。
「ありがとうございます。何かあったら、相談します」
それ以上、余計なことは考えなかった。
彼女が自分を気遣ってくれたことは、うれしい。
しかし、その言葉の意味を、勝手に恋愛感情へ結びつける必要はない。
美咲は同僚として、声をかけてくれただけかもしれない。
今は、それでいい。
健太は仕事に取りかかった。
恋愛の経験は、まだない。
女性との関係も、目に見えて進展しているわけではない。
それでも、自分が変わろうとするきっかけは、日常のあちこちにあった。
病院で父親と向き合ったこと。
ボランティアで真紀と話したこと。
職場で後輩を手伝い、上司から注意されたこと。
どれも、恋愛とは直接関係がないように見える。
しかし、人と関わるという意味では、つながっていた。
相手の気持ちを想像すること。
想像だけで決めつけず、必要なら確認すること。
そして、自分の善意を、相手に押しつけないこと。
健太は、少しずつ学び始めていた。
だが、まだ一つ、気づいていないことがあった。
人は、相手を理解しようとするときでさえ、自分に都合のいい答えを探してしまう。
自分は正しい。
自分は親切だ。
自分は相手のことを考えている。
そう信じたい気持ちが強いほど、見たくない現実から目をそらしてしまう。
そして、健太にも、そんな自分を認めたくない瞬間が、いずれ訪れることになる。
そのとき彼は、初めて、自分が本当に誰かを大切にできるのかを試されるのだった。




