第23話 会いたい女性がいる、それだけで十分なのか
七月下旬。
日曜日の朝、健太は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
午前七時。
いつもなら、休日の朝はもう少し寝ている。
平日は自動車部品工場で働き、帰宅すれば疲れている。草野球の練習も、新型コロナウイルスの影響で以前のようにはできない。
休日くらい、何も考えずに過ごしたい。
そう思っていたはずだった。
しかし、今日は違った。
地域の買い物支援ボランティアの日だった。
高齢者や、買い物に出かけることが難しい住民のために、食料品や日用品を届ける活動である。
健太が参加するのは、今回で三回目だった。
そして、心のどこかで期待していた。
佐藤真紀に会えるかもしれない。
「……何を期待しとんねん、俺は」
布団の中で、健太はつぶやいた。
真紀とは、何度か顔を合わせたことがある。
最初はスーパーで、母親のための商品を探していたときだった。
その後、弁当屋でも会った。
名前を教え合い、地域のボランティア活動でも再会した。
会話は短い。
連絡先も交換していない。
二人で食事に行ったこともない。
それなのに、真紀に会えるかもしれないと思うだけで、朝から落ち着かなかった。
健太は起き上がり、洗面所へ向かった。
鏡を見る。
寝癖のついた髪。
少し丸い顔。
伸びかけた髭。
「これはあかんな……」
誰に会うにしても、最低限、身だしなみは整えたほうがいい。
健太は顔を洗い、髭を剃り、髪を整えた。
クローゼットを開け、何を着ていくか考える。
いつものTシャツでいいのか。
それとも、少し落ち着いた服のほうがいいのか。
結局、紺色のポロシャツと黒いズボンを選んだ。
着替え終わってから、ふと我に返った。
「……俺、何しに行くんやったっけ」
ボランティアである。
女性に会いに行くためではない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、完全に否定することもできなかった。
真紀に会いたい。
もっと話してみたい。
できれば、自分のことも知ってほしい。
その気持ちは、確かにあった。
健太は、ため息をついた。
自分の動機がきれいなものだけではないことは、もう分かっている。
問題は、そんな気持ちがある自分を責めることではない。
その気持ちを理由に、相手に何かを求めてしまわないことだ。
「よし。とりあえず、行こう」
健太は鞄を持ち、階段を下りた。
*
「健太、朝ご飯は?」
台所にいた母親の美代子が声をかけた。
「あとで食べるわ」
「何や、朝から出かけるん?」
「ボランティアや」
「ああ、あの買い物のお手伝い?」
「そう」
美代子は、少しうれしそうな顔をした。
「えらいなあ。昔は休みの日なんか、昼まで寝てたのに」
「昔の話やろ」
「最近、ちょっと変わったな」
健太は返事に困った。
変わったと言われても、自分ではよく分からない。
ただ、今まで見ないようにしていた自分の弱さを、少しずつ考えるようになった。
それだけだ。
「誰か、知ってる女の人でもおるん?」
「……何でそうなるねん」
「いや、急に身だしなみを気にするようになったから」
「ボランティアやから、ちゃんとせなあかんやろ!」
「はいはい」
母親は、まったく信じていない顔で笑った。
「まあ、誰か気になる人がおるんやったら、頑張りや」
「そんなんちゃうって」
健太は逃げるように玄関へ向かった。
母親の言葉が、背中に飛んでくる。
「健太!」
「何やねん!」
「帰りに牛乳買うてきて!」
「分かった!」
最後まで、いつもの調子だった。
*
集合場所の公民館には、すでに数人の参加者が集まっていた。
ボランティアのまとめ役をしている年配の男性が、今日の配達先を確認している。
「大野さん、おはようございます」
「あ、おはようございます」
「今日は少し人数が少ないので、こちらの二件をお願いできますか」
渡された紙には、届け先の住所と、依頼された品物が書かれていた。
健太は内容を確認した。
「分かりました」
