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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第2章 2020年夏――恋愛作戦会議、開幕

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第23話 会いたい女性がいる、それだけで十分なのか

 七月下旬。


 日曜日の朝、健太は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


 午前七時。


 いつもなら、休日の朝はもう少し寝ている。


 平日は自動車部品工場で働き、帰宅すれば疲れている。草野球の練習も、新型コロナウイルスの影響で以前のようにはできない。


 休日くらい、何も考えずに過ごしたい。


 そう思っていたはずだった。


 しかし、今日は違った。


 地域の買い物支援ボランティアの日だった。


 高齢者や、買い物に出かけることが難しい住民のために、食料品や日用品を届ける活動である。


 健太が参加するのは、今回で三回目だった。


 そして、心のどこかで期待していた。


 佐藤真紀に会えるかもしれない。


「……何を期待しとんねん、俺は」


 布団の中で、健太はつぶやいた。


 真紀とは、何度か顔を合わせたことがある。


 最初はスーパーで、母親のための商品を探していたときだった。


 その後、弁当屋でも会った。


 名前を教え合い、地域のボランティア活動でも再会した。


 会話は短い。


 連絡先も交換していない。


 二人で食事に行ったこともない。


 それなのに、真紀に会えるかもしれないと思うだけで、朝から落ち着かなかった。


 健太は起き上がり、洗面所へ向かった。


 鏡を見る。


 寝癖のついた髪。


 少し丸い顔。


 伸びかけた髭。


「これはあかんな……」


 誰に会うにしても、最低限、身だしなみは整えたほうがいい。


 健太は顔を洗い、髭を剃り、髪を整えた。


 クローゼットを開け、何を着ていくか考える。


 いつものTシャツでいいのか。


 それとも、少し落ち着いた服のほうがいいのか。


 結局、紺色のポロシャツと黒いズボンを選んだ。


 着替え終わってから、ふと我に返った。


「……俺、何しに行くんやったっけ」


 ボランティアである。


 女性に会いに行くためではない。


 そう自分に言い聞かせた。


 だが、完全に否定することもできなかった。


 真紀に会いたい。


 もっと話してみたい。


 できれば、自分のことも知ってほしい。


 その気持ちは、確かにあった。


 健太は、ため息をついた。


 自分の動機がきれいなものだけではないことは、もう分かっている。


 問題は、そんな気持ちがある自分を責めることではない。


 その気持ちを理由に、相手に何かを求めてしまわないことだ。


「よし。とりあえず、行こう」


 健太は鞄を持ち、階段を下りた。


     *


「健太、朝ご飯は?」


 台所にいた母親の美代子が声をかけた。


「あとで食べるわ」


「何や、朝から出かけるん?」


「ボランティアや」


「ああ、あの買い物のお手伝い?」


「そう」


 美代子は、少しうれしそうな顔をした。


「えらいなあ。昔は休みの日なんか、昼まで寝てたのに」


「昔の話やろ」


「最近、ちょっと変わったな」


 健太は返事に困った。


 変わったと言われても、自分ではよく分からない。


 ただ、今まで見ないようにしていた自分の弱さを、少しずつ考えるようになった。


 それだけだ。


「誰か、知ってる女の人でもおるん?」


「……何でそうなるねん」


「いや、急に身だしなみを気にするようになったから」


「ボランティアやから、ちゃんとせなあかんやろ!」


「はいはい」


 母親は、まったく信じていない顔で笑った。


「まあ、誰か気になる人がおるんやったら、頑張りや」


「そんなんちゃうって」


 健太は逃げるように玄関へ向かった。


 母親の言葉が、背中に飛んでくる。


「健太!」


「何やねん!」


「帰りに牛乳買うてきて!」


「分かった!」


 最後まで、いつもの調子だった。


