第21話 父の診察室で出会った、遠慮のない女医
七月の半ば。
大阪の空は、朝からどんよりと曇っていた。
梅雨はまだ明けそうにない。湿気を含んだ風が、住宅街の道路をゆっくりと吹き抜けていく。
大野健太は、玄関で靴を履きながら、父親の大野正一を待っていた。
「親父、保険証持ったか?」
「ああ」
「診察券は?」
「持った」
「薬の手帳は?」
「持った言うとるやろ」
「いや、前に忘れたことあったやん」
「それ、いつの話や」
正一は、少し不機嫌そうに答えた。
健太は苦笑いしながら、父親の持っている鞄を確認しようとした。
「ちょっと見せてみ」
「ええわ。子どもやないんやから」
「いや、確認するだけやって」
「健太」
父親が、じっとこちらを見た。
「お前、最近、人のことを心配するふりして、何でも自分でやろうとするな」
「……は?」
「わしが忘れたら、自分で受付に言うわ」
健太は返事に困った。
父親の言い方は、いつもどおりぶっきらぼうだった。
しかし、最近の健太には、その言葉が妙に引っかかった。
自分は親切にしているつもりだった。
父親のためを思って確認している。
忘れ物をしたら困るだろう。
薬についても、分からないことがあれば自分が代わりに聞けばいい。
そう考えていた。
だが、本当に父親のためだけだったのだろうか。
自分が心配だから。
自分が失敗したくないから。
自分が役に立っていると感じたいから。
そんな気持ちも、どこかにあったのではないか。
「……分かった。今日は自分で確認してくれ」
「最初からそう言うとる」
正一は鞄を持ち、玄関を出た。
健太もその後に続いた。
*
病院に到着すると、待合室には十数人の患者が座っていた。
受付の前では、年配の男性が診察券を探している。
看護師が患者の名前を呼び、車椅子を押す職員が通路を行き来していた。
健太は、病院独特の消毒液のにおいを感じながら、父親の隣に腰を下ろした。
以前なら、病院に来ると別のことも気になっていた。
看護師のなおみ。
優しく声をかけてくれた女性だ。
名前を覚えてもらったときは、正直、うれしかった。
もしかしたら自分に興味があるのではないか。
そんな想像もした。
しかし、今では少し違う考え方ができるようになっていた。
看護師が患者の家族を覚えているのは、仕事上必要なことかもしれない。
笑顔で接するのも、患者や家族の不安を和らげるためかもしれない。
そこに恋愛感情があるかどうかは、別の話だ。
「健太」
「ん?」
「今日は先生に聞きたいことがある」
「薬のこと?」
「ああ。最近、飲んだあとに少しふらつくことがあってな」
「それ、先に言うてくれたらよかったのに」
「今日、先生に聞くつもりやった」
「いや、俺も一緒に聞くから」
「だから、わしが聞くんや」
正一はそう言って、診察室のほうを見た。
健太は口を閉じた。
父親は、助けを必要としていないわけではない。
ただ、自分のことを自分で話したいのだ。
当たり前のことだった。
しかし健太は、心配するあまり、その当たり前を忘れかけていた。
*
「大野正一さん。診察室へどうぞ」
名前を呼ばれ、二人は立ち上がった。
診察室の扉を開ける。
机の向こうには、白衣を着た女性医師が座っていた。
年齢は四十代前半くらいだろうか。
髪は後ろでまとめられ、机の上にはカルテと書類が整然と並んでいる。
女性は二人を見ると、手元の画面から顔を上げた。
「大野さんですね。どうぞ、座ってください」
落ち着いた声だった。
正一が椅子に座り、健太も隣に腰を下ろす。
「今日は、どうされました?」
「先生、実は薬を飲んだあと、ちょっとふらつくことがありまして」
正一が説明を始めた。
健太は隣で、父親の話を聞いていた。
いつから症状が出たのか。
どの薬を飲んでいるのか。
朝なのか、夜なのか。
正一は自分なりに、順番に説明していく。
しかし、途中で少し言葉に詰まった。
「それで、その……薬を飲んでから、しばらくしてな」
「朝食の前ですか、後ですか?」
「ええと……」
「朝食のあとやったと思います」
健太が横から口を挟んだ。
女性医師の視線が、健太に移った。
「息子さんですか?」
「はい。息子の健太です」
「そうですか」
女性は一度うなずいた。
そして、再び正一に視線を戻した。
「大野さん。息子さんではなく、ご本人に確認しています。ご自分で分かる範囲で答えてください」
健太は、思わず口を閉じた。
医師は淡々と続けた。
「正確に分からなければ、分からないで構いません。こちらで一緒に整理しますから」
「あ、はい。すんません」
正一は少し気まずそうに笑った。
健太は、頬のあたりが熱くなるのを感じた。
怒鳴られたわけではない。
失礼なことを言われたわけでもない。
ただ、自分が先回りして答えたことを、静かに止められただけだった。