「ありがとうございます。暑くなってきましたから、無理はしないでくださいね」
「はい」
健太は買い物袋を受け取り、指定された店へ向かった。
まずは、依頼された商品をそろえる。
牛乳、食パン、卵、野菜。
品物を間違えないように、メモと商品を何度も見比べた。
以前なら、こういう作業を少し面倒に感じていたかもしれない。
しかし、今は違った。
届け先の人には、それぞれ事情がある。
足腰が弱くて外出が難しい人。
家族の介護で買い物に出る時間がない人。
病気の治療中で、人混みを避けたい人。
自分が届ける品物は、単なる買い物ではない。
その人たちの日常を支えるものだった。
もちろん、健太一人が何か大きなことをしているわけではない。
それでも、自分にできることがあるのなら、きちんとやりたいと思った。
配達先の一軒目は、公民館から歩いて十分ほどの場所にあった。
インターホンを押す。
「はい」
「おはようございます。買い物支援の大野です。ご依頼の品物をお持ちしました」
扉が開き、七十代くらいの女性が顔を出した。
「ああ、ありがとうございます。暑かったでしょう」
「いえ、大丈夫です」
健太は袋を渡し、品物を一緒に確認した。
女性は、何度も頭を下げた。
「本当に助かります。最近、膝が痛くてね。ちょっとした買い物でも大変なんです」
「そうなんですね。無理せんといてください」
「ありがとう。若い人に来てもらえると、元気が出ます」
健太は、少し照れくさくなった。
「いえ、そんな……」
女性は笑顔で手を振った。
健太は次の配達先へ向かった。
誰かに感謝されるのは、うれしい。
その気持ちに嘘はなかった。
ただ、以前の健太なら、感謝された瞬間に、もっと大きな意味を求めていたかもしれない。
自分はいい人間なのだ。
誰かに必要とされているのだ。
だから、きっと女性にも好かれるはずだ。
そんなふうに考えてしまう可能性があった。
今も、感謝されたことをうれしく思っている。
しかし、それを恋愛の価値に変換する必要はない。
目の前の女性が、買い物に困っていた。
自分が頼まれた品物を届けた。
それで十分なのだ。
*
二軒目の配達を終え、公民館へ戻る途中だった。
「大野さん!」
後ろから声がした。
健太は振り返った。
佐藤真紀だった。
薄いベージュのシャツに、動きやすそうな黒いパンツ。
手には、いくつかの買い物袋を持っている。
「あ、佐藤さん。おはようございます」
「おはようございます。今日は暑いですね」
「ほんまですね。もう汗だくですわ」
「私もです。さっき、少し遠いところまで届けてきたんです」
「そうなんですか」
真紀は笑った。
「大野さん、慣れてきました?」
「いやあ、まだ三回目なんで。間違えんようにするだけで精いっぱいです」
「でも、丁寧に確認してましたよね」
「見てたんですか?」
「さっき、公民館で少しだけ」
健太の心臓が、妙に大きく鳴った。
自分の行動を見てくれていた。
そう思うと、うれしかった。
だが、すぐに考え直した。
同じ活動をしているのだから、目に入ることもある。
それ以上の意味があるとは限らない。
「佐藤さんは、もう慣れてるんですか?」
「いえ、私もまだ分からないことが多いです。人によって必要なものも違いますし、どこまで手伝えばいいのか迷うこともあります」
「どこまで、ですか?」
「はい。例えば、荷物を玄関まで運ぶだけでいい人もいれば、冷蔵庫に入れるところまで手伝ってほしい人もいます。でも、こちらが勝手に家の中に入るわけにはいきませんから」
真紀は、少し考えるように視線を落とした。
「手伝いたいと思っても、相手がどうしてほしいかは、聞かないと分からないんですよね」
健太は、思わず顔を上げた。
数日前、病院で聞いた言葉と重なった。
支えることと、代わりに全部やることは違う。
そして今、真紀も同じようなことを話している。
「……そうですね」
健太は、ゆっくりとうなずいた。
「この前、親父の病院に付き添ったんですけど、俺、親父が話してる途中で代わりに答えようとしてしまって」
「そうなんですか」