     *


 集合場所の公民館には、すでに数人の参加者が集まっていた。


 ボランティアのまとめ役をしている年配の男性が、今日の配達先を確認している。


「大野さん、おはようございます」


「あ、おはようございます」


「今日は少し人数が少ないので、こちらの二件をお願いできますか」


 渡された紙には、届け先の住所と、依頼された品物が書かれていた。


 健太は内容を確認した。


「分かりました」


「ありがとうございます。暑くなってきましたから、無理はしないでくださいね」


「はい」


 健太は買い物袋を受け取り、指定された店へ向かった。


 まずは、依頼された商品をそろえる。


 牛乳、食パン、卵、野菜。


 品物を間違えないように、メモと商品を何度も見比べた。


 以前なら、こういう作業を少し面倒に感じていたかもしれない。


 しかし、今は違った。


 届け先の人には、それぞれ事情がある。


 足腰が弱くて外出が難しい人。


 家族の介護で買い物に出る時間がない人。


 病気の治療中で、人混みを避けたい人。


 自分が届ける品物は、単なる買い物ではない。


 その人たちの日常を支えるものだった。


 もちろん、健太一人が何か大きなことをしているわけではない。


 それでも、自分にできることがあるのなら、きちんとやりたいと思った。


 配達先の一軒目は、公民館から歩いて十分ほどの場所にあった。


 インターホンを押す。


「はい」


「おはようございます。買い物支援の大野です。ご依頼の品物をお持ちしました」


 扉が開き、七十代くらいの女性が顔を出した。


「ああ、ありがとうございます。暑かったでしょう」


「いえ、大丈夫です」


 健太は袋を渡し、品物を一緒に確認した。


 女性は、何度も頭を下げた。


「本当に助かります。最近、膝が痛くてね。ちょっとした買い物でも大変なんです」


「そうなんですね。無理せんといてください」


「ありがとう。若い人に来てもらえると、元気が出ます」


 健太は、少し照れくさくなった。


「いえ、そんな……」


 女性は笑顔で手を振った。


 健太は次の配達先へ向かった。


 誰かに感謝されるのは、うれしい。


 その気持ちに嘘はなかった。


 ただ、以前の健太なら、感謝された瞬間に、もっと大きな意味を求めていたかもしれない。


 自分はいい人間なのだ。


 誰かに必要とされているのだ。


 だから、きっと女性にも好かれるはずだ。


 そんなふうに考えてしまう可能性があった。


 今も、感謝されたことをうれしく思っている。


 しかし、それを恋愛の価値に変換する必要はない。


 目の前の女性が、買い物に困っていた。


 自分が頼まれた品物を届けた。


 それで十分なのだ。


     *


 二軒目の配達を終え、公民館へ戻る途中だった。


「大野さん!」


 後ろから声がした。


 健太は振り返った。


 佐藤真紀だった。


 薄いベージュのシャツに、動きやすそうな黒いパンツ。


 手には、いくつかの買い物袋を持っている。


「あ、佐藤さん。おはようございます」


「おはようございます。今日は暑いですね」


「ほんまですね。もう汗だくですわ」


「私もです。さっき、少し遠いところまで届けてきたんです」


「そうなんですか」


 真紀は笑った。


「大野さん、慣れてきました?」


「いやあ、まだ三回目なんで。間違えんようにするだけで精いっぱいです」


「でも、丁寧に確認してましたよね」


「見てたんですか?」


「さっき、公民館で少しだけ」


 健太の心臓が、妙に大きく鳴った。


 自分の行動を見てくれていた。


 そう思うと、うれしかった。


 だが、すぐに考え直した。


 同じ活動をしているのだから、目に入ることもある。


 それ以上の意味があるとは限らない。


「佐藤さんは、もう慣れてるんですか?」


「いえ、私もまだ分からないことが多いです。人によって必要なものも違いますし、どこまで手伝えばいいのか迷うこともあります」


「どこまで、ですか?」


「はい。例えば、荷物を玄関まで運ぶだけでいい人もいれば、冷蔵庫に入れるところまで手伝ってほしい人もいます。でも、こちらが勝手に家の中に入るわけにはいきませんから」