それなのに、なぜか居心地が悪かった。
女性医師は、カルテを確認しながら質問を続けた。
「ふらつきがあるのは、毎日ですか?」
「毎日というほどではありません。ここ数日で、二回くらいです」
「立ち上がったときですか。それとも、歩いているときですか?」
「立ったときやったかな……」
「どんな感じでした? 目の前が暗くなる感じですか。それとも、体が揺れる感じですか?」
正一は、自分の感覚を思い出そうとした。
「目の前が暗くなるいうより、ちょっと足元が頼りないような……」
「分かりました。いつ起きたか、薬を飲んだ時間、食事の時間も、できる範囲で記録しておいてください。薬の影響かどうかは、今の話だけでは断定できません」
女性は薬の一覧を確認し、追加でいくつか質問した。
健太は、今度こそ口を挟まなかった。
父親が説明に困ったときも、すぐに答えようとはしなかった。
正一は多少言葉に詰まりながらも、自分の症状について説明を続けた。
診察が終わるころには、健太は奇妙な気持ちになっていた。
父親は、自分が思っていたよりも、ちゃんと自分のことを話せる。
ただ時間がかかるだけだ。
自分が先に答えなくても、話は進んでいく。
そんな当たり前のことを、今さらながら実感していた。
*
「ありがとうございました」
正一が頭を下げると、女性医師は診察内容を確認しながら答えた。
「薬については、こちらで確認します。自己判断で飲むのをやめたり、量を変えたりしないでください。ふらつきが強くなる、倒れそうになるなどの症状があれば、早めに医療機関へ相談してください」
「分かりました」
「それから、症状が出た時間や、そのときの状況を記録しておくと、次回の診察で役に立ちます」
「はい。ありがとうございます」
二人が立ち上がろうとしたとき、女性医師が健太に声をかけた。
「息子さん」
「はい?」
「ご家族を心配するのは悪いことではありません」
健太は、少し驚いた。
「ただ、ご本人が話そうとしているときは、少し待ってあげてください。ご本人にしか分からない感覚もありますから」
「……はい」
「支えることと、代わりに全部やることは違います」
その言葉は、思った以上に胸に残った。
健太は、何か言い返そうとした。
自分は父親のために来たのだ。
父親が困らないように、助けようとしただけだ。
そう説明したくなった。
しかし、言葉が出てこなかった。
女性医師の言っていることが、間違っていないと分かっていたからだ。
「ありがとうございました」
健太はもう一度頭を下げ、父親と一緒に診察室を出た。
*
廊下を歩きながら、正一が口を開いた。
「えらい、はっきり言う先生やったな」
「……そうやな」
「けど、言うてることは間違ってへん」
「うん」
「お前、わしが話してる途中で、何回も代わりに答えようとしてたやろ」
「……気づいてたんか」
「そら気づくわ」
正一は苦笑した。
「心配してくれるんはありがたい。でもな、わしはまだ、自分のことくらい自分で話せる」
「分かってるって」
「ほんまか?」
健太は返事をしなかった。
分かっているつもりだった。
けれど、実際には分かっていなかったのかもしれない。
父親を助けたい。
家族の役に立ちたい。
自分がしっかりした息子だと思われたい。
そうした気持ちが混ざり合い、いつの間にか、自分が先に動くことが正しいと思い込んでいた。
恋愛でも同じだった。
女性が親切にしてくれると、相手の気持ちを確かめる前に、自分の中で答えを作ってしまう。
相手が何を考えているのかよりも、自分がどう思われているのかが気になる。
そして、自分の期待に合うように、相手の言葉を解釈する。
父親に対しても、同じことをしていたのではないか。
健太は、歩きながら考えた。
*
会計を済ませ、病院の出口へ向かう途中だった。
「あの、井川先生」
背後から看護師の声がした。
健太が振り返ると、診察室にいた女性医師が、書類を持って歩いてきた。
その隣には、三十代後半くらいの看護師がいる。
「真由美さん、この書類、あとで確認してもらえますか」
「はい。分かりました」
看護師が書類を受け取る。
女性医師は二人の姿に気づくと、軽く会釈した。
「先ほどはどうも」
「あ、はい。ありがとうございました」
健太も頭を下げた。
そのとき、隣の看護師が女性医師に話しかけた。
「先生、次の患者さん、もうお待ちです」
「分かりました。すぐ戻ります」
女性医師はそう答えると、健太たちにもう一度会釈し、診察室の方向へ歩いていった。
健太は、その背中を見送った。
「……あの先生、井川先生っていうんやな」
つぶやくと、父親が横目で見た。
「何や。気になるんか?」
「いや、そういうんちゃうわ」
「ほんまか?」
「ほんまやって」
健太は少し慌てた。
確かに、気になる女性ではあった。
整った顔立ちだとは思う。