「心配してるつもりやったんですけど、先生に、本人が話すのを待ってあげてくださいって言われたんです」
「なるほど」
「自分では助けてるつもりでも、相手が望んでることと違う場合があるんやなって」
真紀は、静かにうなずいた。
「私も、そういうことありますよ」
「佐藤さんも?」
「はい。心配だから、先回りして何でもやってあげようとしたことがあって。でも、相手からしたら、自分でやりたかったこともあったんですよね」
健太は、真紀の言葉を聞いていた。
もっと聞きたいと思った。
どんな相手だったのか。
何があったのか。
なぜ、そう考えるようになったのか。
質問が、頭の中に次々と浮かんだ。
しかし、そこで健太は立ち止まった。
相手が自分の経験を話してくれたからといって、何でも尋ねていいわけではない。
真紀が話したいことなら、聞けばいい。
話したくないことなら、無理に聞く必要はない。
「……難しいですね、人との距離って」
健太は、そう言った。
「本当にそうですね」
真紀は、穏やかに笑った。
それ以上、二人は深く踏み込まなかった。
それでも、健太にとっては、今までより少しだけ自然な会話だった。
自分がどう思われるかばかりを気にしていなかった。
相手の言葉を聞き、自分の経験を話す。
そのやり取りが、思っていたよりも心地よかった。
*
公民館へ戻ると、数人の参加者が休憩していた。
真紀は、持っていた袋を所定の場所へ置いた。
「大野さん、今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
「また次回も、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
真紀は、ほかの参加者に声をかけに行った。
健太は、その後ろ姿を見送った。
もう少し話したかった。
できれば、もっと仲良くなりたい。
連絡先を交換できたら、うれしい。
そう思った。
だが、今日は聞かなかった。
聞く機会がなかったからではない。
少し話せたからといって、すぐに次の段階へ進む必要はないと思ったからだ。
もちろん、ずっと何もせずにいれば、関係が変わらない可能性もある。
相手を尊重することを理由に、自分の気持ちを隠し続けるのも、違うだろう。
しかし、今はまだ、真紀がどんな人なのかを知っているとは言えない。
数回の会話だけで、相手を理解したつもりになるのは早すぎる。
健太は、鞄からスマートフォンを取り出した。
メモを開き、短く書き込んだ。
『会いたいと思うことと、相手が会いたいと思っていることは違う』
続けて、もう一文。
『自分の気持ちは否定しない。でも、相手の気持ちまで勝手に決めない』
入力を終えると、健太はスマートフォンをしまった。
*
帰宅したのは、昼前だった。
「ただいま」
「おかえり。牛乳は?」
「……あっ!」
健太は、玄関で固まった。
母親の頼みを、すっかり忘れていた。
「もう、何しに行ってきたんよ!」
「いや、ボランティアや!」
「牛乳買うてくるのも、立派な社会貢献やで!」
「それは違うやろ!」
美代子は笑いながら、買い物袋を受け取った。
「まあ、ええわ。あとで買いに行くから」
「悪いな」
「それより、今日はどうやったん?」
「普通やで。買い物を届けてきただけや」
「女の人はおった?」
「……おったけど」
「どんな人?」
「母さん、何でそんなに聞くねん」
「気になるからやん」
健太は、ため息をついた。
母親にとって、息子の恋愛は、いつまでたっても気になる話題らしい。
「佐藤さんっていう人と、ちょっと話しただけや」
「佐藤さん?」
「前に話したやろ。買い物支援のボランティアで会った人」
「ああ、あの人!」
美代子の目が輝いた。
「それで? どんな話したん?」
「普通の話やって」
「連絡先は?」
「交換してへん」
「何でやの!」
「何でって……」
健太は、言葉に詰まった。
連絡先を聞く機会がなかったわけではない。
聞こうと思えば、聞けたかもしれない。
だが、今日は、相手との会話を急いで次に進める必要はないと思った。
「まだ、何回か話しただけやから」
「何回か話したら、聞いたらええやん」