 真紀は、少し考えるように視線を落とした。


「手伝いたいと思っても、相手がどうしてほしいかは、聞かないと分からないんですよね」


 健太は、思わず顔を上げた。


 数日前、病院で聞いた言葉と重なった。


 支えることと、代わりに全部やることは違う。


 そして今、真紀も同じようなことを話している。


「……そうですね」


 健太は、ゆっくりとうなずいた。


「この前、親父の病院に付き添ったんですけど、俺、親父が話してる途中で代わりに答えようとしてしまって」


「そうなんですか」


「心配してるつもりやったんですけど、先生に、本人が話すのを待ってあげてくださいって言われたんです」


「なるほど」


「自分では助けてるつもりでも、相手が望んでることと違う場合があるんやなって」


 真紀は、静かにうなずいた。


「私も、そういうことありますよ」


「佐藤さんも?」


「はい。心配だから、先回りして何でもやってあげようとしたことがあって。でも、相手からしたら、自分でやりたかったこともあったんですよね」


 健太は、真紀の言葉を聞いていた。


 もっと聞きたいと思った。


 どんな相手だったのか。


 何があったのか。


 なぜ、そう考えるようになったのか。


 質問が、頭の中に次々と浮かんだ。


 しかし、そこで健太は立ち止まった。


 相手が自分の経験を話してくれたからといって、何でも尋ねていいわけではない。


 真紀が話したいことなら、聞けばいい。


 話したくないことなら、無理に聞く必要はない。


「……難しいですね、人との距離って」


 健太は、そう言った。


「本当にそうですね」


 真紀は、穏やかに笑った。


 それ以上、二人は深く踏み込まなかった。


 それでも、健太にとっては、今までより少しだけ自然な会話だった。


 自分がどう思われるかばかりを気にしていなかった。


 相手の言葉を聞き、自分の経験を話す。


 そのやり取りが、思っていたよりも心地よかった。


     *


 公民館へ戻ると、数人の参加者が休憩していた。


 真紀は、持っていた袋を所定の場所へ置いた。


「大野さん、今日はありがとうございました」


「いや、こちらこそ」


「また次回も、よろしくお願いします」


「はい。よろしくお願いします」


 真紀は、ほかの参加者に声をかけに行った。


 健太は、その後ろ姿を見送った。


 もう少し話したかった。


 できれば、もっと仲良くなりたい。


 連絡先を交換できたら、うれしい。


 そう思った。


 だが、今日は聞かなかった。


 聞く機会がなかったからではない。


 少し話せたからといって、すぐに次の段階へ進む必要はないと思ったからだ。


 もちろん、ずっと何もせずにいれば、関係が変わらない可能性もある。


 相手を尊重することを理由に、自分の気持ちを隠し続けるのも、違うだろう。


 しかし、今はまだ、真紀がどんな人なのかを知っているとは言えない。


 数回の会話だけで、相手を理解したつもりになるのは早すぎる。


 健太は、鞄からスマートフォンを取り出した。


 メモを開き、短く書き込んだ。


『会いたいと思うことと、相手が会いたいと思っていることは違う』


 続けて、もう一文。


『自分の気持ちは否定しない。でも、相手の気持ちまで勝手に決めない』


 入力を終えると、健太はスマートフォンをしまった。


     *


 帰宅したのは、昼前だった。


「ただいま」


「おかえり。牛乳は?」


「……あっ!」


 健太は、玄関で固まった。


 母親の頼みを、すっかり忘れていた。


「もう、何しに行ってきたんよ!」


「いや、ボランティアや!」


「牛乳買うてくるのも、立派な社会貢献やで!」


「それは違うやろ!」


 美代子は笑いながら、買い物袋を受け取った。


「まあ、ええわ。あとで買いに行くから」


「悪いな」


「それより、今日はどうやったん?」


「普通やで。買い物を届けてきただけや」


「女の人はおった?」


「……おったけど」


「どんな人?」


「母さん、何でそんなに聞くねん」


「気になるからやん」


 健太は、ため息をついた。


 母親にとって、息子の恋愛は、いつまでたっても気になる話題らしい。


「佐藤さんっていう人と、ちょっと話しただけや」


「佐藤さん?」


「前に話したやろ。買い物支援のボランティアで会った人」


「ああ、あの人!」


 美代子の目が輝いた。


「それで? どんな話したん?」


「普通の話やって」


「連絡先は?」


「交換してへん」


「何でやの!」


「何でって……」


 健太は、言葉に詰まった。