しかし、それ以上に、あの言葉が引っかかっていた。
支えることと、代わりに全部やることは違う。
自分のことを心配してくれる人。
自分のために動いてくれる人。
そういう人がいれば、ありがたい。
だが、相手が何を望んでいるのかを聞かずに動けば、親切は独りよがりになる。
健太は、今まで何度もその間違いをしてきたのかもしれない。
「健太」
「ん?」
「帰り、スーパー寄ってくれ。母さんに頼まれたもんがある」
「何を?」
「知らん。メモを見ろ」
正一が鞄から小さな紙を取り出した。
健太はそれを受け取った。
「……これ、字が小さすぎて読みにくいわ」
「老眼や。しゃあないやろ」
「いや、俺に渡すんやったら、もうちょっと大きく書いてくれや」
「文句言わんと、ちゃんと買うてこい」
二人は、いつものように言い合いながら病院を出た。
雨は、まだ降っていなかった。
*
その夜。
健太は自分の部屋で、ノートを開いていた。
机の上には、恋愛に関する本と、草野球の試合予定を書いた紙が並んでいる。
スマートフォンには、ドリーム・エース・ナインのグループチャットが表示されていた。
『今日の恋愛強化計画、参加できるやつは返事くれ』
田村からのメッセージだった。
続けて藤井が書き込む。
『健太、最近どうや? また女性と話したんか?』
健太は少し考えたあと、返信した。
『今日は親父の病院について行った』
『看護師さんか?』
中村が、すぐに反応した。
『お前、病院行くたびに出会い探してへんか?』
『探してへんわ!』
健太は思わず声を出して笑った。
続いて藤井からメッセージが届いた。
『で、どうやったん?』
健太は、今日の出来事を短く説明した。
父親の診察に付き添ったこと。
父親が話している途中で、自分が代わりに答えようとしてしまったこと。
女医に、本人が話すのを待つように言われたこと。
しばらくして、藤井から返事が来た。
『それ、恋愛でも同じかもしれんな』
健太は画面を見つめた。
『相手が何を考えてるか聞く前に、自分が答えを作ってまうんやろ』
『……そうかもしれん』
『相手のために何かするんは悪いことやない。でも、相手が何を望んでるか聞かんかったら、ただの自己満足になることもあるで』
健太は、しばらく返信できなかった。
やがて、ノートにペンを走らせた。
今日、気づいたこと。
一つ。
相手を助けたいと思っても、本人の意思を確認する。
二つ。
相手が話している途中で、勝手に答えを出さない。
三つ。
自分が役に立ちたい気持ちと、相手が助けを必要としていることを混同しない。
書き終えた健太は、ペンを置いた。
これまで、自分は女性に好かれるために、何をすればいいのかばかり考えていた。
優しくすればいいのか。
話を聞けばいいのか。
男らしく振る舞えばいいのか。
けれど、相手のために何かをする前に、相手が何を望んでいるのかを考える必要がある。
それは、恋愛のテクニックではない。
人と関わるための、基本的なことなのだろう。
健太は、今日会った女医の名前を思い出した。
井川さちこ。
彼女は、自分に優しく接してくれたわけではない。
愛想よく話しかけてくれたわけでもない。
むしろ、自分の行動を指摘された。
それなのに、彼女の言葉は、なおみや真紀の優しい言葉とは違う形で、健太の心に残っていた。
もちろん、それを恋愛感情と結びつけるつもりはなかった。
彼女は医師として、必要なことを伝えただけだ。
自分がその言葉をどう受け止めるかは、自分の問題だった。
「……難しいなあ」
健太は天井を見上げた。
恋愛は、相手に好かれるための競争だと思っていた。
しかし、本当に必要なのは、相手を自分の思いどおりに動かすことではない。
相手が自分とは違う人間であることを、認めることなのかもしれない。
そのとき、スマートフォンが震えた。
藤井から、個別のメッセージが届いていた。
『そういや健太。次の作戦会議、ちょっと面白い話があるで』
『何やねん?』
『恋愛経験のある男が、必ずしも恋愛がうまいとは限らんって話や』
健太は眉をひそめた。
『どういうことや?』
『次に会ったとき話すわ。お前だけやなく、みんなに関係ある話やで』
メッセージは、そこで終わっていた。
健太はスマートフォンを置き、ノートを閉じた。
恋愛強化計画。
その名前を聞くと、まだ少し恥ずかしい。
しかし、以前のように、女性に好かれる方法だけを探しているわけではなかった。
少なくとも、今日の健太は、自分が何を間違えていたのかを考えようとしている。
それが、どれほど小さな一歩であっても。
翌週、ドリーム・エース・ナインの男たちは、恋愛について、ある現実を突きつけられることになる。
恋愛経験があることと、相手を理解できることは、同じではない。
そして、その事実を最初に認めなければならないのは、健太自身だった。