「母さんな、連絡先を交換したら、急に仲良くなれるわけちゃうねんで」
美代子は、少し驚いたように健太を見た。
「……あんた、そんなこと言うようになったん?」
「何やねん」
「いや、前やったら、連絡先を聞けたかどうかばっかり気にしてたやろ」
健太は、何も言えなかった。
確かに、そうだった。
以前なら、連絡先を交換できたかどうかを、今日の成果として数えていたかもしれない。
聞けなかった自分を情けなく思い、次こそはと焦っていたかもしれない。
しかし、今は違う。
何も聞かなかったことが、必ずしも失敗だとは思わなかった。
ただし、何も行動しないことを正当化するつもりもなかった。
「まあ……少しずつやるわ」
健太はそう答えた。
美代子は、しばらく息子を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「そうやな。あんたの人生やもんな」
その言葉に、健太は少し驚いた。
母親は、いつも結婚の話を持ち出す。
早く彼女を作れ。
誰か紹介してもらえ。
いつまで独身でいるつもりや。
そうした言葉を、何度も聞いてきた。
しかし、最後には、こう言った。
あんたの人生やもんな。
健太は、その言葉を心の中で繰り返した。
自分の人生は、自分のものだ。
そして、真紀の人生は、真紀のものだ。
自分が彼女を好きになったとしても、その気持ちをどう受け止めるかは、彼女が決めることだ。
そこを忘れてはいけない。
*
夜。
健太は、ドリーム・エース・ナインのグループチャットを開いた。
『今日はボランティア行ってきた』
そう送ると、すぐに中村から返信が来た。
『で、女と連絡先交換できたんか?』
『してへん』
『何しに行ったんや!』
『ボランティアや!』
健太は笑った。
続いて、藤井からメッセージが届いた。
『真紀さんには会えたんか?』
『会えた。少し話した』
『よかったやん。どんな感じやった?』
健太は、少し考えてから返信した。
『普通に話せた。相手の話を聞いて、自分の話もできたと思う』
『それでええやん』
『でも、もっと話したいと思った』
『そら、そういう気持ちも出るやろ』
藤井の返事は、いつもより少し真面目だった。
『ただな、健太。相手を尊重することと、何もせんことは違うで』
健太は画面を見つめた。
『分かってる』
『ほんまか?』
『……分かろうとしてる』
藤井から、笑った顔の絵文字が送られてきた。
『それなら十分や。焦らず、でも逃げずにな』
健太は、スマートフォンを机に置いた。
焦らず、でも逃げずに。
その言葉は、今の自分に必要なものかもしれない。
相手の気持ちを勝手に決めつけない。
相手が望んでいないことを押しつけない。
しかし、自分の気持ちをなかったことにもしない。
それは、簡単なようで難しかった。
相手に拒絶されるのは怖い。
自分に興味がないと分かるのも怖い。
だから、何もせずにいれば、傷つかずに済む。
けれど、何もしなければ、相手に自分の気持ちを伝える機会もない。
健太は、ノートを開いた。
今日の出来事を振り返り、最後に一文を書いた。
『相手を尊重することは、自分の気持ちを消すことではない。相手の気持ちを知ろうとしながら、自分の気持ちも少しずつ伝えていく』
書き終えたとき、健太は少しだけ前向きな気持ちになった。
真紀との関係が、これからどうなるのかは分からない。
彼女が自分に恋愛感情を持つ可能性もあれば、そうではない可能性もある。
今の段階では、どちらとも言えなかった。
それでも、会いたいと思う気持ちまで否定する必要はない。
ただ、その気持ちを理由に、相手の人生を自分の都合で動かそうとしてはいけない。
健太は、ノートを閉じた。
窓の外では、遠くを走る車の音が聞こえていた。
夏は、まだ始まったばかりだった。
そして、健太が本当に学ばなければならないことも、まだ始まったばかりだった。
次の週、彼は職場で、思いがけない形でその課題と向き合うことになる。
誰かに親切にすることと、誰かに好かれること。
その違いを、今度は仕事の現場で突きつけられるのだった。