 連絡先を聞く機会がなかったわけではない。


 聞こうと思えば、聞けたかもしれない。


 だが、今日は、相手との会話を急いで次に進める必要はないと思った。


「まだ、何回か話しただけやから」


「何回か話したら、聞いたらええやん」


「母さんな、連絡先を交換したら、急に仲良くなれるわけちゃうねんで」


 美代子は、少し驚いたように健太を見た。


「……あんた、そんなこと言うようになったん?」


「何やねん」


「いや、前やったら、連絡先を聞けたかどうかばっかり気にしてたやろ」


 健太は、何も言えなかった。


 確かに、そうだった。


 以前なら、連絡先を交換できたかどうかを、今日の成果として数えていたかもしれない。


 聞けなかった自分を情けなく思い、次こそはと焦っていたかもしれない。


 しかし、今は違う。


 何も聞かなかったことが、必ずしも失敗だとは思わなかった。


 ただし、何も行動しないことを正当化するつもりもなかった。


「まあ……少しずつやるわ」


 健太はそう答えた。


 美代子は、しばらく息子を見つめていた。


 そして、小さく笑った。


「そうやな。あんたの人生やもんな」


 その言葉に、健太は少し驚いた。


 母親は、いつも結婚の話を持ち出す。


 早く彼女を作れ。


 誰か紹介してもらえ。


 いつまで独身でいるつもりや。


 そうした言葉を、何度も聞いてきた。


 しかし、最後には、こう言った。


 あんたの人生やもんな。


 健太は、その言葉を心の中で繰り返した。


 自分の人生は、自分のものだ。


 そして、真紀の人生は、真紀のものだ。


 自分が彼女を好きになったとしても、その気持ちをどう受け止めるかは、彼女が決めることだ。


 そこを忘れてはいけない。


     *


 夜。


 健太は、ドリーム・エース・ナインのグループチャットを開いた。


『今日はボランティア行ってきた』


 そう送ると、すぐに中村から返信が来た。


『で、女と連絡先交換できたんか?』


『してへん』


『何しに行ったんや!』


『ボランティアや!』


 健太は笑った。


 続いて、藤井からメッセージが届いた。


『真紀さんには会えたんか?』


『会えた。少し話した』


『よかったやん。どんな感じやった?』


 健太は、少し考えてから返信した。


『普通に話せた。相手の話を聞いて、自分の話もできたと思う』


『それでええやん』


『でも、もっと話したいと思った』


『そら、そういう気持ちも出るやろ』


 藤井の返事は、いつもより少し真面目だった。


『ただな、健太。相手を尊重することと、何もせんことは違うで』


 健太は画面を見つめた。


『分かってる』


『ほんまか?』


『……分かろうとしてる』


 藤井から、笑った顔の絵文字が送られてきた。


『それなら十分や。焦らず、でも逃げずにな』


 健太は、スマートフォンを机に置いた。


 焦らず、でも逃げずに。


 その言葉は、今の自分に必要なものかもしれない。


 相手の気持ちを勝手に決めつけない。


 相手が望んでいないことを押しつけない。


 しかし、自分の気持ちをなかったことにもしない。


 それは、簡単なようで難しかった。


 相手に拒絶されるのは怖い。


 自分に興味がないと分かるのも怖い。


 だから、何もせずにいれば、傷つかずに済む。


 けれど、何もしなければ、相手に自分の気持ちを伝える機会もない。


 健太は、ノートを開いた。


 今日の出来事を振り返り、最後に一文を書いた。


『相手を尊重することは、自分の気持ちを消すことではない。相手の気持ちを知ろうとしながら、自分の気持ちも少しずつ伝えていく』


 書き終えたとき、健太は少しだけ前向きな気持ちになった。


 真紀との関係が、これからどうなるのかは分からない。


 彼女が自分に恋愛感情を持つ可能性もあれば、そうではない可能性もある。


 今の段階では、どちらとも言えなかった。


 それでも、会いたいと思う気持ちまで否定する必要はない。


 ただ、その気持ちを理由に、相手の人生を自分の都合で動かそうとしてはいけない。


 健太は、ノートを閉じた。


 窓の外では、遠くを走る車の音が聞こえていた。


 夏は、まだ始まったばかりだった。


 そして、健太が本当に学ばなければならないことも、まだ始まったばかりだった。


 次の週、彼は職場で、思いがけない形でその課題と向き合うことになる。


 誰かに親切にすることと、誰かに好かれること。


 その違いを、今度は仕事の現場で突きつけられるのだった。

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